00 少年と黒モフの日常
風に舞う精霊のように、黒い綿のような物が宙に浮いていた。
拳ほどの大きさがある黒い綿が人々の前を通るが、だれもそれを認識せずに素通りする。綿が顔にぶつかっても、行き先を塞いでいても、誰も気にしない。精霊を視認できる者は多数いても、この黒い綿を認識できる者はほぼいなかった。
そんな黒い綿を大量につけた少女が、人通りの少ない橋の上でに一人佇んでいた。
彼女の上半身は、黒い綿でびっしりと覆われていた。もし黒い綿を視認できる人間がいたら、その異様な状態に震えてもおかしくないほどだった。しかし黒い綿は一般人には見えないのでその異常性に誰も気づけない。
少女の視線の前には、深く流れの早い川がある。落ちたら大変なことになる――というのは考えなくても分かることだった。
「……」
少女の瞳は暗く沈んでいた。呼吸もままならないほどの苦しみ、全身が引き裂かれるような痛み、思考が凍り付くほどの絶望――あまりにも辛くて、全てを諦めようとしていた。
少女の頭がゆらゆらとゆれる。右に左に右に左に――。
「――すみません!」
突然左から声をかけられて、ビクリと少女の身体は震えた。
振り向くと同じ年くらいの少年が桃色の花を抱えて立っていた。
襟足の長い髪の色は灰色、大きな猫の目のような瞳は黒。身長があまり高くないせいか、威圧感が全くなく、浮かべる笑顔は人懐っこい雰囲気があった。服装は地味で、普通の街の少年といった感じだった。
「クルナ生花店ってどこにあるか知っていますか?」
「え?」
「オレ、花を届けている最中なんですけど、迷ってしまって。どこにあるか知りませんか?」
「……え、と」
急に話しかけられて驚いたが、少女はその花屋の名前を知っていたし、彼の人懐こい笑顔につられて普通に返事をしていた。――先ほどまで声を出すのも億劫だったはずなのに。
「そっか、全然違う方向来てしまったんですね。ありがとうございます。 あ、よかったら一本どうぞ! お礼です!」
そういって少年は花を一本差し出した。
可愛らしい桃色の花。
少女は『自分には似合わない』と咄嗟に思って、差し出される花を少年の手ごと押し返そうとした。
その指先が、少年の手に触れる――その瞬間。
――ぶふぁあああ!
彼女の周りにびっしりとついていた黒い綿が、少年に触れた指先から弾けた。連鎖して膨らむように上半身を覆っていた黒い綿が、空気に一気に溶けていなくなる。
「あ……」
途端に、少女の重かった身体は急に軽くなり、痛みを訴えていた頭や喉も、痺れを感じていた指先も、消えていく。――死んでしまいたいと枯れていた心も、水を得たように潤いに満ちた。
「……君、この花と同じ色の髪だったんだ」
「え?」
少年は笑っていた。そして少女に花を押し付けると、「じゃあ、ありがとう! あと、もう変なこと考えちゃだめだよ」と砕けた言葉を告げて去っていた。
少女の周りには、もう黒い綿は一つもなくなっていた。