壊れたヒーローに休日を
「いや……やめて……」
週末の繁華街脇にて。路地裏で悲痛な面持ちの若い女性が柄の悪い男たちに囲まれていた。表通りまでは僅か数十メートル。眠らないこの街にとっては深夜帯とあっても人通りはかなり多い。しかしひとつ、ふたつ脇道に逸れるだけでまるで別世界のように、人気も喧騒もなく酒瓶やゴミが散乱するだけの殺風景が広がっていることを、近道をしようとして路地に入ってしまったこの女性は、知らなかった。
男たちは手慣れたように女性を壁際に追い詰めていき、その手を女性の胸元に向けて伸ばす。
その時だった。
「待てぃ!! 街の治安を乱す不埒者め。成敗してくれる」
男たちの後ろから覆面を被った謎の男が、妙なポーズを取りつつ、高らかに宣言していた。
「ああ?」
めんどくさそうに振り返った男たちがその覆面男に視線を向ける。やがて怪訝そうな表情が破顔していき、顔を見合わせた男たちはタイミングを合わせたかのように一斉に噴き出した。
「だっせぇえ!! なんだコイツまじウケるんだけど。なにそれコスプレってやつ? なんだよお前?」
「よくぞ聞いた。我が名はジャスティス! 正義の味方だ」
「あ~はいはい。それ以上はしらけるし、もうわかったからお兄さんも痛い目見たくなかったらどっか消えな」
リーダー格の男がしっしっと覆面男、もといジャスティスに向け、手を払う。
「その女性を解放するというなら私も退散しよう」
「……聞こえなかったのかよ。マジでイカれてんのなお前。もういいや。お前はその女つかまえとけ。お前らはこの男黙らせるぞ」
ケラケラ笑っていたリーダー格の男の表情が一変し、熱を持たない無機質なものへと変わる。彼は感情なく残虐なことが出来る人間であった。四人組の男のうちの一人が女性を捕まえ、残りの三人がジャスティスに近づいていく。
「な、なんだ。君たちほんとに私と戦うというのか? し、知らないぞ後悔しても!」
「うるせぇオラァ!」
……。
喧嘩、というより一方的なリンチ劇は悲惨なものだった。リーダー格の男の一撃目で覆面男は地面に臥し、大した抵抗も出来ないまま殴る蹴るの暴行に晒され五分が経過。袋叩きとはまさにこのこと。ジャスティスは信じられないぐらい喧嘩に弱かったのだ。
「わかったかオラァ! いきってんじゃねぇぞてめぇ。お前の前でこの女乱暴してやっからよ。よく見とけ!!」
ボロボロのジャスティスの顔を、男の一人が無理やり女性に向けさせた。抵抗する力はすでに彼にはなかった。目の前で凄惨な現場を見せられたせいか下品な顔でゆっくりと迫ってくるリーダー格の男を前にしても、女性も抵抗する様子はなかった。涙顔の女性を見てリーダー格の男はますますご機嫌のようだ。
「待……て……」
ジャスティスはうつ伏せの態勢からなんとか手を伸ばし、リーダー格の男の足首を掴む。
「あ?」
くるりと振り返った男の顔から再び熱が失われていく。馬鹿なにやってんだ、と言いつつジャスティスを捕獲していた男が慌ててその手を殴りつけ、足首から引き剥がした。リーダー格の男はジャスティスに近づいていき、その顔を踏み抜こうとした。
「兄貴やばいっすよ。誰か来ました」
「ちっ! 今度は複数かよ。もういい。行くぞお前ら」
運よくそのタイミングで聞こえてきたのは数人の酔っ払った大学生たちの声だった。男たちもこの状況を見られて通報でもされたら面倒に感じたのだろう。退散していった。近づいてきていた大学生たちの声も途中で離れていく。道を曲がったのだろう。
その場に残されたのは襲われていた女性とボロボロのジャスティスのみ。
「だ、大丈夫かね? 怪我がないようで……良かった」
ふらふらと立ち上がったジャスティスが女性に近づいていく。
「よ、寄らないで!!」
返ってきたのは悲痛な女性の叫びだった。
「なんなんですか! こんな状況でそんなふざけた格好して……。貴方が余計なことをしたせいでもっとひどい目に合わされるかもしれなかったんです! ジャスティスですって? 馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!」
女性はまるでゴミを見るかのような視線をジャスティスに向けるとそんな捨て台詞を吐いて小走りで去っていった。
「きょ、今日もこの街の平和は……守られた」
ジャスティスはその場に膝をつくと糸の切れた人形のように崩れ落ちた。ボロボロにされた身体は限界だったのだ。
「余計なこと、か」
しかし身体のダメージ以上に精神的なダメージを受けてしまっていた。
……。
翌朝。
午前10時。狭いボロアパートの一室で27歳の今井真一は目覚めた。昨晩男たちに袋叩きにされた身体は未だに節々が痛む。
「コーヒーでも飲むか」
ぐったりとベッドから這い出した彼に、昨日見られた覇気はない。本来であれば休日のこの時間帯。とっくに朝の体操を済ませ、覆面を被って街のパトロールをしているはずだった。ヒーローの朝は早いのだ。ではなぜこんなにぐうたらしているのか?
