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藍色の約束  作者: みくに葉月
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第四章 それから 〈乃愛〉


 トオルさんと別れると、私は真っすぐ図書館に向かいました。学部棟からは歩いて二十分といったところでしょうか。大学にも図書館はあるのですが、私は市立の図書館の方が好きです。だから時間に余裕が無い時以外は必ずそっちの図書館に行くようにしています。大学を出て大きい道路を道なりに進み、小さな石橋を渡ります。午後五時半。外は暗くない、かといって明るくもない、薄暗いと言うにはあまりにも微妙な空であり、まるで地平線が今の時刻を昼とするか夜とするか決めかねているような空でした。

 駅前を通り過ぎ、踏切を渡ります。駅前の街路樹の木々のうちの一本には雀の群れが枝に止まっていました。どうやら私と同じように雀たちもお疲れのようです。私も早く羽を休めたいものです。でも、もう少し歩かなければなりません。踏切を渡った道を真っすぐ歩き、左に曲がります。そして突き当りにある「たそがれ」という複合施設の中に入ります。その施設は市立図書館はもちろん、スーパーや百円ショップなどの店舗から市民文化会館や大ホールという冠婚葬祭や舞台公演のための会場など、様々な施設を抱えており、生活と公の場の両方を兼ね備えていました。いわばこの施設は街のシンボルのようなものなのです。

 図書館に入ると、私は私だけの時間に入り浸りました。好きなことに夢中になると時間を忘れるとはよく言ったものです。結局私は閉館時間の午後九時までここに入り浸ることになりました。今日、私が手に取った本は夏目漱石の『それから』でした。漱石さんの小説はどれも好きなのですが、この本は読んだことが無かったのです。私はわくわくしながら書架からそれを抜き取り、机の側にある椅子に腰を下ろしてそれを読み始めました。

 それから、(下らない冗談です)私はその世界に感情移入し始めました。このどうしようもない現実世界から本の世界へ。それは今の私にとって数少ない幸せであることは間違いありませんでした。まるで鳥みたいに、いえ、猫みたいにページとページの間の世界に身を入り込ませるのです。その世界の主人公は私とはまるで違う性格をしていました。彼は現実において深く自分の信念を尊重していました。舞台は明治時代。家族の束縛が強く、不自由で、周りの体裁ばかり気にしなければならない時代(今もそう)。そういった時代背景であるにも関わらず、彼は結婚などの人生における重大事項について、たとえそれが艱難の道を歩む運命を行くことになるとしても彼自身の意見を堂々と述べ、周りの意思を跳ね除けていました。これを傲慢であると決めつけるには私の嫌悪感が足りていませんでした。むしろ、賞賛すべきなのではないかと思ったほどです。この小説は悲しいお話なのですが、大いに私の興味を引き立てました。そして、心の中ではわくわくした感情が芽生えていました。夢中で読んでいると、あっという間に閉館を知らせる合図が鳴りました。私はその本を借りて帰路につきました。外はもうすっかり真っ暗になっていましたが、街頭の一つ一つが眩しく光っていたので視界は良好でした。

 家に帰ると、お母さんがリビングにいました。

「おかえり、乃愛。遅いわね、どこに行っていたの? もう十時半だけど」

 お母さんの顔には怒りの表情が見て取れました。分かりやすい人なのです。私は敢えてそれに気がつかないように荷物を下ろします。

「図書館でお勉強です」と、私は冷めたトーンで返事をします。

「あらそう、家では勉強しづらいのかしら。居心地が悪いの? それは大問題よ。心機一転。大学に入学したんだから一度あなたの部屋の模様替えをしてみるのもいいかもしれない。いいわ、考えておくね」

「お母さん、それは違います。今日は図書館で勉強したい気分だったのです。明日は家で勉強します。だから模様替えもしなくて大丈夫です」

 お母さんは私の言葉を聞いて、酷く安心した様子で胸を撫でおろしていました。しかし、それも束の間、新しく話すことを思い出したらしく、再び険しい顔に戻りました。

「あらそう、でも元々模様替えは考えていたのよ? それで、いざやると決まった時にやりやすいように前もって昼間にあなたの部屋を四隅まで掃除していたのよ。そしたら机の上に置いてある参考書の中に猫の写真集が入っていたのを見つけたわ。あれは何かしら。猫の生態について学んでいるのかしら」

「はい、そうです。野良猫についての社会問題をレポートにして出す課題があって、あれはその参考資料です」真っ赤な嘘ですが、私は出来るだけけろっとした顔で答えました。

 お母さんは何やら怪しむような表情を浮かべていましたが、しぶしぶ納得するような様子でそれ以上追及するのをやめました。

「そう、ならいいわ。でもちゃんと勉強はしてね。それと乃愛、今日は徹さんとお話したのかしら」

 

