雨と、君と
「ところでだが、家の方には何時ごろ戻る予定なんだ?」
「それは」
しんみりとした空気の中、その静寂を破るようにおじいちゃんが問いかけてくる。家というのは、もちろん俺たち家族が住んでいた家だ。
「正直さ、もうちょっと拗れる感じになるかなって思ってたんだけど、思ったよりも普通でなんともないっていうか、二人には悪いんだけどさ、最初から三人でもよかったんじゃないかって思ってたりして」
「まぁ俺たちへの迷惑はどうでもいいんだが、そうか、それならいいんだ。好きなだけいて、好きな時に出て行きなさい」
最初は本当に三人で暮らすのに不安が大きくて、こんな方法をとったわけなんだが。思いの外三人で暮らすのに問題がなく、なんならすぐにでも家の方には戻れる気はする。
もちろんぎこちなさはあるし、問題の解決とは違うのだが、そう思えるだけの空気は俺たちにはあるのだ。
「そもそも一人暮らしを続けるかも未定だし。高校の距離を考えるとその方が便利なのは間違いないし、その距離感がまだちょうどいいのかもしれないし」
別に一人暮らししてるから、家族仲が悪いなんてことにはならない。高校を卒業して、できるのなら大学進学。それから一緒に過ごすでも問題はないのだ。
「とにかくさ、ありがとねおじいちゃん。気楽にやってみるよ」
「そうだな。お前ももう子供じゃないんだな」
そんなことはない、なんて言葉を俺は飲み込んだ。
まだまだ大人になんてなれやしないけど、いつまでも子供でいられはしないんだ。
だから目指さなきゃいけない。少しでも大人に、少しでも後悔のない未来のために。
俺はそれを願ったのだから。
ーーーー
「今日はお客さん少ないですねー。雨降りそうですし、しょうがないかもですけど」
午後。学校は行かない俺だが、バイトには出ていた。学生としてどうなのかと言われれば、悪いという自覚はあるけれど、店長や榊原に隠してるわけでもないし良しとしよう。
店内はガラガラだ。この後の天気は強めの雨らしいから、それの影響もあるだろう。
「二人とも、今のうちに休憩入っちゃってくれ」
「はーい」
「わかりました」
店長の指示で、二人揃ってバッグヤードへ。椅子に対面に座って一息つく。そして榊原がこんなことを聞いてきた。
「先輩って、成績は大丈夫なんですか?先輩通ってるとこ、結構頭いいところですよね?」
「ああ、成績ね。一応心配ないかな。それなりに勉強はしてるし」
嘘じゃない。おじいちゃんちに住まいを移してからは、遅れないように今まで以上に勉強してるし、その点は先生にも相談済みだ。出席日数さえ気にすれば問題はない。
「そう言う榊原はどうなんだ?勉強できるのか?」
「え、私ですか?私はまぁまぁですかね。もう本当に中の中です。特に目標もないですし、ずっとこんな感じになりそうですかなーって」
「部活とかはやってるのか?」
「私は帰宅部ですよー。私めちゃくちゃ運動音痴なんですよ。かと言って文化部は興味ある物なかったし。ま、今はバイトが楽しいからいいんですけどね」
榊原は運動が苦手なのか。それはなんだか意外だな。活発なイメージだから、勝手にその類も得意だと思い込んでいた。
「珍しいですね。先輩がそんなこと聞いてくるなんて」
「え……あ、嫌だったか?そうだったらごめんな」
「もーそう言うんじゃないですってば。ただ今まで、そんなこと聞いてきてくれなかったし、私としては嬉しいですよ?」
「……それは何よりだよ」
首を傾げながら、上目遣いにそんなことを言ってくる。俺はそんな榊原に、つい目を逸らしてしまう。
「あ、照れた」
「照れてない」
「いいや、照れました」
「……勘弁してくれ」
俺の困った顔を見て満足したのか、榊原はそれ以上からかってくることはなかったが、心なしか口元が緩んでいる。これはしばらく擦られそうだ。
休憩を終え、その後1時間ほどで雨が降ってきた。
その後は何人かの客が入って、その日の業務は終了。榊原と一緒に店を出て、傘を差し並んで歩く。以前一回家の近くまで送った時から、榊原を送って行くようになった。
「ねぇ先輩、先輩はこれからどうするつもりなんですか?」
