第三章 友との時間 〈秋人〉
午後七時、本来ならもうとっくに家で晩御飯を食べている時間なのだが、僕は帰宅して早々シャワーを浴びると、再び荷物を持って家を飛び出し、浅草に向かった。季節はまだ春の終わりなので外を出歩くには十分明るかった。鼠色の空が藍色に変わろうとしている。少し急いだほうがよさそうだ。僕は自転車の鍵を外して駐輪場から自転車を出すと、急いで自転車をこぎ始めた。街の人々はいつものようにネクタイを緩めたり、買い物袋をぶら下げたりしながら何かに怒った顔をして歩いていた。誰かに侮辱されたのだろうか、またはされることを予期して今のうちから怒っているのだろうか。はたまた、只単に被害妄想が怒りのスイッチを押しているだけなのだろうか。他人である僕にとってそれは全く関係のないことだったが、それとは裏腹にいつまでも妙な違和感と共に視界の端っこで他人の影がちらついていた。
それにしても、空が夜に移り変わるのは早いものだ。出発時の藍色の空がより深い群青色に染まっていた。目的地に着くと、自転車を駐輪場に止めてからしっかり施錠し、入口のセキュリティで記憶していた部屋番号をゆっくり思い出しながら打ち込んだ。そうすると、インターホンのスピーカーの奥で物音がしてから目の前のスライド式のドアのロックが解除され、ガラスのドアが横に移動し、中に入れるようになった。僕はガラスの向こうへ足を踏み入れ、エレベーターを使って七階まで昇った。七階ともなるとそこから見える景色は壮大だ。僕の住むマンションも十階建てなので七階もあるが、残念ながら僕の住まいは三階なのでわざわざ上の階まで上って景色を見ようだなんて思いもしないのだ。夕暮れの空が雲を運んでいるのを背景に、遠くの方でスカイツリーが背を伸ばして、それに縋りつくように周りのビルが並んでいるのが見えた。周りの建物の高さはスカイツリーの足元にも及んでいなかった。僕はその街々の景色を見て感心しながら部屋のインターホンを鳴らした。そうすると、しばらくしてドアの間からパジャマ姿の望が冬眠中に無理やり起こされたクマみたいに不満げな顔をして出てきた。
「遅い」と望は言った。
「ちょっと考えごとをしてたんだ。それに、ほら、冬の夜が来る時間の感覚をまだ捨てられないんだ。冬の夜は早いだろ? 大学の最寄り駅に向かって歩いている時は外がまだ明るかったんだ。だからまだ大丈夫だと思ったんだよ。そしたらだよ。家に着いてみるとさっきと写真で比較しないと分からないくらいの加減で外が微妙に暗くなっているんだ。もうそれは夜なのか昼なのか分からないくらいの塩梅だったね。ところがどっこい、家からいざ外に出ると外はさっきよりもまた暗くなっていたんだ。春の夜はサンタクロースみたいに知らない間にやってくるものなんだね」と、僕はわざと不敵な笑みを浮かべて言った。
「よくもまあ、どうしてそんなジョークをペラペラと話せるのさ。まあいいや入って」
望はそう言うと、僕を部屋の中に案内した。中は相も変わらず綺麗に整理整頓されていた。1LDKの部屋で、リビングと自室が一緒になっており、敷居は取り払われていたので部屋全体がとても広く見えた。自室の左奥から順にベッド、テレビ、本棚と並べられ、右側の壁には所狭しとシンプルなソファが置かれていた。リビングの中央にはテーブルが置かれ、椅子が四脚収められていた。浅草の、スカイツリーが見えるマンションで1LDKの広い部屋に一人暮らしをしているのだから、もしかしたら望の家は大変なお金持ちなのかもしれない。どれもゴツゴツとしたシンプルな作りの家具だったが、それが望の部屋に持ち込まれると忽ち柔らかな雰囲気に包まれ、家具がいきなり丸みを帯びたのではないかという錯覚を引き起こした。
まだ入学して二か月の付き合いだが、僕は望の性格をよく分かっていた。ここに何度も来ている僕からすれば、その人が何を考えているかは別として、個々人が持つ性格はこういう取り留めもない場所からこそ感じ取れるものなのだと確信していた。それに、僕は彼のことを大学に通い始めてから出来た数少ない友人のうちの一人だと個人的に銘打っているのだからそれは当たり前のことでもあった。
