愛しい彼女
その日はとても寒い日だった。
いつものように、勉強が終わって窓の外を見れば、雪がちらついていた。
まだ降り始めなのか、地面にはまばらに白が散っている。だが空からふわふわと落ちてくる雪の粒から明日までにはそれなりに雪は積もるだろう。
外に行ってはいけないと言われていたのに、何故か庭が気になって仕方がない。母上の言いつけ通りにしていたけど、時間が経つにつれて無視ができないほど落ち着かなくなっていった。
使用人の目を気にしながら、こっそりと庭に出てみた。
「何もない」
灰色の空を見上げれば、雪が静かに落ちてくるばかりだ。しばらくそうしていたが、何もなかったので中に戻ることにした。
くちゅん。
小さな小さなくしゃみ。
気のせいかときょろきょろする。
くちゅん。
音のした方へと足を進めれば、そこにいたのは小さな黒い子猫だった。寒そうに丸くなって震えている。
「お前が僕を呼んだの?」
子猫に声を掛ければ、子猫はうっすらと目を開けた。美しい濃い紫の瞳がそこにはあった。でもすぐにその目は閉じてしまう。慌てて自分の上着を脱ぎ、その中に包むと部屋へと戻っていった。
「どうしたの? そんなに濡れて」
見つからないように気を付けて廊下を歩いていたのに母上に見つかった。先ほどまで商人と話していたのにどうして僕の部屋の前にいるのだろう。不思議に思いながら、ぎゅっと上着に包んだ子猫を抱きしめた。
「あら、それは何?」
目ざとい母上は僕の持っているものに気がついた。目を細め、唇が弧を描く。恐ろしい笑顔だ。
みんな母上をとても美しいと褒めるけど、どこが美しいのか。この笑みを浮かべるときは大抵僕にとってろくなことがない。貴族特有の言葉遊びで弄られまくるのだ。
「母上、僕は着替えをするのでどいてもらえませんか?」
「ふふふ。それほどそれが大切なのね? ほら、お母さまが機嫌のいいうちに見せなさい」
ぎゅっと抱きしめると、母上の視線から隠すように体を捻った。
「嫌です。母上の好むものではありません」
「ふうん。ますます見たくなるわね」
そんな呟きが耳元でしたと思ったら、素早く手に持っていた上着を取り上げられた。母上は得意気に笑った。
「隙だらけね。さて、あなたの大切なものは何かしら?」
わざとじらすように上着を剥いでいく。出てきたのは小さな子猫。
「猫?」
母上は目を丸くしてしげしげと子猫を見ていた。上着が取られて寒さを感じたのか子猫が小さくくしゃみをした。そして、閉じていた目が開く。
「まあ、この色合い……」
母上が驚きに目を見開いた。母上のその反応に僕の方が驚いた。母上は優しい手付きで子猫の体を撫でると、僕に返してくれる。
「母上?」
「その子猫、大事にしなさい。あなたへの神からの贈り物よ」
どういう意味か分からず首を傾げた。母上は嬉しそうに笑う。
「昔から黒い毛と濃い紫の瞳は神の愛し子の証だと言われているのよ。その神の愛し子があなたの所にやってきたの。大切にすべきよ」
「飼ってもいいの?」
「ええ。でもちゃんとあなたが面倒を見るのよ?」
「ありがとう!」
母上の許可が出て嬉しくて声を上げた。その日から、子猫は僕と一緒に生活することになった。
温かい寝台で一緒に寝て、朝はご飯を上げて。毎日繰り返していたら、子猫は次第に元気になっていった。
「あれ、ミューは?」
学友候補たちとの勉強が終わって部屋に戻れば、子猫がいない。きょろきょろと部屋を探すが、いつもいる場所も空っぽだった。
「ねえ、ミューを知らない?」
部屋にいる侍女に聞いたが、侍女も部屋に戻ってきたときにはいなかったと言っていた。心がざわめいて、慌てて外に飛び出した。
「何をしている!」
「殿下」
二人の令息が庭の池にいた。昼間だけど、冬空でとても寒い日だ。彼らの目線の先にいるのがミューであることに気がついて、慌てて池に飛び込もうとした。ところが護衛騎士に抱き上げられてしまった。
