第五章 “間の国” 〈少女〉
少女は帽子屋の軒先にある庭でウサギを傍らにテーブルを囲み、店主とお茶を飲んだ。彼は友人でもなんでもない赤の他人なのだが、不思議にもたまたま居合わせただけで意気投合し、平素では持ち出されないような話題に花を咲かせた。どんな脈絡で会話をしたのかは覚えていないが何を話したのかは何となく覚えている。帽子屋の物言いが大層特徴的だったせいで耳に染みついてしまったからだ。話題についてはこうだ。ある昔、マンホールの中で過ごす三人家族が居たのだが蜂蜜がどうだとか。その後は覚えていない。
「ある昔、マンホールの中に三人家族が住んでいてな、そのマンホールの中には蜂蜜がたんまりたまっていたのさ。それで蜂蜜を汲むのだけれど」
「ちょっと待ってください、マンホールの中にいるのにどうやって蜂蜜を汲むのでしょうか。汲んだ蜂蜜をどこに持っていくのでしょうか」
「どうやって汲むのかってか。君はおばかさんだね。井戸から水を汲むのに何の造作もないだろう。それと同じだろうに」
ざっとこんな具合である。少女は話を聞いているうちに途中で飽きてしまったのでお茶会を抜け出し、歩き出した。
「時間まであと少しですね。そろそろ向かわないと」少女は歩きながら左腕につけた小さな腕時計を見ていた。あれ? さっきから時計が動いていないような。気のせいでしょうか。少女はひとりごちて空を見上げていると正面に誰かが立っているのを認めて、ふとそちらに目を移した。それは鷲とライオンのキメラだった。体がライオンでそれに鷲の翼がついていたのだ。本で読んだことがある。どこかの世界ではこれをグリフォンと呼ぶらしい。少女はそう思いながら彼/彼女の身体を見回しているとついにそれと目が合ってしまった。
「こっちこい」グリフォンはそう言うと、少女に背を向けて真っすぐ歩き始めた。
少女は彼/彼女自身にはなはだ興味があったので、十歩ほど距離を置いて後ろからついていった。初めは気にしていなかったのだが、彼を観察しているうちにあることに気がついた。グリフォンが二足歩行で歩いていたのだ。ライオンが四足歩行であるのならば、そのキメラも四足歩行であるべきではないのか、と少女は小さな頭で考えていたがその疑問を解消してくれる情報は地面のどこにも転がっていなかったし、考えているうちにどうでもよくなった。しばらくすると道が海岸に沿って、左側に海を見渡せるようになった。グリフォンがそれを認めると、砂浜の方に歩いていった。グリフォンが歩いていった先にはすっぽんが大きな石に腰かけており、グリフォンと何やら親しそうに話をしていた。
「すっぽんさまだ」とグリフォンは後から来た少女にそう言った。
すっぽんさまはグリフォンとは比べ物にならないくらい小さな体をしていたが、相手を威圧してしまうほど恐ろしい顔に年相応に深く刻み込まれた皺と足を神経質に組みなおしたりする仕草が並々ならぬ貫禄というか、荘厳さを生み出していた。
「おう、こいつがあのガキか」
少女はガキ呼ばわりされて癇癪を起こしかけたが、すんでのところでそれを抑えつけた。
「そうなんでさ、すっぽんさま。なんでも“言霊の港”で倒れていたところを漁師が見かけたんだが、声をかけようとしたらいきなり憑りつかれたように飛び上がってどこかに走り去ってしまったとか。おかしいですねえ。ここではとんと見かけない顔だ。でも、それが、門番の管理リストにも載っておらんのですよ。十年先まで遡りましたよ。でも、こんな子どもは載っておりませんでした。猶更おかしいですねえ、何か裏がありますぜ」とグリフォンは厚かましい身振り手振りでことの詳細をすっぽんさまに報告した。
「なるほど、大体は分かった。おいガキ、お前がどこからどうやって来たのかは知らん。一応うちの助手たちを総動員してお前の身元を調査させたが何も分からなかった。が、ここでお前をしょっぴいて尋問しようとは思わん。というよりそんなことはここでは出来ない。何せここは“間の国”だからな。間には何もない。時間という概念すらない。そこには無しかない。それはただ間の両端のものをくっつけるためだけにある。だからお前がここで何をしようと構わん。お前からは邪気を感じないからな」
すっぽんさまはそう言うとグリフォンから煙草を受け取ってふかし始めた。
「私を処罰しないのですね?」
「左様、お前にはもう用はない。さっきの帽子屋でもどこでも行ってこい」
「それは困ります」と少女は言った。
「ん?なぜだ? お前はもう自由なのだぞ?」
「私には行かなくてはならないところがあります。しかし、そこに行くにはどうも自分の力だけでは無理だと存じます」
と、少女が言い終えると、すっぽんさまは「むう」と唸るなり眼を閉じて一、二分ほど思案した。その様子は何か得体のしれない邪気に苦しんでいるかのようだった。年々刻み込まれた皺の奥深くには全世界の悲しみの根源が隠されているのではないかという程の不穏さが彼の形相から漂っていた。だが、やがて瞳を開くと元の荘厳なすっぽんさまに戻っていた。
「なるほど、いやはや、お前の言うとおりだ。ここは“間の国”だからな。右から来くる者は左へ、左から来る者は右へ出ていかなければならない。それが“間の国”の理念であり決まりごとだからだ。だがな、そんな規則を無視してここに留まるものも居る。そういう奴らは本来許しておけぬ存在だったのだが、いつの間にか数が増えてここの住人となり、正式な市民権を得るようになった。だから今となってはそれも許される一つの道なのだ。それでもお前は行くというのだな。して、お前はどこに行きたいのだ」
少女は蒼白な吹き抜けと青の深淵が混ざりあう彼方の光景を思い出し、苦虫を噛み潰したような感情に襲われながら真摯に答えた。
「ある男に会いたく存じます。その人が私には必要なのです」
「あい分かった。その願い、かなえてやろう。方法はわしが知っておる。だからお前をその場所へ送るにはわしの力が必要だ、しかし、その前にやらなければならないことがある」
「やらなければならないこととは何でしょうか」少女はすっぽんさまがあの場所へ行く鍵を握っていることを知って大層嬉しくなり、つい前のめりになった。
すっぽんさまはニヤリと笑うと、白い歯を輝かせた。そのうちの一本だけ金色の輝きを放っていた。
「おいガキ、オセロは知っているか」