望は知的な人物だが、それと同時におちゃめな性格を持ち合わせていた。だからふざけていると思っていると急に真面目な顔をしてもっともらしい会話を始めたり、また、その逆のことが行われることが多々あった。望のそういう行動を読むことは不可能だったが、基本的には僕は望のことを理解していた。
しばらくの間、部屋の落ち着いた雰囲気に身を馴染ませていると、望はキッチンから温かいコーヒーを持ってきて僕にくれた。
「秋人は砂糖とミルクでいいんだっけ。そういえば、今日の講義どれくらいまで聞いてたの? まさか、最初から最後まで寝てたわけじゃないよね」望はあくまで自然な表情をしてそう言った。
「いや、そのまさかなんだ。気づいたら眠りに落ちてた。最近ずっとこうだ。大学の授業料を一時間ごとに換算するとそれなりの金額になるらしいね。どうやら僕は睡眠時間をお金で買っていたらしい」と、僕は望が淹れたコーヒーにミルクと砂糖を入れて手際よくかき混ぜながらそう言った。
「秋人、規則正しい生活習慣を心掛けた方がいいよ。あともう少しすれば中間考査もあるし授業内容は頭にいれておかないと」
「そうだね。気をつけるよ、本当に」
「はい、これが今日のレジュメ」望はそう言って今日の講義で配布されたばかりのそれを勉強机の本棚にあるファイルから取り出して僕に手渡してくれた。「次の講義までに返してくれればいいから」
「ありがとう。これを借りるために授業終わりに連絡したんだけど気づかなかった?」
「もう電車に乗ってたから気づかなかったよ。秋人、今度からは居眠りしたらだめだよ」
「うん、頑張るよ。そう言えば、今日瑞樹は来ないのかな」
大学に入学して間もない頃、友達を少しでも多く作るために学科内では同期との交流が盛んに行われていた。友達、少なくとも知り合いを大学でたくさん作ることは悪いことではない。授業中に聞いていなかった部分をこうして共有出来るわけだし、多様な人物と交流することでそれぞれに特化した知識を交わすことだって出来るのだから。
ある日、たまたま少人数教室の授業が休講になり、それで空いた時間に居合わせた僕と、黒沢瑞樹、芦屋望の三人がここに集まって話をしているうちに意気投合し、仲良くなったのである。それからというもの、毎週金曜日の晩はここに集合して晩御飯を食べながらそれぞれその週にあったことを話したり、思っていることを相談し合う慣わしになっている。
「さあね。バイトは十時に終わるって言っていたけど多分賄いがあるだろうし、先にご飯食べちゃおうか」
望がそう言うと僕たちはキッチンで晩御飯の支度をした。今日はカレーライスだった。僕も一人暮らしの身だが、料理面においては望の方が優れていた。じゃがいもの面取り、ニンジンのいちょう切りは見事だった。なので、主な料理の工程は望に任せ、僕はごはんの炊飯と食器の配置をした。二人は支度を終えると静かな部屋で背筋をきちんと伸ばして正座をし、静粛にカレーライスを食べた。そこには声以外の音が無く、音という概念自体がすっぽりと消滅してしまっていた。咀嚼や、食器を置く音さえも全て無音によって吸収された。まるで、世界からこの部屋だけが切り取られたみたいな感覚があった。もし、そこに面識のない第三者が居合わせたとすれば、その人の目に映るのは奇妙の二文字であったことは間違いないだろう。
二人は食事を終えると普段通り、思っていることや、最近あったことについて冗談を交じえながら話し合った。だが、その途中で社会一般的に青春時代の根幹とも言えるような部分について議論し合った。これについては慎重に、真剣に話し合った。
「秋人は最近どうなんだよ」望はお酒を飲んでもいないのに若干酔ったような口調でそう言った。
「どうって?」と、僕はそう言って打ち返した。
「いや、分かるだろ。俺この前言ったよな。同じ学科のあの黒髪ロングの娘とデートに行くって」
「あー、小鳥遊さんって言ったっけ?」
「そう、それで昨日行ってきたんだ。映画見て、買い物して、晩御飯を一緒に食べて、本当に楽しかったよ。自分が可愛いと思っている人と一緒に過ごすって素晴らしいことなんだなって心の底から思ったよ」
「良かったじゃん」
「しかも、付き合うことになった」
「え、ほんとに?」望のその事実には流石に驚いた。何故なら、そういう面において望は僕と似通った人物だと思っていたからだ。この時、僕の中の何かが揺れ動いた気がした。