「離せ! ミューが死んでしまう」
「落ち着いてください。今、助けに入ります」
そう言ってもう一人の騎士が冷たい池に入って行った。助けられたミューは体を冷たくしていた。死んでいるようなその姿に、体が震える。
「すぐに温めましょう」
池に飛び込んでくれた騎士には礼を言って、すぐさま温かくするように言い、僕は上着を脱いでミューをくるんだ。
部屋に戻れば先に連絡が入っていたのか、侍女がお湯を用意してくれていた。そっとぬるま湯につけて、体を温める。
「死なないで」
神様からの贈り物だと言われていたのに、こんなことになるなんて。
ひどく辛い気持ちでいっぱいになった。
途中で侍医がやってきて、ミューを見てくれた。体が温まっても、目が覚めない。温かくするしか方法がないと言われ、夜もずっと抱きかかえて眠った。
ミューの容態が気になってよく眠れずに、ウトウトしていると抱えているはずのミューがいないことに気がついた。
「ミュー?」
眠い目を擦り、体を起こす。暖炉の火が小さくなっていて、部屋も少し寒い。どこに行ったのだろうと、辺りを見回せば、自分の寝台の上に誰かがいる。
驚いてそっと盛り上がった上掛けを覗き込んだ。そこには黒髪の小さな女の子がいた。彼女はミューを包んでいた僕の寝間着を着ていた。
「ミュー?」
声を掛ければ、ゆっくりと目が開いた。大きな瞳は綺麗な深みのある紫。
小さな光しかない部屋でも何故か色鮮やかに見えた。
「ごめんね。心配かけて。あのクソガキ、カイデンを馬鹿にしていたから我慢ができなかった」
「え?」
「本当は引っ掻いて、噛みついてやろうと思っていたんだけど、意外と猫の体は小さくて池に飛ばされちゃった」
「守ってくれようとしたの?」
ミューはうつらうつらしていて、どこか夢心地だ。もしかしたら自分が猫のまま喋っていると思っているのかもしれない。
「うん。だって、カイデン、ご飯くれた」
「ご飯……」
初めて会ったときのことだろうか。ご飯しか覚えていないのだろうか。複雑な思いに捕らわれた。
「それにカイデンは温かい」
そう言ってすり寄ってくるので、彼女の横に体を滑り込ませてミューの額に自分のを押し当てた。
「ふふ。なんか、素敵」
「ミューは僕が守るよ」
「ありがとう。わたしもカイデンを守るよ」
他愛もない会話をしているうちに、再び睡魔が忍び寄ってくる。次に気がついた時には朝になっていた。
そっと隣で眠る黒猫を抱き寄せると、その額にチュッとキスをした。
黒猫のミューはとても活動的だった。
母上が寵姫であるため、嫌味を言ってくる人間と裏で嗤いながらすり寄ってくる人間のどちらかしかいなかった。普段は気にしないようにしているが、もっともらしく非難されるとどうしても悔しくなる。
僕がその悔しさに陰で泣いていればミューは寄り添って、慰めてくれる。そしてその後、何故か報復に走った。
どちらかというとそれを止める方が大変だった。騎士たちもよくわかっていて、いつの間にか誰かがミューの警護をするようになった。攻撃的なミューを宥めて、平穏を保つことが目的だ。
そんなことを繰り返しているうちに、僕は人の言葉があまり気にならなくなった。だって気にすると、ミューが何をするのかわからない。意気込みはともかく、小さくて弱い体なのだから叩きつけられたりしたら大変だ。
周囲の人間を巻き込みながらミューを甘やかしていたら、自然と使用人や護衛達とも親しくなった。彼らは僕とは適切な距離を保ちながら、前よりも柔らかく接してくれるようになった。
彼らは僕の知らないところでミューの好きそうな菓子を上げるようになっていった。ミューは単純だからお菓子をくれる人間はみな優しいと思っている。