 私はトオルさん、と心の中で変換します。

 

「はい、しました」と、私は母と面として会話しつつリビングから一歩、また一歩と後ずさりして廊下の階段を目指します。

「どんなお話をしたの?」

「ウサギとカメの話」

「それだけ?」

「はい、それだけです」

「駄目じゃないもっとお話ししないと、徹さんが悲しむわ。三線町さんのお宅とは仲良くしないといけないの。これはお父さんの会社のためでもあるのだから。代々そうやって来たのよ。だからあなたは徹さんともっと仲良くしないといけない義務があるのよ。それにウサギとカメだなんて。小学生じゃないんだから、もっと大人らしいお話をしなさい」と、お母さんは腰に両手を当ててそう言いました。それにしても、大人らしいお話ってなんだろう。

「わかりました。じゃあ勉強してきます」と私は会釈して私の部屋がある二階に伸びる階段を急いで上り始めます。ああ、まだ後ろから何か声が聞こえてくる。

「乃愛! 晩御飯は?」

「後で!」

 私はそういうとドタドタ階段を上り、急いで部屋に入り、ばたんとドアを閉めました。そこでやっと私はリラックスするわけです。ふーっと長い息をしてベッドに飛び込みました。そうして瞼の裏にある空想世界に身を投げだし、寸暇を過ごすのです。私の、私だけの物語がまた始まる。羽が生えたウサギがまた世界中を飛び回る。そこにお母さんのロケットランチャーがぶち込まれる。

「乃愛! ごはんよ!」

 現実は、いやな世界です。

 

 

 次の日も学校がありました。今日の授業は午前中だけなので昼からは自由の身となりました。とはいえ、外は雨が降っていて出来ることは限られていました。外の公園で日向ぼっこは出来なさそうです。無念。さて、何をしようかしら。決まっています。図書館でお勉強です。ただし、場所は市立図書館ではなく、不本意ながら大学の図書館です。いつもの行きつけは蔵書点検でお休みなのです。

 大学は現在テスト期間中ということで案の定、館内は人という人でごった返していました。そのため、むしむしとした湿り気が充満し、それが六月の梅雨の憂鬱さをいくつか助長していました。私は勉強机の椅子に腰を下ろすと、とりあえず最初の一時間は中間テストの勉強をし、その後は昨日読み損なった『それから』を読了してから太宰治の『人間失格』を持ってきて読み始めました。

 ただし、この本を取ってくるには少しばかりの労力が必要となりました。というのも、大学の図書館は自然科学や工学系のより実践的な本が多い代わりに文学系の本の数が恐ろしく少ないため、目当ての小説を読みたくても取り扱っていなかったり、貸出済みの場合が多々あるのです。だから大学の図書館は嫌いなのです。今回は図書館員の人に尋ねて運よく返却直後の本を手に入れること出来ました。

 さて、読み始めるとこれまた昨日に続いて悲しいお話で、それでいてわくわくさせる内容だということが分かりました。初めて人間失格という題名を見た時、てっきりこれは主人公が有能で、高潔で、神に対して従順であるがために人間という枠組みを脱出して敬虔なる天使に昇格するという意図をもってして名づけられた題名なのだとイメージしたのですが、どうやら完全なお門違いのようで、むしろその逆の意味を示していたようです。だがしかし、結構です。私はその手のお話が大好きなのですから。

 どうしてでしょうか。私は昔から悲しいお話が大好きで、それを読むと確かに悲しい気持ちになるのですが、それにも増して愉快な気持ちが犬みたいに頭の中を駆け回るのです。私は狂っているのでしょうか。いいえ、きっと狂っていません。多分、私の心は空想の世界に対してロミオとジュリエットみたいな理想を求めるのではなく、現実との一切の分化を望んでいるのだと思います。この意味がお分かりでしょうか。理想の世界は現実の脈絡の先に花を咲かせるということです。つまり、現実ありきの理想ということになるのです。私は現実が大嫌いです。それもずっと前から、一度だって好きになったことはありません。そんな私でもここまで生きてこれたのは小説の中でも特に非現実的で、かと言って随筆的な、微妙なラインの小説のお蔭様なのです。『それから』万歳! 『人間失格』万歳! なのです。

 そうして目を輝かせながら次々ページに猫を入り込ませていると、突如後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえてきて、するすると現実世界に引き戻されました。

 

