悪意と失意とその先で、正義と正しさは相容れない
水曜日、昼休み。
廊下を歩いていると、クラスで仲の良い女子、相模さんから話しかけられた。
今となっては、本当に仲がいいと言えるかは疑問だったが。
主に、私サイドの気持ちの問題で。
「聞いた?てか見た?喜多見のあの写真」
不意に出てきた彼の名前に、どきりとした。なぜ、彼の名前が出てくるのだ。
一線を引いた。だから私には関係ないのに。
「何か結構広まっちゃっててさー」
私の憂いは見当違いだったようで、すでに周知の出来事のようだ。別に、私だから特別話に来たとかではないようだ。
「どんな写真なの?」
気にならないと言えば嘘になる。まぁ、写真だけ見るぐらいなら迷惑もかからないだろう。
「はい、これ」
そう言って見せられたのは、喜多見が女子と二人でカフェでお茶している様子だった。
喜多見は背中をみせているが、髪型や体格で喜多見だとわかる。
写真は何枚かあって、彼女はそれをスクロールして見せてくれた。
女子と二人でお茶しているのは、別にいけないことではないだろう。
胸で何かが疼きそうになるが、無視をする。
とにかく、他人にとやかく言われるようなことでもない。高校生だ。多少好奇の目に晒されたとしても、それぐらいは問題にすらならないだろう。
「これがどうかしたの?」
素直に疑問をぶつける。私にはこれがわざわざ広げられる理由がわからなかった。
「問題はこれよ。見て」
「……あ」
彼女がスクロールしていき、最後の写真が表示される。
その写真では喜多見と一緒にいる子が、泣いていた。
喜多見の表情は背中越しなのでよく分からないが、傍目から見れば女子を泣かせているようにしか見えなかった。
「ひどくない?これ。どう見ても泣かせてるよね、彼女を」
「彼女?」
「知らない?彼が二股してて、それが最近になって発覚しちゃったって話」
「それって」
本当なの?と聞こうとしてやめた。そんなの彼女に聞いたって分からないだろう。
話自体は知っていた。白河が言っていたから。
だけど、噂にまでなっているのは初耳だった。
「何か嫌な感じだよねー。浮気とか、まじありえないし」
「……」
正直、叫びたくなっていた。目の前の少女に。思ったこと全てを。
一体彼の何を知ってるんだと。あくまで噂じゃないか。本人に聞かなきゃ分からないでしょ。勝手に判断しちゃ可哀想だ。
その全てを、飲み込んだ。堪えた。
だってそれは私も同じだから。私だって、彼を何も知らないから。
だけど、この現状を見て見ぬ振りをするのかと、私の心が私に訴えかけてくる。
それでいいのかと。また変わらないままなのかと。
心がぐちゃぐちゃに荒れていくのがわかった。
見て見ぬ振りをすればいい。だって、それを望んだのは他ならぬ彼自身。悩む必要なんてない。
『お、おう。またな』
「あーーーー」
だめだだめだ。思い出すな。
あの時、嬉しいなんて思ったことを思い出すな。
向こうからしたら、何気ない挨拶。社交辞令だ。
その言葉に意味なんてない。
だけど、縋ってしまいそうになる。その言葉に。込められた意味に。
そうであって欲しいという、私の願望に。
『いいのか?あいつ、彼女いるぞ』
(ーーーー無理だ、こんなの)
踏み込まないって決めたのに。彼が引いてくれた一線を守るって決めたのに。
決心してしまった。抗いたいと思ってしまった。
彼に近づきたい。彼を知りたい。
彼を慰めるのは、私でありたい。
そう、願ってしまった。もう、止まれない。
あの子の笑顔を守れなかった時、私はどう思ったか。
自分にできることがあったんじゃないかって、声をかけるだけで何かが変わったんじゃないかって。
後悔。そして良心を痛めた。
正義感。そうだ。彼に声をかけたのも、きっかけはどうあれ私の中に存在する「正義感」。その尺度で彼を測った。
そして彼を助けたいと、おこがましくもそう思った。
(醜いなぁ)
自覚はある。だけど、嫌だ。嫌だから仕方ないじゃないか。
自己満足もいいところ。これは彼のためじゃない。
正真正銘、私のためだ。
その感情の名前を、もちろん私は知っている。
あろうことか会ったこともない、写真で泣いている子にさえ抱いたその感情を、私は知っている。