時々それを注意するが、ミューはわかっていなかった。言い聞かせる時が寝ぼけて人型になっている時だから余計に抜けているのかもしれない。わかっているが、猫のミューに注意しても適当に誤魔化すだけだから仕方がない。ミューにとってお菓子はとてつもなく魅力的なものらしい。
制約の多い生活であっても、ミューがいるだけで鮮やかに色づいた。僕はミューとの時間が欲しいから、必要以上に課題をこなし文句を言わせないように頑張った。
そして運命のあの日。
そろそろお披露目をするかと、通常なら10歳で行われる茶会が8歳に繰り上がった。出来の良さを色々な人たちに褒められた父上が早めに自慢したいと言ったからだ。
繰り上げとか変に目立つからやめてほしいのに、父上は譲らなかった。異母兄上も優秀で王妃様がいつも必要以上に自慢していると怒っていたから、優秀なのは異母兄だけでないのだと示したいのかもしれない。
異母兄上や王妃様の目につくのは面倒に思っていたから父上に10歳でいいと断ったが、人脈も必要だともっともらしく諭された。
ミューによって側にいることになった学友はとても信用できる人間だけになっていたからこれ以上、親しく付き合う人を作る気はなかった。それでも必要だと、父上だけでなく母上にも諭されて仕方がなくお茶会を開くことになった。
そのお茶会に暗殺者が紛れていた。誰よりも早く異変に気がついたミューは僕に体当たりをした。よろめいて尻もちをついた僕が見たのは、ミューが暗殺用の特殊な剣で刺されたところだった。ミューの小さな体は剣を抜いた時に地面に落ちた。赤い血だまりが地面に広がった。
ミューの動きを見ていた護衛は暗殺者を見つけていて、すぐさま取り押さえた。
「ミュー!」
ミューは声に反応して少しだけ体を震わせたが、そのまま動かなくなった。
人前では泣いてはいけないと言われていたけど、涙がどうしても込み上げてくる。
「カイデン、服が汚れているわ。着替えてきなさい」
母上が静かにそう言った。腕にいるミューをぎゅっと抱きしめた。この場で取り乱してはいけない。そう言われているようで胸が苦しい。
優しく促すように背中を押された時、母上が誰にも聞かれないように小さく囁いた。
「控えの間に侍医を呼んであるわ。折角ミューが助けてくれたのです。あなたの役割を果たしなさい」
「わかりました」
喉にこみあげる塊を飲み込み、顔を上げた。護衛にミューを預け、着替えに戻る。
すべてが終わった後、ミューの所に戻った。綺麗に整えられたミューに一晩寄り添った。
うつらうつらしていると、ふわりと何か温かなものに頭を触られた。顔を上げたが、誰もいない。でも確かに頭には温もりを感じる。
「ミュー?」
「お前がこの子を大切にしてくれたのと同じように、この子もお前が大切だったようだ」
低くはあるが艶のある声が響いた。聞いたことがない声であったが、警戒心は生まれなかった。
「あの、誰ですか?」
「誰でもよい。この子は手伝いをせずに体を失ってしまったからもう一度下界に送るつもりだ。それだけを伝えておく」
温かな何かはふわりとほどけてなくなった。はっきりと目が覚めたので辺りを見回した。誰もいないことを確認し、息を吐く。そしてミューの寝床を見ればミューは消えていた。
ミューがいなくなったことと、とらえどころのない言葉の意味を考える。
導き出せる答えは一つしかない。母上の言葉を信じれば、ミューは神の愛し子だ。きっと声を掛けてくださったのは神で、ミューはまたここに生まれてくる。
翌日からミューを探すことを決意した。もちろん、護衛たちの協力も得て。
****
淡々と日々を過ごして、あれから5年が経った。俺は王位には興味がなかったので、ミューを探せるように騎士となった。
王族が騎士団をまとめ上げるのは慣例のようなところもあるので、すぐに許可された。鍛錬を行い、視察と銘打ってどこにでも行った。あちらこちらへ回っていけば、ある日、孤児院で見つけた。
