再会
逃げ出したいな、と遠くを見つめて思った。
歌姫候補になって8年、初めて神殿の外に出た。その理由が寵姫主催のお茶会だ。歌姫候補が全員招待されている。早い話が、第二王子との顔合わせだった。
8年経っても決定していないのは、別に神殿側の思惑ではない。最初はお金を巻き上げようという魂胆の元、のらりくらりだったらしいが、それも半年ぐらいだ。
お金を適度に巻き上げたので、背中の痣のことも公にして二人が歌姫ではないと断定したのだが、今さら取って付けたように言われても信用ならないと一蹴された。
その後、神へ歌を捧げて判断しようと決まったが、思いのほか他の候補者から反対にあった。曰く、練習期間が少ないと。
そんな感じで神殿側と他の候補者側がもめにもめて、気がついたら8年という年月が過ぎていた。わたしが18歳となったのだから、他の候補者もそれぐらいの年齢で、やや行き遅れ感が出ている。第二王子だって26歳になった。
いつまでたっても決まらない歌姫に痺れを切らした王宮側が今回の茶会を主催したというわけだ。
茶会は沢山の人であふれかえっていた。広いはずの庭は所狭しと人々がいる。それぞれが小さな塊を作って、噂話に興じていた。
茶会の会場は彼を助けたあの庭だった。懐かしさと、少しの寂しさを感じる。猫の時には遠くから彼が見えるところに陣取って見つめていた。
決して自分が入ることのできない空間。
じっと見つめているしかなかった。それでもよかった。彼が頑張っていたから。彼は茶会の席で反感を持たれないよう、侮られないよう注意していた。
「緊張するかい?」
わたしをエスコートしたのは神官長だ。大神官は昨日までわたしのエスコートをすると喚いていたが、お年であることと、ぎっくり腰の再発であえなく断念した。
神官長はいつもの簡易的な神官服ではなく、とても煌びやかだ。わたしも神殿の用意した新しいドレスを身に纏っている。神殿が後ろ盾ということで用意されたドレスであったが、どう見ても歌姫のドレスだ。
このドレスを見て二人の候補者がどんな反応を示すのか、気になるところだ。それ以上に庭の入り口に近づくにつれて体が震えた。
「そろそろ帰ってもいいですか」
「まだ会場に入ってもいないよ。もう少し頑張ろう」
会場に入るのが怖かった。神官長は励ますようにわたしの腕をポンポンと叩く。少しは慰められるが、そんな程度でこの恐怖は消えない。恐らくだが、猫であったときの記憶が鮮明過ぎてダメなのかもしれない。
「そちらが神殿が後見している歌姫候補だろうか」
後ろから低めの声がかけられた。神官長はゆっくりと振り返ると、目を細めた。
「これは王子殿下。お招きありがとうございます」
「神官長、久しぶりだ。そちらの女性を紹介してもらっても?」
わたしは息をのんだ。
彼だ。
少し癖のある金髪に薄青の瞳。
意志の強い目は今も変わらない。
背が高くなった。肩幅もがっしりとして細身であるがとても鍛えていそうだ。身に纏った黒の礼装用の騎士服もとてもよく似合う。
こんなに大きくなったんだ。
最後の時には彼は8歳、あれから18年が経っている。彼も26歳、すっかり大人だ。
あの時に失われたかもしれない命がきちんと成長しているのを見て、嬉しさを感じた。
「黒髪に紫の瞳――」
ミュー。
小さな小さな声だった。
神官長は聞こえなかったようだったが、わたしにはそう聞こえた。パッと顔を上げれば、じっと真剣に見つめていた彼の目が、わずかに細められた。それはミューであったときに注がれていた優しい眼差しと重なる。でもそれだけでは何とも判断ができない。
「神殿が後見ということはそういうことだと思っていいのだろうか」
「この子は孤児でしたから。我々が後見するのが最適だと思ったまでです」
「――では、エスコートを申し出ても?」
神官長は笑ってわたしの手を自分の腕から外した。
「王子殿下。初めまして。ミンディと言います」
「カイデンと呼んで欲しい。貴女が本当の歌姫なのだろう?」
確信を持った言い方に思わず神官長を見てしまう。神官長はいつもの笑顔で、特に何も言わない。仕方がなく濁すことにした。
「さあ、どうなのでしょう。なかなか決まらないのはわたしに資質がないのかもしれませんし」
「今はそういうことにしてあげるよ」
どうやら実情を知っているようだった。知っているのならこれ以上何も言うことはないので、曖昧に微笑んだ。
カイデンはわたしの手を握りしめ、会場の中心へ向かって歩き出した。
会場に入った途端、一斉に視線が向けられた。様々な人から突き刺さるような視線を向けられて、体が自然とこわばった。視線で殺せるとしたら、体がずたずたになってしまいそうだ。
小さなカイデンが茶会の度に仮面のような笑みを浮かべていたが、よくもあの顔を維持できたなと感心する。
「大丈夫。周りを見てごらん」
そう囁かれて、さり気なく周囲を見回した。招待客と少し離れたところに護衛している騎士が見える。そのうちの一人と目が合えば、にっと笑顔を見せられた。
「あれは……隊長?」
街中でいつも保護してくれていた隊長がいた。他にもちらほらと知った顔がある。わたしは義理堅いのだ。8年も前のことだが、菓子をもらった恩は忘れていない。向こうもわたしに気がつくと、わかりやすく合図を送ってくれる。覚えてもらっていることが素直に嬉しかった。
「あいつらは君が好きだからな。いつも色々な菓子を買ってくる」