理由は明白。昨日女性に言い放たれた言葉が脳裏に焼き付いて離れない。彼もいい年である。子供のころ憧れたヒーローなんてものが現実世界に存在しないことなんてわかっていた。それでも彼は子供のころの彼のために、必死でヒーローを続けていたのだ。しかし助けようとした人間に、余計なことと言われてしまえば彼の存在意義がなくなってしまう。すべてが馬鹿らしくなってしまったのだ。
昼過ぎになると今井はどこに行くでもなくただぼんやりと散歩していた。これ以上ないぐらいの快晴である。おてんと様にとっては彼の心情なんてどこ吹く風なのだろう。近場の公園のベンチを見かけるとゆっくりと腰を下ろした。
目の前では子供たちが鬼ごっこでもしてるのか、数人でわいわいとはしゃぐ姿が見える。子供たちはいいものだ。無垢で無邪気で、世の中が嫌なことで満ち溢れていることを忘れさせてくれる。自身のアイデンティティが揺らぐような状況にあっても忘れさせてくれる。そしてあの時抱いていた初心を、思い出させてくれる。
しばらく遊ぶ様子を遠目に見ていた今井だったが、子供たちがなにやら不穏な空気になったことで思わず立ち上がってしまった。
「お前いつも遅いんだよ。チーム組むと負けんじゃん。真面目に走れよ」
「僕だって真剣だよ」
「あれで真剣なのかよ。だからデブとは組みたくないっつったのに」
「体形は関係ないでしょ」
「あ~怒った怒った。デブが怒った~。皆逃げろ~」
デブと言われた少年は今にも泣きだしそうであった。子供というのは無邪気であるが故に遠慮も容赦もなく、残酷な一面も持っている。大人たちが何の気なしに身に着けているイジメとイジリの境界線を持たないのだ。相手が本当に傷ついているのかどうか、その仕草や機微から察することが出来ず、大抵やり過ぎてしまう。
今日の彼は正義の味方ジャスティスではない。一般人の今井真一である。
躊躇はあったが、それでも見ていられなくなった今井は子供たちの元へ駆け出していた。
「君たち! いい加減にしないか」
今井はデブと言われた少年の肩に手を置きつつ、他の少年たちと向き合う。
「な、なんだよオッサン。別に遊んでただけじゃん」
少年たちはなぁ? と顔を見合わせるようにして頷き合う。
「私にはそうは見えなかったが? イジり合ったりするなとは言わない。特に外見をののしり合えるなんてのは子供の特権みたいなもんだ。今のうちに楽しんどくといい。だがやり過ぎは駄目だ。この子が泣きそうなのがわからないか?」
決して責めるわけでもない声色で、諭すように今井は言う。
「そ、そんなことないよ!」
「え?」
今井はデブと呼ばれた少年に突き飛ばされていた。両手で思いっきり押されただけではあったが、質量とは恐ろしいもので油断も手伝ってか今井は情けなく転倒することに。
「たくや君たちをイジメるな! 弱い僕を強くしようといつも特訓してくれてるだけなんだよ」
――イジメる? 俺が?
今井はデブと言われた少年からの言葉を咀嚼出来ずにいた。
「みのるお前すげぇよ。大人のこと吹っ飛ばすなんて」
デブと言われた少年、みのるを取り囲むようにして子供たちがはやし立てる。まるでヒーローを見るかのような熱い眼差しだった。かつての自分がそこに重なるのを今井は感じた。
「あ、おじさんごめんなさい。怪我はないですか?」
はっとしたようにみのるは今井の状況に気付き、手を差し伸べた。この子の優しい気性が見て取れる。チヤホヤされるのは気持ちいいだろうに、そんなことより目の前で倒れてる今井の心配を優先したのだ。
「ああ、いや、私は大丈夫だ。こちらこそ余計なことを言ってしまったみたいで済まなかったね」
今井は立ち上がるとポンポンと尻の部分をはたき、軽く一礼してその場を去った。
……。
午後三時。今井はまだ街の散歩をしていた。あてもない放浪だ。先ほどの子供たちとのやり取りが何度も思い起こされる。今井から少年たちを守るようにして勇気を振り絞ったみのるの姿。みのるを取り囲む少年たちの眼差し。そのすべてが彼には眩し過ぎた。
「ふふっ、悪役だなこれじゃ」
正義の味方なんてものはこの世に存在しない。中学生にもなると嫌でも気づかされる現実だった。だからこそせめて、そうあろうとする努力を、行動を、自分の信念に沿って続けてきた彼だった。元々気弱だった彼であるが、覆面をすることでキャラクターを作り上げ、演じることで悪漢にさえ立ち向かっていたのだ。それ程までに子供のころの自分にとってのヒーローであり続けたかった。失望されたくなかった。が、それもそろそろ限界だ。今の自分の姿を、あのころの自分が見たらどう思うだろうか、と。
休日のつもりでの散策だったが、まさか引退を決意することになるとは思っていなかっただろう。
