第七章 運河に映った影 〈乃愛〉
ある月曜日の放課後。突き詰めて言うとテスト期間最終日。その日は大学一年生前期の最終日でした。鬱々とした湿り気を放つ季節から一転、からっとした熱い空気の中で夕闇に染まる地元の駅前を歩きながら、私は大好きなインディーズバンドの曲を諳んじていました。そのインディーズバンドというのは現在東京で活躍している大人気ロックバンドのことで、その名声はうなぎ顔負けの上昇っぷりで留まることを知らず、今では一つのライブのために全国から大勢のファンが押し寄せるほどの認知度で、近々メジャーデビューするのではないかとの噂もあるようですが、結成当時は私の住む街のライブハウスを拠点としていたようです。そんなことはさておき、いつものように授業が終わると私は行くべきところへと足を運びます。それは市立図書館の時があれば、そうでないときもあります。その、そうでないときが今日でした。
大学から地元まで帰ってくるにはいくつか電車を経由しなければなりません。それは長いと言えば長く、短いと言えばまだましな方だと納得できる範囲のものですが、それを判断するには幾分か電車内での過ごし方に工夫を凝らせる必要があります。そこで一役買うのが読書です。大学から自宅までの所要時間は徒歩を含めて片道一時間半で、そのうちの一時間が電車に揺られる時間であり、読書に励む時間となるのです。
昨日はカントの純粋理性批判を、一昨日は般若心経を読みました。え、全然女子大生らしくないって? そんなことないですよ。そんな日もあるというだけで、猿蟹合戦の絵本を読むこともあるのですから、すべては気分次第なのです。
というわけで、今日も今日とて読書のおかげで有意義な電車ライフを過ごせた私はカラマーゾフの兄弟の文庫本を閉じて地元の駅に降り立ちました。
駅から家までの道のりを素直に歩けば五分で済むところを今日の私は敢えて違う道を行きます。行くところがあるからです。駅前を通って踏切を渡り、国道に出るとそれから一つ奥の、住宅が密集する道に入り、北を向いて真っすぐ歩きます。すると二十分ほど歩いたところで公園が見えてきます。
この公園は広大な敷地面積を誇り、敷地内部に設けられた遊具の数はいざ知らず、子どもが楽しむためのゴーカートや、市民プールも園内に作られています。また、園内を囲うように敷かれている、永遠とも思われるほど長い園路の両端の縁石の向こうでは、おびただしいほどの数の松の木がまっすぐ天を衝いているのでした。園内は子どもたちにとって格好の遊び場となりますが、あたりが暗くなるとこの暗黙した松の木に恐れをなし、五時を告げるチャイムが鳴るころにはそそくさと帰っていくのでした。
私は誰もいない公園に入ると併設された青少年センターの横を通り、大きな運河に出くわしました。その運河にはコンクリートの、六段の大きな階段が流れる運河に沿うように連なっています。私はその階段にゆっくり腰をかけて、思索に耽るのでした。
この運河は大層広いもので、時たまボートが通ったり、小さい魚が跳ねたりしていました。向こう岸には工場やら競艇場やらごちゃごちゃとした建物が大きな木々に囲まれるように建っていて、そのさらに奥で慌ただしく右往左往する大きなトラックを乗せた幹線道路が土台のように映り、その背景では赤白を刻んだ立派な工場の煙突や燦然と輝く鋼鉄の塔が複数そびえたち、もくもくと白い煙を吐いていました。
その光景を正面に据えると、ついに私は肘を膝にあてがって頬に両手の平をくっつけ、今日一日あったことを洗いざらい反芻し、その時々の世界に飛び込むのでした。
「ねえ、笹見さん」
トオルさんはせわしなく私の隣で話しかけてきます。恍惚とした心情をドミノのように勢いよく崩しにかかるのは往々にして彼の声でした。
「なんでしょうか」と私は十分に間を置いてから慇懃な態度でそう答えます。
「笹見さんはふとした瞬間に『ここから逃げ出したい』って思うことはある?」とトオルさんは二人以外誰もいない、閑散とした講義室でそう言いました。
「いいえ、ありません」と私は言いました。
「そう、でも、誰しも一度はそういう感情に襲われることはあると思うんだ。たとえば、必ずしも保障されていない将来のために今のすべてを賭けて努力している時なんてそう。そのことを考えただけで逃げ出したくなるよ。笹見さんはそういうこと、考えたことない?」
「私は」と息を整えてしっかりとした口調で言いました。「私には猫がいるから大丈夫なのです。猫が私の代わりに色んな世界に羽ばたいていくんです。それで、その世界で見たすべては私の中に入っていくんです」