私を突き動かすのは、正義感でも、良心でも、心配でもなかった。
ーーそれは、嫉妬だった。
改めて自覚したその感情は、自分の知るどの感情よりも熱く、深いものだった。
ーーーー
窓から指す西日が眩しくて、つい目を逸らした。
窓の外、グラウンドではサッカー部が活動に精を出している。そういえば大会が近いって聞いた気がする。
私には関係ない話だけど。
放課後、校舎の中には人の影がなかった。
我が校には部活棟がある。そのため、放課後本校舎に残る生徒はほとんどいない。
そんな教室に、影二つ。
一つは私。福村舞華。
そしてもう一つは、私が呼びつけた相手だ。
「それで、用って?」
全ての中心人物と思われる私の友人、園田恵美だった。
ーーーー
やっぱり、話を聞くなら恵美からだって思った。
彼女が色々と関わってるのは間違いないし、中心人物だろう。
彼に許可を取ろうかとも思ったけどやめた。
彼は言っていたはずだ。聞くなら恵美に聞けと。
それを実行するだけ。
正当性はあると、私は自分の行動を肯定する。
彼が引いた一線は考慮されていなかった。だってこれは私の選択。
自己満足に他ならない。なれば、その尺度は自分で測る。
私は選んだんだ。その一線を踏み越えるって。
他ならぬ自分のために、その壁を乗り越えるのだ。
彼はどう思うだろうか。私の選択を。
受け入れてくれるだろうか。それとも迷惑だとして、一蹴するだろうか。
浮かぶ迷いを、私は振り払った。
どう思われようが、この選択は私の「正義」だ。
正しいか正しくないかではなく、私にとってこれはそういう話なのだ。
だから、私は彼女に話しかけた。その約束を取り付けた。
ーーーー
「それで、用って?」
私の呼び出しに応じた彼女は、用件を私に問う。
「一つは、喜多見が恵美のことをいじめてたって話。その真相が聞きたいの」
周り道はしない。最初から核心をつかせてもらう。
「真相」という言葉を使ったことから、確信に近い疑いを私が持っているのは伝わっただろう。
「舞華はどう思ってるの?」
恵美は表情を崩さず、そう返してきた。
きっとこの質問をされることは予想していたのだろう。動揺と言ったものは見られなかった。
「聞いた話では、喜多見が恵美をいじめてたってことだけど、これは本当のことじゃないって思ってるよ」
続ける。彼女は依然、表情を変えずに私の話を聞いていた。
「何が起きたのかまでは分からないけど、喜多見が恵美のことをいじめてなかったのは、合ってるんでしょ?」
一番気になるところだ。核心とも言える部分。
その答えを、私は恵美の口から聞いておきたかった。
「どうしてそう思うの?」
恵美は、またしても質問で返してくる。とはいえ、この質問は正当なものかと思い、私は答える。
「彼の態度が、はぐらし方から判断しただけだけど、私は間違ってないと思う」
なんて言ったけど、これは半分。
もう半分は、そう信じたいからだ。彼のことを信じたいと言う気持ちが生んだ、願望でもある。
「それにもし本当に喜多見が恵美をいじめてたら、恵美は何で私に相談しなかったの?隠す必要なんてなかったはずよね?」
確信的なのはこれだ。判断材料は十分出揃った。
「そういうところよ、ずっと」
「……え?」
彼女の言葉に、思わず呆けてしまう。
しかし彼女は、止まらなかった。
「何が「相談しなかったの?」よ。いつからあんたは、私にとって大きな存在になってたのよ」
「……っ!そ、それは」
無自覚だった。だけど、今はともかくそう言う側面がなかったかと言われると、否定できない、
相談してこなかった、と今こそ疑いとしてとれるが、以前はたしかに「相談してくれない」とある種不満に近い感情を抱いていた。
「どうしてあんたが口を挟むのよ。あんたは関係ないじゃない」
「それは」
事実だ。私の都合で理由づけしているだけで、たしかに無関係。
だけど。
「はぐらかさないで。私は真実が知りたいの」
詭弁だった。いや、詭弁とすら呼べないめちゃくちゃな動機。当然、明かすわけにはいかない。
「それを知って、あなたはどうするのよ」
恵美がそんなことを聞いてきた。