「知っていたんですか?」
驚きに目をみはれば、彼は楽しそうに口元に小さな笑みを浮かべた。
「君が近づけないように指示したのは俺だから」
「はい?」
信じられない言葉に目を瞬いた。じっと彼を見上げたが、それ以上は言うつもりはないのか、さらに笑みを深めただけだった。
「カイデン殿下」
二人で中央まで歩けば、すぐさま声を掛けられた。彼はわたしの腰に腕を回した。
その近い距離に思わずぎょっとする。確かにミューの時は一緒に寝たり、キスしたり、頬にすり寄ったりしていたけど、人間になってからどうもそういう行為は恥ずかしい。
顔が熱くなるのを感じながらも、じっとしていた。声を掛けてきた女性はやや茶色のかかった黒の髪とグレーにも見える薄紫の瞳をしていた。彼女はわかりやすく不機嫌そうな顔をした。だがカイデンが顔を向けるとすぐさま笑顔になる。
「わたくし、リアナ・バンクスですわ。歌姫候補ですのよ。そちらの庶民は別の方に任せてわたくしのエスコートをお願いしますわ」
「……何故、貴女をエスコートする必要がある?」
機嫌を損ねたのか、カイデンの声が一段低くなる。リアナは慌てて取り繕った。
「きっとわたくしが歌姫ですもの。そんなまがい物を一時でも殿下の側に置いておくなんて我慢がなりません」
どうやら自信を持てるぐらいの金を積んだらしい。
「あら、浅ましい人は歌姫に選ばれませんわ」
涼やかな声が割り込んだ。笑いを含んだ声は、鈴を転がしたように透明感がある。声の主に目を向ければ、もう一人の歌姫候補がいた。こちらは商家の娘だ。髪の色は黒に見えないことはないが、どちらかというと黒褐色だ。瞳の色は薄い赤紫。
彼女は優雅にお辞儀をした。
「王子殿下、初めまして。わたしはセリーナ・コムリーと申します」
3人の候補者が集まった。この顔ぶれがそろったのはわたしが神殿に引き取られたとき以来だ。
これから何が起こるのか。嫌な予感しかない。
カイデンはわたしを連れて歩き出した。特に会話する必要を感じないという態度に、二人の顔色が変わった。
「お待ちくださいませ。そのような作法を知らない娘を連れていたら、殿下の品位に関わります」
リアナのきつい言葉にわたしは肩をすぼめた。作法なんてきちんとできている自信はない。言葉はまだまだ微妙なところがあって、笑ってやり過ごすつもりだった。
自信なさげにカイデンを見上げれば、彼は優しく微笑んだ。
「このような明るい席で、押しかけてくる女に品位があるとは思えないが。それになぜ私がお前たちの言葉を聞く必要がある?」
歌姫は神の愛し子であるのは間違いではないが、王族へ要望を通せるほどの権力はない。そう神殿では教わった。自分が一番偉いと勘違いしている痛い子なのだろうかと、心配になってきた。
「それでもわたしも歌姫候補ですもの。少しでも殿下と一緒にいたいと思ってはいけませんか?」
カイデンは面倒くさそうにため息をついた。少し離れた場所にいる神官長を呼ぶ。
「ここで歌姫を決定することはできないのだろうか? このまま言われ続けても鬱陶しいばかりだ」
「歌姫候補の無礼、心からお詫びいたします。そうですね、一番簡単なのは歌わせることです。歌姫であれば、神からの祝福が降りることでしょう」
はい?
歌ですか?
唖然として神官長を見つめた。彼はにこにこと人のよさそうな顔をしている。ちらりと二人の候補にも目を向ければ、彼女たちはわかりやすく黙り込んだ。
「丁度これだけたくさんの貴人たちがいます。今まで神託の内容から、甲乙つけがたく、我々では決定しきれませんでした。神殿の閉ざされた部屋で歌姫を決定するよりも皆が納得すると思います」
「なるほど。一理あるな」
カイデンは神官長の言葉に納得したのか頷いた。僅かにカイデンの口の端が上がっているのを見て、これは仕組まれたことだと気がついた。
神官長をそっと伺い見れば、いつもと変わらぬ態度であったがどこか楽しげにも見える。神官長にしたらわたしが歌姫であることは明白で、何年も続くお金のごり押しにうんざりしていたのかもしれない。
「3人とも、それで問題ないな?」
確認するように聞いてくるが、すでにそれは決定事項だ。頷くしかない。
まあ、わたしとしてはここで決定してもらって、大祭の時にきちんと歌えればいいわけなので文句はない。だが、二人はどうなるのだろう。先に二人が歌ってしまうと、神を欺いたとならないだろうか。
「あの、神官長」
「なんだい?」
「候補が3人ですから、2人は歌姫ではないということですよね? もし違っていた場合、神からのお怒りを買わないのでしょうか?」
神の立場から考えてみれば、二人は周囲によって勘違いされているわけではなく、ごり押しして候補になっている。それが心配で仕方がなかった。
神官長はにこやかに答えた。
「本人が偽っていなければ、何も怖がることはありません。神は寛大ですから。ですが、自らが偽物だと知っていて歌姫――神の愛し子だと偽っているのであれば過去の例を見ても、何かしらの罰が与えられるでしょう」
神官長の言葉に、二人の候補は悲鳴を上げた。
「そんなこと、聞いていないわ!」
「わたしは歌姫の候補を辞退いたします」
神官長は不思議そうに騒ぐ二人を見つめた。
「おや。常々、自分が歌姫であると語っていたと思うのですが。それに沢山のお布施も」
そろそろ許してあげなよ、と思いつつ、それだけ鬱憤が溜まっていたのかぁと繰り広げられる茶番を見つめていた。