心の整理がついたことで自宅へ帰ることにした今井は、重そうな荷物を背負った老人がよたよたと横断歩道を渡る姿を目にした。
一目散に駆け寄ろうとしてしまったが踏みとどまる。
これも余計なことなのではないか、と。
脳裏に浮かぶのは軽蔑したような眼差しを向ける女性と敢然と立ちはだかるみのるの姿。いずれも良かれと思ってした行動が仇となった。
勝手に動き出そうとする足をなんとか理性で止める。信じらないことに周りの通行人は、そんな老人の存在なんて気にも留めないかの如く普通に往来していた。青色だった信号が点滅を始める。到底渡り切れるようには思えなかった。
我慢の限界、であった。後で恨まれるならそれでいいじゃないかと。
吹っ切れた今井は一直線に老人の元まで駆け寄ると、
「持ちますよ。おばぁさん」
と言って返事も待たずに荷物を取り上げ、老人の背中を軽く押してやりながらなんとか赤信号になる前に渡りきることが出来た。
「良かった。間に合った。あ、これ荷物です」
今井が慌てて老人に荷物を返す。
「お前さん……」
荷物を受け取った老人が不思議そうな顔で今井を見た。その姿に女性とみのるが重なり、思わず目を背けてしまった。
「す、すみません。余計なことをしました」
気づくと今井は45度のお辞儀をして老人に謝罪していた。
またやってしまった。わかってはいたが、今回ばかりは彼の身体が言うことを聞いてくれなかったのだ。責め苦を受ける覚悟は出来ていた。最悪ひったくりとして突き出されても仕方ないと。
「なにを言ってるんだい。ほんとにありがとうねぇ。助かったよ」
老人は満面の笑みでそう言うと今井の両手を握りしめ、軽く上下させた。
「俺……俺……」
そんな老人の笑顔に耐えられず今井は顔を臥せてしまう。いい年した大人の男がこんなことで泣きそうになるなんて、今井は恥ずかしさのあまり直視出来なかった。
「泣いているのかい? なにかつらいことでもあったのかい?」
「いえ、違います。そうじゃないんです。おばぁさん」
心配そうに顔を覗き込む老人に申し訳なくなり、今井は鼻をすすりながらも無理に破顔した。
「礼を言いたいのはこちらの方なんです。ありがとうございます」
「まったく、不思議な子だねぇ。感謝するのはこっちだってのに」
「はははっ」
涙とともに溢れるのは空笑いだった。今井はなにも見返りが欲しくてこんなことをしていたわけではない。それでも、それでもである。道を失いかけていた彼にとってこれ以上の救いはなかったのだ。
「あの」
そんな二人の不思議なやり取りを見ていた一人の女性が声をかけてきた。
「私もおばぁさんに気付いてたんですけど声をかけられませんでした。誰かが助けに入るだろうって」
女性はまるで懺悔するように心の内を打ち明けた。
「君は……」
その女性を見て今井は驚く。見知った顔、だった。
「貴方のような方もいるのですね。私感動しました。昨日とても嫌な思いをして世の中にうんざりしていたんです。まともな男なんてこの世にいないんじゃないかって」
「はぁ」
今井はなんとも言えない返事しか出来なかった。世の中は案外狭いものである。
「その、お名前を……伺っても?」
女性は恥ずかしそうにしながらも頬を上気させ、上目遣いで今井に問う。その瞳に宿るのは憧れ。かつて今井がヒーローに向けていたそれとまったく同じであった。
なるほど。名前か。ならばこの場で名乗る名などひとつしかあるまいて。と今井は半ばヤケクソ気味に思うとポケットに忍ばせていた覆面を被った。これで状況は整った。引退は撤回である。つまり……。
「ジャスティスです!!」
高らかな宣言が青空にこだました。唖然とする女性。それを優しく見守る老人。しばしの沈黙がその場を流れた。
「貴方昨日の!? なにをしてるんですかこんなところで!」
憧れの眼差しは一瞬で消し飛び、食いかかる女性。
「正義の前には昼夜なんて関係ないのさ」
「なに開き直ってるんですか! なんか口調もそれっぽくなってるし。信じられない。もう」
女性は怒り心頭のようだった。勝手に憧れを抱いた存在が覆面男と知って勝手に失望したのだろう。
「ほらなにしてるんですか? おばぁさんの荷物運んであげるんでしょ?」
「む? なにを言ってるのかね」
「偉そうに正義だなんだ言ってるならそれぐらいしなさいよ。私も半分持つから。さ、行くよジャスティス」
どうやらおばぁさんの荷物を運ぶことに決まってしまったらしい。プンプンしながらも女性はどこか楽しそうであり、僅かに笑みが漏れている。文句ばかり言ってくる女性の言葉を聞き流しながら今井はふと空を仰いだ。
――どうだ? 俺は格好良くやれてるだろ。お前のヒーローになれてるかな。
少年時代の自分を想い浮かべ、そう尋ねてみる。
それに応えるように想像の中の自分があの熱い眼差しを向けてきたのだった。