優しい人
「いらっしゃいませ。お席にご案内します」
煌びやかな装飾は無く、落ち着いた雰囲気が流れている店内を、店員の案内で進んでゆく。
「ご注文お決まりでしたら、お声がけください」
案内された席に着いた私はメニューに目を通す。目新しいものは特にない。私はアイスコーヒーを頼もうとして、やめた。
「アイスカフェラテを一つ、それとチーズケーキを」
普段は甘いものを飲まないけれど、今日はあの子が好きなものを頼もうと思った。なんとなくそんな気分だった。
土曜日ということもあって、夕方ともなれば客はそこそこ入っていた。私は一人テキパキと働く、おそらく高校生ぐらいであろう女の子を眺めていた。
(修也は素敵なところで働いているのね)
息子の、たったひとりの息子の働く姿を思い浮かべる。
オシャレなカフェで制服を着て働く息子の姿。それを直接見に来ることを、修也は許してくれるだろうか。
修也と幸は、朝から二人で泊まりのお出かけだ。どうやらお友達の紹介だとか。修也には散々ストレスをかけてしまっている。どうかそれが少しでも解消されればいいのだが。
ストレスの原因そのものが私の責任ではあるが、正直私は何をすればいいのかが分からなくなってしまっていた。
また二人と一緒に暮らせているのは嬉しい。他ならぬ修也が、それを提案してくれたことがたまらなく嬉しかった。
本当なら私がしなければいけなかったこと。本当に、私には勿体無い子供たちだ。
私が親であること、それを諦めるつもりなんか毛頭ない。責任だとかそういうことじゃなくて、私自身がそうでありたいから。
「おいしいわね、ほんとに」
運ばれてきたチーズケーキを一口。ほのかな甘みが口いっぱいに広がっていく。
携帯に幸から送られてきた写真を見ながら、ゆったりとした時間を過ごす。私は幸に朝、今日だけは何も考えないで、のんびりとした時間を過ごしてほしいと言われた。張り詰めた生活を送っている自覚はあった。ただそれを苦痛には感じてはいなかったし、ある意味で私にとっては充実した時間だった。
このままではいけないと、そう心の中ではわかっていたが。
顔に出ていたのだろうか。幸に疲れていると思われてしまったのだろうか。それはわからない。
だけど幸の言うことだ。たとえそこにどんな意図があろうとも、素直にその気遣いを受け入れようと思った。
だけど無理だった。何も考えずになどいられるはずがなかった。何かをしていたかった。あの子たちに関わっていたかった。
そうして足を運んだのが、修也のバイト先であった。
(楽しそうね、二人とも)
送られてきた写真には、笑顔を浮かべる二人が写っていた。それは久しく見ることのなかった屈託のない笑顔だった。
(ありがとう、幸)
私にはできないことだ。修也を心から楽しませて、こうした笑顔を浮かべさせることは、私にはできないのだ。幸がいなければ、とうに途切れてしまっっていたであろう縁。
本当に感謝しかない。
「あの、もしかしてですけど、修也先輩のお母さんですか?」
「ーーーーえ?」
突然そんなことを店員の女の子に聞かれて、私は固まってしまう。お盆を胸に抱え、意を決したかのような表情でまっすぐに見つめてくる。
「そうですけど、どうして?」
別に隠しているわけではないから、正直にそう答える。しかしどうして私が修也の母だと気づいたのだろうか。
「その、前に先輩に家族写真を見せてもっらたことがあって」
「そうなのね」
家族写真、か。それは一体いつ撮ったものだろうか。最後に取った家族写真なんて、それこそあの人が生きていたころだ。
修也は今でもその写真を持ってくれている。その事実が、とても嬉しかった。
「私、榊原汐音って言います。先輩の後輩です」
先輩と言っているのだから、後輩なのは当然では?そう思ったが言うのはやめた。どうやら彼女は、いくらか緊張しているようである。
どうして私相手に緊張を?と思ったが、すぐにある可能性にたどり着いた。
(ああ、そう。好きなのね?修也のことが)
これはほぼ確定だと思う。彼女の瞳は乙女そのものだった。これは私が鋭いわけではないだろう。見ればわかる。これは恋してる少女の顔だ。