「……どう思う?」
「間違いないでしょう。あの黒髪と鮮やかな紫の瞳。それにあの性格」
いつも一緒にいる護衛隊長に聞けばそんな答えが返ってくる。何人かが、それに同意した。
「だけど、少し距離を置いた方がいいかもしれません」
「何故?」
できれば今すぐに攫って行きたいのに、そんなことを言いだす。不愉快気に眉間にしわを寄せれば、護衛隊長は笑った。
「殿下のお気持ちもわかりますが、彼女はまだ幼い。しかも孤児だ。危険にさらさない方がいいでしょう」
「そういうことか」
がっくりと肩を落とす。俺は13歳で、最近は釣書が山ほど送られてきていた。見た目だけは母上に似て極上なので、寄ってくる女が多い。王位を継承する可能性は限りなく低いのに、釣書は増えるばかりだ。
「それに神の愛し子で、手伝いがあると言われているのならそのうち神託が降りるでしょう。その時に保護すればいいと思いますよ」
「わかった」
渋々と納得したところに、護衛隊長がにやりと笑う。
「心配しなくとも、今度こそ守ります。俺らが」
「お前」
「ですから、もうちょっと成長するまでは接触禁止ですから。あれはあれで、娘のような存在なんですよ。心配で放っておけない」
なんだか釈然としないが、仕方がない。これでは前と同じじゃないか、と思いつつ、放置している釣書を片っ端から断ろうと心に決める。
そして、そこから5年後。
護衛騎士たちは月に一度突撃してくるミューと戯れ、イライラしながらも遠くからその変わらない性格に心が温かくなる。
「殿下も一途だけど、ミューもたいがいだ。菓子よりも殿下に会いたいそうだ」
ミューに対応した護衛達は楽し気にそんな報告をしてくる。ミューがどんな行動をしたのか、どう話したのかを得意気に説明する。あまりの距離の近さにイラっとしたが、身辺もまだ整理しきれていないので、ミューと接触はできない。
そんなある日、神託が降りた。
ようやくミューと顔を合わせることができる。早くその日が来ないかと、心待ちにしていた。
まさかさらに8年も待たされるとは思ってもいなかった。神殿が金に汚いことは知っていたが、それだけではなかった。俺と婚姻を結び、王家とのつながりを欲した歌姫候補たちの家は神殿の思惑を上回るほどの熱意で食いついた。
「どうしたの、そんなに怖い顔して」
ミュー……ミンディがひょこっと下から顔を覗き込んだ。抱きかかえるようにして一緒に長椅子に座っていたのだが、不意に黙り込んだので不思議そうな顔をしていた。
「無駄な8年間を思い出したら腹が立った」
「あの8年で神殿はだいぶ搾り上げたみたいよ。色々あったけど、結果的にはよかったみたい。大神官さまはほくほくだったわ」
ミンディはどこか遠い目をした。
「神殿はあれでいいんだろうかと時々疑問に思う」
「それはもう仕方がないわよ。神の神託だけは守る組織ですもの」
「そうか」
信じられないほどの腐敗臭のする神殿であったが、それでもミンディを守ってくれた場所だ。常識的な範囲での付き合いだけはするつもりでいる。神官長が何故かミンディの保護者になっているのだから仕方がない。
「この子の名前を神官長様がつけたいと言っていたわ」
「断れ」
「それを聞いた大神官様が、名前を付けるのは自分だと駄々をこねていて」
「いっそ縁を切れ」
ミンディのお腹をそっと撫でながらそう呟けば。
「それも考えた方がいいかもね」
軽い感じで返事をされる。
心地よさを感じながら、二人して笑った。
Fin.
最後までお付き合いありがとうございました。
◆誤字脱字報告、ありがとうございます。
多くの指摘を頂いてとても助かっています。
今回は特にひどくて(^▽^;)
ないのが一番理想ですが推敲もいつもの半分程度なのでと言い訳しつつ、心から感謝です。