「乃愛さん」

 後ろを振り返ると、緑川くんが立っているのが見えました。緑川くんは私と同じ専攻の知り合いで、なんというかその、どこにでもありふれた普通の大学生なのでした。しかしながら、彼からは何かしら不思議なエネルギーを感じていました。根拠は何なのかは私にも分かりません。ただ、彼からは普遍的であることに対して没個性的なコンプレックスを抱えているような様子は感じられず、むしろ普遍的であることが自分に対して有利に働いていると言わんばかりの雰囲気を醸し出しているのが私には分かりました。その「特別な何か」についてはいくら考えても理解することが出来ず、今日もこうして顔を合わせても必ずそういった疑問が脳裏に浮かび、それを回避出来ずにいる自分に遭遇してしまうのです。

「緑川くん。こんにちは」と私は彼が私の後ろに立っていた事実に驚きつつも、何とか舵をとろうとしてそう言いました。

「こんにちは。授業終わりに図書館で勉強しようと思ってここに来たんだけど、さっきたまたま乃愛さんの姿を見かけてね。勉強が終わってもし乃愛さんが帰っていなかったら声をかけようと思っていたんだ。よかった。まだ乃愛さんが居て」と緑川くんは何の罪もない無垢な子供みたいに朗らかな表情をして私にそう言いました。

「そう、奇遇ですね。私もさっき勉強が終わったところです」

「そうなんだ。それは奇遇だね。いや、もしかしたらそれは運命かもしれない」と緑川くんは言いました。

「どうして運命なのですか?」と私は言うと、緑川くんは身振り手振りで話し始めました。

「こんな話がある。ひと昔前、とある村に言葉はもちろん、目配せやジェスチャーなしで頭の中で考えていることを共有することが出来る双子の少女がいた。幼い子どもの兄弟姉妹と言えば喧嘩の絶えないものだよね。もしそんなお年頃にも関わらず、考えていることがお互いに筒抜けだったら地獄だろうね。寒気がするよ。双子はいつも喧嘩をしていた。お互いの頭の中で「馬鹿!」「そっちこそ馬鹿!」って言い合うんだ。二人の少女は最初、その能力は双子固有のものであり、それが出来ることは不思議でもなんでもない当たり前のことだと思っていた。しかし、ひょんなことで世間に話題として取り上げられ、様々な研究機関から調査員がその少女たちの村に押し寄せた。そして双子はその能力の特別さを思い知ると同時にお互いの絆を深め合った。以心伝心とはよく言ったものだね。つまり、今の僕たちの状況はその双子の姉妹と同じなんだよ」

「そんな、大袈裟です。兄弟姉妹でもないしそれに値する仲でもないでしょう。それに、喧嘩もしたことがありません」と私はつい熱っぽくなって取るに足らない反論をしてしまいました。我に返るとさり気なく額に手を当てて頭を抱えました。手の平に伝わる温度は平常通りでした。どうやら熱っぽいのは頭ではなく頬っぺたのようです。

「冷たいなあ。ただのたとえ話だよ。確かに、僕たちは兄弟姉妹じゃないし喧嘩もしたことがない。だけどね、前もって約束したわけでもないのに僕たちは今こうやって顔を合わせて話すことが出来ている。それってただの偶然かな。もちろんその場合もあるだろう。けど今は違う。運命なんだ。必然なんだ。だから以心伝心なんだよ」と、緑川くんはほとんど天使みたいに慈愛の満ちた表情で私を見つめながらそう話しました。とっても温かい。やはりこういったところなのでしょう。他の平凡な青年と違うところを垣間見た気がしました。

「それで、乃愛さん。もし時間があればなんだけど、一緒にお茶でもどう? ずっとここに居ても息がつまるだろう」

「よろこんで。私もどこかで休憩したいと思っていたところです」

 そうして私と緑川くんは図書館を後にし、傘でムシムシする雨を避けながら大学通りの喫茶店に入っていきました。

 中は外装と同じように洋風のおしゃれな雰囲気がただよっていました。エアコンがよく効いていて、天にも昇る心地がしました。外のムシムシのことはもう忘れました。二人とも紅茶を頼み、私は当店オリジナルロイヤルゴージャスホットケーキを、緑川くんはイチゴケーキを注文しました。そこで二人はテストの話や最近の時事ネタなど、とめどない話をしました。しかし、よくよく話をしているうちに緑川くんは紳士的で、優しいお方だということが分かり、また、話しているだけで楽しい気持ちになりました。話しているだけで楽しくなるなんて、奇妙な気持ちです。どうやら、「どこにでもありふれた普通の大学生」というのは私の大きな勘違いだったようです。心の中の前言を撤回します。

 美味しいホットケーキを食べながら楽しい会話が出来るなんて素晴らしいことです! 私はとっても幸せな気持ちになりました。ううん、外に出るのが嫌だなあ。

 

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