でなきゃ、家族写真を見たからと言っていちいち母親の顔など覚えているだろうか。仮に覚えていたとしても、わざわざ話しかけたりするだろうか。
「いつも修也がお世話になっております」
「え!?いや、そんな!私の方がお世話になりっぱなしで……」
そんなつもりはなかったと、そう言わんばかりに頭を下げる榊原さん。
小動物のようでかわいいわね。
「これからも……修也のことをよろしくね」
「っ!!……は、はい!」
ぺこりと頭を下げて、彼女はまた仕事に戻っていく。
(普通だったら、話してくれたのかな)
修也は聡い子だ。きっとだけど、彼女の想いにも気づいているんじゃないだろうか。普段の二人の関係を私は知らないし、これは勘にすぎないけれど、なんだかそんな気がした。
「……待って!」
「ーーーー?」
私は咄嗟に彼女を呼び止めた。彼女は振り返って、首を傾げてこちらを伺う。
彼女は知らないんだと思った。私がどんな人間で、修也にどんなことをしたのかを。
「あ……」
だけど私は、あることに気づいて言い淀んでしまう。
隠していたくなかった。自分の醜さを、取り繕うことはしたくなかった。
だけど気づいてしまった。これを言ったら、彼女は修也から離れてしまうんじゃないかって。複雑な家庭事情なんて無い方がいいに決まってる。厄介な人だと修也が思われてしまうかもしれない。修也からしたらそんな私のエゴは、余計なことに違いなかった。
「ごめんなさい。おかわり、もらえる?」
「かしこまりました!」
結局私は言えなかった。隠していた方がいいと、自分に言い訳してしまった。
彼女の背中を目線で追いながら、醜態は晒すまいと表情を作る。心配なんてかけちゃいけない。聡く、優しそうな子だった。気遣いができるタイプなのだろう。
40分ほど経ってお会計を済ませる。レジに立っているのは少々強面の男性だった。
自己紹介をするかは迷った。だけどやめた。榊原さんにはバレてしまったけど、そもそも修也が私がこの店に来ることを、よく思わない可能性だってあるのだ。だから私は隠した。
そう、隠すつもりだった。
「私はーーーー息子がお世話になっております。初めまして、修也の母です」
言ってしまった。その理由は単純だった。
母親らしいことをしたかった。自分勝手で、エゴで、浅ましい気持ちであると自覚はあったけれど。
母親としてお礼を言う。そんな当たり前のことをすることを、私は今までできていなかった。
そうすることを、許して欲しかった。
(私は、修也に許して欲しいんだわ)
許されなくても償い続ける覚悟はある。
でもやっぱり、許して欲しいのだ。
傲慢な想いであることは分かっている。
だけど。だけど。だけど。
ごめんって言って、いいよって許して欲しい。
そんな関係性に、私は戻りたいんだ。
許す許さないにこだわるつもりはなかった。そんな簡単な問題ではないし、修也の心の傷はそんな浅いものでもない。
だけどーーもう願ってしまった。
「こちらこそ、修也君にはよく働いてもらってますよ」
ぺこりと、頭を軽く下げてそう一言。それだけで会話は終わってしまった。
だけど嬉しかった。修也の母親として存在が認められた気がした。
だけど足りない。修也自身にそう思ってもらわなければいけない。
店を出る。足取りは軽くなんかない。舗装されたアスファルトが、いつもよりなんだか険しい道のりに感じた。
「あのっ!!」
呼びかけられた声に振り返る。そこには息を切らした榊原さんの姿が。
「私の……私の好きな人はっ!強くなんかないんです!」
「!!」
大きな声で、周りの注目など意に返さず、彼女は続けた。
「頑固で、意地っ張りで、ちょっと鈍感で、たまに変わり者な所もあるけどーーーー」
彼女は息を吸い込んで、晴れ晴れとした顔でこう言った。
「優しい人なんです!!だから私はーーーー」
彼女が最後の言葉を言うことはなかった。十分に伝わってきたから、その必要はなかったけれど。
「本当に、ありがとうございます」
腰を折って頭を下げる。彼女は私のそれを止めることはなかった。
きっと事情を知っていたのだろう。その上で、私にこんな声をかけてくれた。
本当に、ありがとう。
彼女は走って店に戻って行った。その姿が見えなくなるまで、私は振り返らなかった。




