温泉のせい
お待たせしました...!
「それで、どこにいくつもりだ?」
「うーん。とりあえず遠くかな?」
遠くに行く。そんな幸の言葉から始まったデートだったが、まさか言葉通りの意味だとは思っていなかった。
時刻は10時を少し回ったところ。俺は幸と電車に揺られながら、目的地の知らない旅をしていた。
「今日はどこ行こうかねぇ」
「どこ行こうかってお前なぁ」
行き当たりばったり感を出しているが、実はそんなことがないのに俺は気づいていた。ただふらつくのを目的としているにしては、足取りが確かすぎるし迷いがない。てか、俺の提案は全部却下されてるし、確かな目的地が幸の中にはあるのだろう。
「ふふっ、楽しいね?」
「さいですか」
幸の方もバレてることは百も承知だろう。その上でこの演技をしているということは、本当にただ純粋にこのやりとりが楽しいのだろう。
ここは幸の思惑に乗るとしよう。悪いことには絶対ならないだろうし。
それにこんなお出かけにワクワクしないわけがないし。
ーーーー
「わぁ!!こんなところに素敵な旅館が!?」
「無理があるんだよなぁ」
電車に揺られること、なんと2時間である。それもめったに乗るようなことのない、特急号みたいなもの挟んだ上で、だ。明らかに計画的な移動であり、こんな大根芝居に騙されるわけはなかった。
「決めた!今日はここに泊まろう!」
「こんな素敵な場所に泊まるお金ないですけど?」
それは見てわかるお高い旅館だった。そもそもこんな所に来るなんて思ってなかったから、お財布の中は対して潤っていないのだ。それにここは観光地でもあるよだった。だって電車降りたら海だもん。夏休みでもないのに、出店とかいっぱいだったし。どう考えても思いつきで来るようなところではないのだが?
「大丈夫!きっと哀れな庶民に恵んでくれる良い人がいるから!」
「いるわけないだろ。あっ、ちょ、幸!?」
俺の諸々の心配はどこ吹く風と、幸は俺の手を引いて旅館の中へと入っていく。
「さっちゃーん!待ってたよ〜」
「お待たせ沙織!今日はありがとね〜」
そんな俺たちを出迎えたのは、どこか見覚えのあるような少女で……。
「沙織って、もしかして山城さん?」
「覚えていてくれたんですねー!そうです!山城沙織です!」
ビシッと敬礼を見せて微笑む彼女は、最後に見た記憶よりもかなり大人びているように感じた。
幸のことをさっちゃんと呼ぶ彼女は、幸の幼稚園からの友達だ。まだ小学生の頃だが、何度か幸と彼女と3人で遊んだことがあった。
まぁそれ以降はお察しである。何度か家に遊びにきていたみたいだけど、俺は部屋から出てこなかったしな。
「どうして山城さんがここに?」
「昔みたいに沙織でいいですよ!経緯はさっちゃんに聞いてね!とりあえずここじゃなくて、お部屋案内しますね!」
フランクな彼女の言動に、確かな気遣いが含まれているのに気づく。もしかして彼女は。
「私ね、さっちゃんから事情は色々聞いてるの。相談役というか、とりあえずそんな感じね?」
「それはなんというか……ありがとう」
落ち着きを感じさせる木造の廊下を歩きながら、沙織は耳打ちしてそんなことを言ってきた。どうやら我が家の事情を色々と知っているようだ。
「まぁともかく、お兄さんが元気そうでよかったよ」
「二人でなんの話?一応私も放置しないで欲しいんですけど!!」
頬を膨らませた幸に俺たち二人は笑った。何というか昔を思い出す。こうして3人で遊んだのが本当に懐かしい。
「お部屋はここね?それじゃ、ごゆっくり〜」
「また後でね、沙織」
俺たちを部屋に案内した沙織は、簡単な説明をした後下がってしまった。俺としてはもっと状況を説明してほしかったのだが。
「で、どういうことなんだ?というか、一泊するなんて聞いてないぞ」
「えっとね〜。とりあえずここがどこかって話からなんだけど」
曰く、ここは沙織の叔父さんに当たる人が、今夏オープンさせる旅館らしい。いわゆるプレオープンというやつだ。
「それでね、本当はこの部屋も泊まる人がいたんだけど、その人が一昨日から体調崩しちゃったみたいで」
そしてこの部屋が空くというのが確定したのが今朝らしい。昨日の夜の時点で幸はその話を知っていて、もし部屋が空いたらと誘われていたらしい。
「若い人向けの宿泊プランみたいなのもあって、感想とかいろいろ聞かせて欲しいんだってー」
なるほど。幸と沙織は今も仲が良くて、今回白羽の矢に立ったのはわかった。だけどなぁ。
「昨日のうちに言ってくれよ。てか、明日の予定とかどうするつもりで」
「バイトもないでしょ?この土日お兄ちゃんが暇なのは、ちゃんと汐音ちゃんに聞いてたもん」
汐音って、もしかしなくても榊原だよな?いつのまにか連絡先を?てか、二人がこれまで会ったことって無かったはずだが?
「それにお兄ちゃん、最近は用事あったら事前に教えてくれるじゃん。今回は急なことだったし、許して?ね?」
別に怒ってるわけじゃないからいいけどね?