「それは、その間違いのせいで彼は傷ついてて、だから」
それを正したいと、そう言いたかった。だけど、それは恵美によって遮られた。
「余計なことをしないでよ!!」
「っ!!」
聞いたことのない声だった。
いや、声色、表情、佇まい。そのどれもが私の想像する恵美とは似ても似つかなかった。
「誰がそれを望んだのよ!!勝手なことをしないで!!」
「喜多見が望んだの??違うでしょ!!あんたが、部外者が勝手なことを言わないでよ!!」
「恵美」
そのその言葉に、その剣幕に何も言えなくなってしまう。
「そう、その目よ!!その目が、私はだいっ嫌いなのよ!!」
「……え?」
「あんたも……あいつもその目をして、私を見てきた!!そうやって、自分は助ける側だって勘違いしてきた!」
表情を苦悶に歪め、それでもなお彼女は続ける。
「善人ぶろうとして、そうやって自分勝手の自己満足で心を満たそうとする、その態度が気に入らないのよ」
「そのくせ不都合があると、すぐにあんたたちは「被害者」だって言う!ふざけないで!!そんなの私は悪くない!!」
私はまだ、彼女をこの場で咎めてはいない。それなのにこの豹変ぶり。
一体何が彼女の逆鱗に触れたのだと言うのだろうか。
その答えは、すぐにわかることとなった。
「あんたのそれは、自己陶酔って言うのよ」
「自己、陶酔」
「そうよ!自分よりも下の人間を助ける自分に酔ってるだけ。そうすることで気持ち良くなって、自分の心を満たしているだけ!そこには相手の都合なんて含まれてない!1から100まで全部自分のため!違う!?違くないでしょ!?全部自己満足でしょ!?どうにか言ってみなさいよ!!」
「私は」
そんなことない、何て言えるわけがなかった。
それが的を射ているのは、ついさっき自覚したばかりだったから。
だけど、だからこそ引かない。
私はその先に、失意の先に進むと決めた。
「だったら、なに?そんなの恵美だって同じじゃない。そうやって一人で抱えて、自分が辛い辛いって、可哀想だって、そう言う自分に酔ってるんじゃないの?」
最近の恵美に私は、そんな印象を抱いていた。
自分でも驚くような、そんな冷たい声で私はそれを言い放つ。
そしてそれは、恵美にとって核心に近いものだったようだ。
「ふざけないで!!あんたに私の何がわかるのよ!勝手なことを言わないで」
「お互い様でしょ!恵美だってさっきから誤魔化してばっかり!!そうやって被害者ぶって!」
気づけば私も声を荒げて、叫ぶように言葉をぶつけていた。
互いに暴論。だけど、お互いに正義。
正義は正しさと相容れない。二つの意見は着地点を失っていた。
これはもう、ただの喧嘩だ。
「関係ないでしょあんたは!勝手に口出さないで!!」
「関係なくない!私は彼の、喜多見の友達だから!!関係なくない!!」
「そんなのあんたが言ってるだけでしょ!向こうはあんたのことなんか何とも思ってないわよ!!」
「だからどうしたのよ!私がそう思ってる。私にとってはそれで十分なの!!」
「ふざけないで!!」
「ふざけてるのは恵美でしょ!?」
言い合いは続く。直接的な手の出し合いにならなかったのが奇跡と言えるほど、白熱していた。
お互いに息を切らし、持論を押し付ける。整合性なんてない。ただ自分の正義をぶつけるだけ。
しばらくして、互いに黙る。
まるで言いたいことは言い終わったと、これ以上は無駄であるとそう示すように。
「もういいわ、これ以上何言っても無駄」
「こっちのセリフ。もう分かり合えないね、私たち」
私の言葉を聞いて、恵美は振り返って来た道を戻ろうとする。
そんな恵美に、私は最後にこう言った。
「私は恵美のこと、親友だと思ってたよ」
返事はなかった。彼女は何も言わずに帰っていった。
教室には一つの影。明確な喪失の証。
「後悔、しちゃうよなぁ。やっぱり」
あれだけのことを言っておきながら、胸中を渦巻くのは後悔だった。
もっと上手くやれたんじゃないかって、他の方法があったんじゃないかって。
聞きたいこともまともに聞けず、結局ただ喧嘩しただけ。
でも、戻れない。もう、修復不可能だ。
悪意と失意のその先で、私には叶えたい願いがあるから。




