第2夜 風景のおじさん
―よし。このぐらいにするか。
書いていた日記を閉じる。
今日は、なぜか昼から寝たくて堪らなかった。やらなければいけないことがまだ溜まっているけれど。
さっきまで筆を進めていた手帳を机の引き出しに仕舞い、寝台に向かう。
寝台に仰向けに転がり、目を閉じる。体の力を徐々に抜いていく。
ゆっくりと深淵のような闇に落ちていく感覚があった。今日は久しぶりにぐっすり眠れる気がする。
―おお、起きたか。
―ここは、どこですか?
目が覚め、起き上がると、そこは僕が寝ていた寝台ではなく、緑にあふれる草原だった。地平線の彼方までも緑が広がり、このような状況でなければ見とれて、うっとりしてしまいそうだ。
―ここは、私の好きな場所だ。
僕の傍らには、三十路を少し過ぎた程度のおじさんが座っていた。髪の毛は整っていて、髭も剃られている。そこか、会社員のような印象を受ける。だが、僕にはこの人が会社員のようには、見えなかった。どこか、芸術家のような感じの人だと、思った。
―綺麗な場所ですね。
―思い出の場所だ。
―どのような?
―幸せな日々の、だ。
おじさんの顔は寂しそうだった。誰かを失ってしまったのだろうか。それとも、何かを失ってしまったのだろうか。
好奇心は湧いたが、聞けずに風景を見つめたまま黙っていると、おじさんがいつの間にか、僕の方を見ていることに気が付いた。
―どうしたんですか?
―いや、なんでもない。…君にとっての幸せは、なんだい?
―そうですね…。ちょうど、ここの空気みたいな感じですかね。
見えないけど、感じれて。吸うと心が温かくなる。そこにずっといたいと思えることですかね。
―君は、年の割に良いことを言うな。
―ありがとうございます。
―私の幸せも同じようなものだ。そばにずっといたいと思えることが幸せだった。
僕の横に並んで座っている、おじさんはしんみりとした顔をする。
そんな顔をされると、僕も悲しくなってくる。だが、そんな気分さえ、ここの空気は温めてくれるのだった。
これが幸せ、か。
もしかしたら、ここの空気は、幸せで満たさせているのかもしれない。
何かが、草花のように呼吸して、二酸化炭素を酸素に変えるように、寂しい気持ちを吸って、温かい気持ちを吐き出しているかのような、そのような気がする。
―君は、この空気を誰が、満たしてくれていると思う?
おじさんは、僕の思っていることを読んだかのように、話しかけてきた。
―誰…。人なんですか?
―少なくとも私はそう思っているよ。
―僕は、草花のようなものかと…。
―人によって、見え方は違うんだ。
―そうですか。
この空気を作り出している存在が、人によって見え方が変わるなんて、なにかのなぞなぞのようだな。
そう言えば、隼人はここにいるときは、長居しちゃいけないって言ってたっけ?
―僕、そろそろ行きます。この景色は、少し名残惜しいけど。
―わかったよ。また、会いに来てくれ。
―できるかわかりませんけど。いつか、また。
朝の陽光で目が覚める。
もう朝か。夜は一瞬で過ぎてしまう。
今日の僕は、もう寝ぼけてなんかいない。
―その人は、多分、奥さんを亡くしたんだと思うよ。
―どうしてそう思うんだい?
―だって、傍にいて幸せってそれぐらいしかないだろ。
理由が適当過ぎると僕は、思った。
―僕にはもっと深い意味に聞こえたけど。
―俺は、そこにいなかったからな。深い意味はわからない。
―そっか。でも、客観的な意見をありがとう。
―いいさ。最近は、お前の夢の話が聞きたくて、うずうずしてたから。
こんな話のどこがおもしろいのだろう。僕は、唯々寂しくなってしまうだけなのに。
―面白いのかい?
―ああ。俺にはとっても。
友人のその顔は、草原の風景を眺めていたおじさんと同じ表情をしていた。
二人は、僕の知らない何かを知っているのだろうか。
幸せは、人によって見え方が違う。
ちょうど、あの世界の空気のように。