そう問いかけてきた榊原の視線は前。だけどその横顔から、軽い気持ちで問いかけてきたわけじゃないのが容易にわかった。
「学校に行かないで距離を置こうっていうのもわかりますし、実際にそれである程度解決すると思います。まぁあくまで先輩の中でですけど。きっと先輩は腫れ物になって、これ以上手を出されないと思います。証拠もあるんですよね?相手がよっぽど馬鹿じゃなければ、手を引くと思います」
榊原の言う通り、それが最初の目論みだ。他者との関わりを諦めてしまえば、今回のことは簡単に片付く。
なぜって、白河たちは知ったからだ。あの真実が偽りで、自分達が間違っていたことに。
だから俺が追求さえしなければそれで終わる。俺次第で無かったことにできる。
主導権は、宮島の登場でこちらに移った。宮島が送ってくれたある録音。それがこちらの手にある以上、「証拠」もぬかりない。
最初はそうするつもりだった。無かったことにして、高校生活を終える。人間関係をリセットして、その先を心機一転頑張っていこう、と。
「私はそれ、すごい悔しいです」
震えた声で、榊原は言った。俺は視線を前に移した。そうすれば全部雨のせいにできる。彼女はきっとそれを望んでいる。
彼女は俺を困らせたいわけではないだろうから。
「おかしいじゃないですか。被害者の先輩がなんで気を遣わなきゃいけないんですか。いいんですよ。全部ぐちゃぐちゃにしちゃって。どうせリセットするなら、全部壊しちゃえばいいじゃないですか」
震えた声に、それでも力強さを感じる。彼女の言葉は真っ直ぐで、彼女の望みを伝えてくれる。
自分を大事にしてほしい、と。
実際に投げかけられた言葉を、胸中で反芻する。
「結局先輩は我慢ばっかりです。逃げることが悪いなんて言わないし、全く思いませんよ?でも先輩のそれは諦めですよ。逃げて得るものはあっても、諦めて手に入るものなんて、たかが知れてますよ」
だから、と榊原は続けた。依然お互いに視線は前方。顔も合わせず、それでもその声に篭った熱は逃さないようにして。
「ちゃんと悲しんで、ちゃんと泣いてほしい。それで最後には、ちゃんと笑っていてほしい。諦めるのは最後にしてくださいよ?」
それを聞いて俺は、報われた気がしたんだ。
今までの悩みも、後悔も、悔しさも。家族以外でそれを肯定してくれる人がいることに、安堵した。
頬を伝うそれを、決して雨のせいになんかできなかった。
「急にごめんなさい。こんな話して」
「それは」
困らせちゃいましたねと言って、前方に出て振り向いた彼女は笑った。
そして、言った。
「先輩、好きです」
「榊原」
「私、先輩のことが好きなんです」
自然に、当然のことのように、彼女は真っ直ぐに告白した。視線は確かに俺を捉え、その瞳は俺が目を逸らすことを決して許さなかった。
意外だ、なんて思うわけではない。彼女はその好意を隠してこなかったから。
ただ、俺が気づかない振りをしていただけだから。
返事をしなければいけない。
彼女の真っ直ぐな想いを、裏切ることなんかあっていいわけがない。
「返事はまだ、保留でお願いしますね?」
「保留?」
「だって後輩の話で泣いちゃうようなヘタレ先輩を、好きになった覚えなんかないですもん。だから、全部解決して、頼れる先輩に戻ったら返事をください。私、待ってますから」
「……ああ、わかったよ」
確かに、そんな榊原の言葉に「助かった」なんて思っているうちは、彼女の想いに応えられる自信がない。
「じゃ、私も恥ずかしいんで帰りますね!送ってくれてありがとうです!」
「ああ……こちらこそありがとな、榊原」
そう言って、こちらを振り返ることなく走り去っていく榊原を、雨の中一人立ち尽くし見送った。
空を見上げる。浮き足だった心とは裏腹に、依然暗い様相を映し出す。
だけど、不安じゃなかった。
無条件の信頼を、俺は信用していなかった。
理由が欲しかった。行動に原理を求め、理由がなければ一歩も踏み出せなかった。
だけど知ってしまった。鮮烈に知らされた。
理屈を超える想いが、この世には確かにあるのだと言うことを。




