第32話 神竜ラグナディーン
やがて神々しい光の渦が収縮すると、透き通るように美しい青銀の鱗を持つ、神秘的で優美な水竜が頭から順に水面からその姿を現わした。
金黄色に輝く大きな瞳がゆっくりと開く。
何もかもを見透かすような視線をじっと寄越されて思わず見つめ返していると、口元が僅かに弧を描き、まるで笑みを浮かべているような表情になった。
種族が違うので解釈違いをしてしまっている可能性もあるが、親愛の感じられる優しい視線を向けられると思う。
この美しい守護聖獣様がいらっしゃるおかげで、魔法防壁で国土全体をがっちりと守らなくとも、建国以来、もう何百年と大きな争いがないのだ。
「有難きお言葉……勿体のうございます、神竜様」
その神竜様に誓いの言葉を受け入れられ、御名を呼ぶことをお許しいただけた。
聖女としてお仕えするという、幼き頃からの夢が叶った瞬間でもあり、敬愛の気持ちでいっぱいになる。
『良いよい。妾が許したのじゃからの。アンドレア、久しいの』
「はい、ラグナディーン様。お久しぶりでございます」
初めて御名を口にすると、満足げにグルルルッと鳴かれた。
『うむ。妾にはあっという間であったが、そなたに名を許すまでに何故か十年近くもかかったかのう。人とは難儀なものよ。のう、アンドレア』
「仰せの通りでございます」
『さあ、聞かせておくれ。事の顛末を……』
「はい、ラグナディーン様」
――アンドレアは語った。
促されるままに昨夜起こった出来事を淡々と……。
婚約破棄に至るまでの経緯と、ロバート王子をはじめとする関係者一同の仮処分についてを順を追って話していく。
聞き終えた神竜様は、深々とため息をついた。
『成る程のう……そなたも災難であったの』
「いいえ。私にも力及ばないところがあったのですわ、きっと。でも、こうして貴女様にお仕えできる機会を与えられたのですから、かえって良かったのかもしれません」
そう言って嬉しげににっこりと微笑む。
『う、うむ。妾も、聖女を側に置けるのは喜ばしいことだがの!』
真っ直ぐな愛情を向けられて、照れたように尻尾をパタンパタンと大きく揺らした。
当然のことながら、盛大に水しぶきが上がり、雨のように降り注ぐことになったのだが、アンドレアはすかさず結界を張って濡れるのを防いだため無事だった。
『それにしても……人間はよく分からぬ。一度交わした約束ごとをそうも容易く破るか……』
――竜にとって契約とは何よりも大切なもの。
一度交わせば違えることは許されぬ、神聖な誓いであるという認識だ。
その為、契約を軽視し恥知らずにも容易く破り裏切ることもある、自己中心的な人間族の在り方は、野蛮だとして好まれない。人と竜が中々、信頼関係を結べず契約を交わさない理由はここにあった。
なので、アンドレアのように竜に真名を明かされ、呼ぶことを許される人間というのは稀である。
何しろその者には、竜の加護が授けられるのだから…… 真名を明かすというのはそういうことなのだ。
その加護があれば、どの竜族からも干渉されず危害を加えられないばかりか、窮地に陥ったときには手助けをしてもらえるという……。
これは、竜族からの最大級の親愛に満ちた贈り物なのである。
――つまり、この国にとっての聖女の重要性は言わずもがなであった。
「父は国王陛下から、愛に目が眩み、相手の術中に嵌まってしまった愚かな王子を許して欲しい、とのお言葉を賜ったそうですわ」
『はぁぁぁ、随分と勝手なことよ』
「ええ、本当に」
『しかし、妾の記憶が確かなら、この婚約はそなたの聖女就任を阻止してまで王家が決めた契約ではなかったのかぇ?』
「そうなのです。でも、殿下は真実の愛に目覚められ、私自身も、キャメロン公爵家の後見も必要無くなってしまわれたのですって」
『何ともまぁ……やれやれ、親愛を誓った初代王の血筋が堕落していくのを見るのは辛いものよの』
物憂げに再度ため息をつき、大きな金色の瞳が気落ちしたかのようにそっと伏せられるのを見るのは、心が痛い。
「申し訳ございません。神竜様にはご心痛をおかけします……」
――竜族は総じて愛情深い種族だ。
建国から約二百五十年余り……初代王の血筋が随分と薄まってきた今となっても、契約を交わした初代との約束を律儀に守り、この国に留まって守護の任についてくださっている。
長寿を誇る竜族にとっては一瞬のことでも、人にとっては気の遠くなるような長い年月をずっとだ。
アンドレアも直系ではないとはいえ、その王家の血を引いている。聖女として、神竜様の献身と恩義に応えたいという思いは強かった。