トオルさんは意外にも真面目な表情をして私の話に耳を傾けていました。そして、聞き終えると一寸の躊躇をもってしてこう言いました。
「笹見さんは猫を飼ってるの?」
「いいえ、飼っていません。頭の中で飼っています」
「へえ、どんな猫なの?」
「たくさん居ます。黒猫がいれば白猫もいます。でも、その猫たちはみんな羽を生やしています」
「ふうん。それは素敵だね。どこまでも羽ばたいていけそうな気がするよ」トオルさんはそう言って椅子から立ち上がるとかばんを持ちあげていました。「この前ウサギさんとカメさんのどちらが早いかの話、やっぱりウサギさんだと思うんだ」
「どうして?」と私は訊ねました。
「そう思うからだよ。それしかない」
「じゃあ、一つだけ。トオルさんは逃げ出したいと思ったことがありますか?」
「ないよ」
「どうしてですか?」
と私が訊ねると、彼はしゃんと背を伸ばして右の人差し指をこめかみにあててこう答えました。
「僕の中にも羽の生えた猫が居るからね」
我に返ると、幹線道路を伴った地平線の上に中途半端に浮かんでいたオレンジ色の太陽はとっくに沈み、金色の月が静寂とともに暗闇を照らし、濃密な群青色を携えた運河の波の隙間が月の光を反射していました。ふと階段の奥の方に目を見やると、近所の高校の制服を着た男女が電燈の下で仲睦まじく空を見上げていました。正面を向くとどこからともなく生温い風が吹いて私の頬を撫でました。
時間は刻々と過ぎる中、いつまでもここでのんびりしているわけにはいきません。結局トオルさんの真意が分からずじまいでしたが、私は腰を上げて再び歩き始めました。
帰路の途中、見知らぬ少女に出会いました。道を聞かれたので丁寧に教えてやると、少女はそれで満足した様子で公園の方に歩いていきました。どこにでもいそうな普通のかわいらしい少女でしたが、気になったのは少女の話し方でした。妙な関西弁で、その年には合わないような、何やら難しい語句を話していました。そして別れ際に「東京に行った方がいいよ」と私に言ったのです。私は何がなんだかさっぱり分かりませんでしたが、結局少女はそのまま歩いていきました。
家に着くと、今日のお母さんはいつもより上機嫌であることが分かりました。私が高校に入学してからというもの、お母さんは基本的にいつも不機嫌で、心ここにあらずといった感じでぼーっとしていました。それは一見何も考えていないように見えますが、実は現実世界とはまったく別の世界でとても重要なことを企んでいるようにも見えました。また、その「とても重要なこと」を別の世界で考えることによって、現実世界でのお母さんの精神は限界まで擦り切れ、何かが欠けていくようにも見えました。もしかしたら、その欠けた心が悲鳴を上げているのかもしれません。
そう考えると、私は少し心が痛まないでもありませんでした。高校に入学する前のお母さんも乾いた魚の開きみたいな性格をしていましたが、今のこの不機嫌さよりは純粋なものでした。それが今は陰鬱の二文字が相応しい、水を求めるただの遭難者みたいな人に成り下がってしまったのです。今回の上機嫌はそんな水みたいなもので潤った結果なのです。きっと、三線町さんのお宅でいいことがあったのでしょう。
「あら、おかえり乃愛。今日は学校どうだった?」と言ってお母さんはいつも通り、家の中なのに外着みたいなひらひらのスカートを履いて欧州の貴婦人みたいな仕草をしていました。
「いつもどおり、きちんと勉強しました」
「そう、徹さんとはきちんとお話しましたの?」
「はい」
「どんなお話を?」
「猫の話です」
「もっと大人らしいお話をしなさい!」
そう言ってお母さんは奥の部屋に閉じこもってしましました。
私は真っ暗な部屋でベッドに体を埋めて色んなことを考えました。しかし、どれだけ考えてもまったく解決する気配はなく、黒々とした憂鬱な心持は私の中に蓄積していくばかりでした。すると、私の身体の中である異変が生じていることに気がつきました。胸のあたりが妙に空いた感じがするのです。心臓がなくなってしまったのかしら、と胸にあてるとそんなことはなく、いつも通り鼓動が波打っていました。どうやら物理的な損失ではなく、心理的な損失のようです。その空虚さはいつから続いていたのだろう、と考えてみるのですが数時間前からなのか、はたまた数年前からなのか判断を下すことは出来ませんでした。結局私は胸に手を当てたまま、暗い夜を過ごすことになりました。この時、その空虚さは他の誰かによって埋められることになるとは毛ほども思っていませんでした。