それにテーブルの上に置かれた案内の、海が見える露天風呂にはかなり心惹かれる。せっかくの機会なのだ。楽しまなければ損である。
あ、でも。
「俺、下着とか持ってきてないんだけど」
「もちろんご用意しております」
すっと、リュックから俺の下着を取り出す妹。
さすがでございます。
ーーーー
流石に事が急すぎたかと思ったりもしたけど、お兄ちゃんはこんぐらい強引じゃなきゃ、色々勘繰っちゃうことを私は知っている。沙織の誘いが急だったのは事実だけど、どうせならサプライズしてやろうと思ったのだ。
さすがは観光地といったところか。お昼時ともなると大通りには沢山の人混みがあった。
私はお兄ちゃんを連れて、海沿いに並ぶ様々な土産屋を眺めながら歩いていた。
「えいっ」
人が沢山いるのだ。はぐれたら大変である。私は手を繋ぐ……のは少し気恥ずかしかったので、お兄ちゃんの腕を取って抱き抱える。こっちの方が恥ずかしいことしてる気もするが、もう気にしない、今更だ。
「あのー幸さん?」
お兄ちゃんは困ったような顔をして、意図を探るようにこちらを顔を覗き込んでくる。そんな顔されると、もっと意地悪してやりたくなる。
「なに?」
何にもわかってないふりをして、私はとぼけて見せた。もちろんそんなことはお兄ちゃんには筒抜けだろうが、そんな私の態度に諦めたのか、「なんでもないよ」と私のわがままを受け入れた。
そう、これはわがままだ。私に許された独占だ。
「楽しいね、なんか」
「そうだな、なんかな」
別にまだ何にもしてないけど、それでも楽しいと思えるのだ。きっとこれからもっと、それは楽しい時間が待っているに違いない。
私たちはぶらぶらと、海を眺めたりしながらゆっくり歩いた。途中昼食を挟み、ひとまず満足したところで、私たちは宿に戻ってきた。
出迎えてくれた沙織ちゃんに夕食の時間を伝え、それまでは温泉で疲れを癒そうということになった。
お兄ちゃんと別れ、私は一人浴場へと向かう。途中で待ち合わせていた沙織と合流して、二人で入浴した。
「さっちゃん、今日はどうだった?」
「おかげ様で、すごい楽しかったよ」
露天風呂で海を眺めながら、私は沙織の質問に答える。今日したことを話しながら、心地よい風に癒される。
だけど私の心は、どこかでそれに反発しているようで。
「さっちゃん、何か不安なことでもあるの?」
ドキリと、沙織の問いかけに私は驚いた。
「そう見える?」
「うん。見えるよ。なんというか、焦ってる感じ?」
沙織が一体、何を思ってそんなことを言ってるのかはわからない。表情?仕草?それとも勘?いずれにせよ、付き合いの長い沙織が言うのだ。どこか私は普段と違うのだろう。
そして私には自覚があった。彼女の言う通り、私は焦っているのだ。
「なんかさ、お兄ちゃんはもう大人なんだなぁって」
私がお兄ちゃんの立場だったとしたら、私は私のことを許せただろうか。
多分、無理だと思う。身内だからって、あれだけのことをした妹を私は多分許せない。
実際にその立場になることはないから、これはたらればだ。もしかしたら私にだってお兄ちゃんみたいに、寛大な心を持ってして許せてしまうのかもしれない。
「お兄ちゃんはさ、いつか家を出てっちゃうんだよね」
それは家庭環境に関係なく、いつかは自立するという意味で、避けようのない別れを意味していた。
「何かさ、そう考えると寂しいというか、何より私には時間がないんだなって思ったの」
また四人で家族に。私の願いはひどくわがままなのだ。
もしお兄ちゃんが大学に通うのに、一人暮らしを選んだら?何もおかしいことじゃない。今までだって出来ていたのだ。お兄ちゃんにとってそれは、現実的な一つの選択肢だ。
私のわがままで、お兄ちゃんの選択肢を潰してはいけない。それは絶対的に侵してはならない領域だ。
今までの兄にとって一人暮らしとは、迫られた選択であった。だけどこれからは違う。未来のために進んで選ぶことになるのだ。
「さっちゃんはできた妹だねぇ」
「そんなことないよ。お兄ちゃんに迷惑かけてばっかり」
本当に、優しい兄なのだ。だから甘えることを許されているのだ。すごいのは私じゃない。すごいのは、私にそうさせてくれるお兄ちゃんなのだ。
「お兄ちゃんのこと、大好きなんだね」
「うん。そんなの当たり前じゃん」
だってお兄ちゃんだから。お兄ちゃんでいてくれたのだから。
「うちなんて、兄貴となんか全然仲良くないよ?」
「そうなの?」
「そうだよ!家にいても邪魔だし変に構ってきてなんかキモいし、私なんていつも、早く就職して家出ないかなーって思ってるよ」
でもね、と沙織は続ける。
「でもさ、兄妹なんだよね。言葉じゃ表せないけど、そこにはやっぱり、特別な何かがあるんだよね」
仲良くなくたって兄妹。何か、すごくいい感じだ。
「仲良くないうちだって、なんだかんだ家族できてるんだよ。だからさっちゃんは大丈夫。あんないいお兄ちゃんなんだから、ね?」
「……うん。きっとそうだよね!」
「そうだよ。だからそんなに気を張らないでさ。たまには目一杯甘えてみたら?わがまま言ってさ、ちょっと困らせるぐらいがちょうどいいって思うけどな」
「うん。ありがとね、沙織」
どういたしまして。そう言って沙織は湯から上がる。自分の兄のことを言ったからなのか、その耳が少し朱色に染まっているように見えたが、この素敵な温泉のせいということにしておこう。
きっと私だって、沙織とおんなじだろうから。




