始まり
今暮らしている家から、電車で1時間半ほど。そこからバスで15分。私は目的地に到着した。
私ーー喜多見多恵子は、今は亡き夫の実家に帰ってきていた。
「お久しぶりです。お義母さん、お義父さん」
「よくきたわね、多恵子さん。ささっ、上がって上がって」
お義母さんとお義父さんは、私を気前よく迎えてくれた。
二人にとって、私は夫が残した数少ない繋がりの一つだ。もちろん、修也と幸もその一つだ。
最後に会ったのは確か1年と少し前だ。連絡は取っていたが、こうして顔を出すのは久しぶりだ。
理由はある。修也が一人暮らしを始めて、私との関わりをなくしたからだ。
それまでは毎年3人で訪れていた。そして私は、偽の母親を演じた。
そしてそんな態度を取る私に、修也は何も言わなかった。きっと悟っていたのだろう。私の愚かな思惑に。
二人は、私たち一家にとてもよくしてくれている。
二人にとっての宝である息子が、生前愛した人として大事にしてくれる。
特に金銭面ではかなり助かっている。夫の死後保険金は入ったが、私の稼ぎと合わせても二人を大学まで送り出すには足りなかった。
二人は協力を惜しまず、お金を工面してくれた。借りたわけじゃない。出してくれたのだ。
まるでそれが当然のことだと、そう言わんばかりに。
居間に通されて、出されたお茶を飲む。
しばらくは他愛もない話をした。主な話題は孫に当たる二人の話だ。
幸と修也は元気かと。何かやりたいことは見つかったのかと。
以前なら、問題ないとそう言っただろう。
元気でやってるって、あなたたちの孫は何の問題なく育ってますよ、と。
足が、膝が、手が、全身が震える。
分かってる。今から私は裁かれる。
今回訪れた一つの目的は、幸の進学にかかるお金の話だ。
端的に言えば、足りない分を打診しにきた。
そしてそれは、多分二人もわかってる。
そしておそらく、いや確実に、二人はそのお金を出してくれるだろう。
我が家の財政状況を、二人は理解してくれている。
私一人では、二人を進学させることができないことを。
二人は私を責めないだろう。それどころか女手一つでよくやっていると、褒めてすらくれるだろう。
そういう人たちなのだ。
夫もそうだった。超がつくほどのお人好し。そんな人柄に私は惹かれた。
私はもう、間違えたくない。
幸に、修也に気づかせてもらった。
間違ったままでいるなんて、許されるはずがない。
「お義父さん、お義母さん、話があるんです」
私の言葉に居住まいを正す二人。
きっとお金の話だと思っているだろう。足りない分の学費を工面してくれと、そういう提案だと思っているだろう。
二人の表情は穏やかそのもの。その提案を全く迷惑に感じてないのだ。
あぁ、怖い。容易に想像できる二人の反応に、心が怯える。
嘘をつき続けた。こんなに私たちを大事に思ってくれている人を、裏切り続けた。
逃げて、逃げて、それでも手を伸ばしてくれる人がいて、私はこうしてここにいる。いることができる。
怖い。夫が残してくれた繋がりを、自分の手で壊してしまうのが、怖い。
だけど、だけど何よりも。
幸に、修也に向き合えなくなる方が怖い。
向き合うために、私はここにいる。
必要だからやるんじゃない。これは望みだ。
責任なんて、そんな言葉で表してはいけない。これは私の望みなんだ。
責任なんか無くたって、私はここにいなきゃいけない。
「私は、今までーーーー」
私は告白した。今まで犯した罪を、一つ残らず。
ーーーー
おじいちゃんへ本音をぶつけた翌日、登校した俺のことを、廊下で白河が引き止めてきた。
「おい、ちょっとこっちこい。話がある」
いつもよりは凄んだりはしていないが、それでも威圧的なことに変わりはない。
「え、嫌だけど」
そんな態度でこられたら、正直会話どころじゃない。悪いけどお断りだ。
「ま、待てよ!板倉のことで話があるんだ!」
出てきたのはそんな言葉。なるほど、板倉ね。
「別に興味ないよ」
「んなっ!?興味ないってお前、そんなはずないだろ!?」
残念だが、本当にない。
大方板倉に色々教えてもらったのだろう。信じているかはともかく、俺と園田に何があったのかを。
「悪いけど白河のこと信用してないから。それに話は本人に聞いたし」
別に板倉を信用しているわけでもないけどな。
「どうせ福村にいいところ見せようとか、そんなこと思ってたんでしょ?」
「それは」
まぁ図星だろうな。これに関してはわかっていたことだけど。
「別に白河を直接どうこうするつもりはないよ。だから放っといてくれよ」
「別に、そんなつもりじゃねぇよ」
そう口では否定しているが、その表情は苦虫を噛み潰したようなものだった。大方、保険でもかけておこうと思ったのだろう。
反省した姿を少しでも見せておけば、もしかしたら許されるかもしれないと。
はっきり言ってどうでもいい。
どちらにせよ手遅れだ。俺のやることは決まってる。
「お前、何するつもりだ?」
「別に。お前らに何かするつもりはないって」
あくまでこれはそう。自分のためだ。
だからお前たちにはどうしようもない。
べつにこんなことをしても、こいつらに被害なんてないから、俺としてもこれはやり返しなんかじゃない。
きっと榊原は不満に思うだろう。でも、やっぱり俺にとっての大切はこっちだから。
そう確信を持って言えるのは、きっと自分の本音を確認することができたからだ。
ーーーー
「ねぇ、本当にいいの?お兄ちゃん?」
放課後、少しむすっとした表情の幸を連れて、俺は電車に揺られていた。
「ん、もう決めたことだからな。それよりもごめんな?俺のわがままに付き合わせちゃうことになって」
「それは別にいいけど、大変なのはお兄ちゃんの方だし」
昨晩は色々と大変だった。まぁ端的に言うと幸が怒った。それはもう、鬼が出たかと思った。
結局ちゃんと理由を話したら納得してくれたけど、まだ100%許してくれたわけではないと思う。
ともかくだ。まずは話を通さないといけない。そうしないと実現可能かすらわからないのだから。
電車に揺られること10分。駅を出て5分ほど歩く。
今から会いにいく人に、俺がくることは伝えていない。
だけど連絡を取る必要もないだろう。だって俺は帰ってきただけだから。
「ただいま、母さん」
そろそろ喧嘩の続きを始めようと思う。