「嘘ついてどうするよ。本当さ。プロポーズみたいに、安物だけど指輪をプレゼントしたんだ。それで告白した。ベタだって思うだろう? でも、それくらいがちょうど良いんだ。女子は頭がよく働くから指輪の安っぽさには一瞬で気づくだろう。でも、まだ付き合ってすらない人に対して高い指輪は買えなくてもプロポーズみたいに自分に律儀に接したいという意思があるということにも気づくんだ」
「まじか、信じられないよ。まだ知り合ったばっかりなのに付き合うなんて」
「そういうのは勢いが大切なのさ。で、さっきの質問に戻るけど、そこんとこ秋人はどうなんだい。デートの約束があるとか、好きな人がいるとか、について」
この質問は僕が生きている間に何百回なされることだろうか、と僕は思った。もはや、「最近どうなんだい?」という質問は現代の日本の若者の間では「最近恋愛面において何か変化があったかい? そこんとこ、どうなんだい?」と同じ意味を持つのだろう。これは少々大袈裟かもしれないが十九世紀のロシア帝政時代末期の国民みたいに神はいるのか、それともいないのかについて晩餐会で話し合うのと同じことではないだろうか。場合によってはその質問一つで人間一人の根幹にまで詰め寄ることが出来るのだから同じと言えるだろう。僕はこの質問が苦手だった。僕の中に土足で踏み入られるような感覚が……いや違う。もしかしたら話すタネが僕の中のどこにもなかったからかもしれない。
「別に、何もないよ」と僕は言った。
「えー本当かな」
ほらきた。
「だって、秋人はスタイル良いし顔立ちも良いじゃん。悪いとこなしだよ。すぐに気の合う人が見つかると思うんだけどな」
「じゃあさ」と僕は口火を切る。「じゃあさ、望はもし地球上の人物が全て美男美女だったら全員が思った通りの人と出会って思い通りの恋愛をすることが出来ると思う? 自分が善い行いだけをして高いステータスを保っていれば良い人物と出会うことが出来ると思う? 違うだろう。世の中にはB専もいるしLGBTも居る。ちょっとガラの悪いヤンキーっぽい人はモテるし、年の差だって最近では気にされない。ようするに自分が社会で理想化されている像に限りなく近かったとしても必ずしも思い通りになるわけではないということだよ」
「アンチノミー」と望は言った。
「え?」
「なんでもないよ。それで、結局結論はなんなんだい?」
「結局自分の中の恋愛観と社会のそれが上手く一致しないということだよ。そういう面においては疎いからね」
「秋人は熟女好きなの?」
「違うよ。ただ、今は何もかも分からないって言っておくよ」
ぼくがそう言い終えた時、ちょうどインターホンが鳴った。時刻は午後十時半を示していた。
「瑞樹だ!」望はそう言うと焦るようにインターホン専用の受話器の近くについてあるボタンを押してドアのロックを解除した。
廊下を荒々しく歩く足音が聞こえる。望は急いでコーヒーを淹れる準備をした。
「おーい。来たぞー」と瑞樹は玄関に入るなりそう言った。瑞樹はベージュのズボンに鼠色のパーカーを着ていた。中の服はバイトの制服としてカッターシャツを着ていた。彼の身長は百八十センチくらい。がっちりした体系で高校の時ラグビー部だった面影は今も健在のようだ。性格は一見さばさばしているようだが、友達のこととなると底なしの優しさを発揮し、周りの友人からは絶大な信頼を置かれていた。言うまでもなく、彼のそういった第一印象から内面まで、すべて大人しい僕と望とは正反対だった。しかし、それは不思議にも僕たちの型に上手くはまり、僕にとっても、望にとっても欠かせない存在となっていた。
「バイトお疲れ。晩御飯は? カレーの余りあるけど」と、せわしなく部屋に入ってくる瑞樹の側に寄って望がそう言った。
「賄いで済ませてきた。今日は極上のステーキだった。舌が溶けてしまいそうなくらい美味しかったよ。賄いを食べている時が唯一の至福のひとときだね。あれが無かったらとっくに辞めてる。カレーか。賄いは休憩の時だったし、ちょっとお腹空いてるから貰おうかな」
「おーけー合点承知の助!」望はそう言うと嬉しそうに盛り付けにとりかかった。
「なあ秋人、今日の望機嫌良すぎないか?」と瑞樹は怪訝そうに尋ねた。
「彼女が出来たらしいよ。ほら、この前ちょっとだけ話してた例の黒髪ロングの女の子」
「え、あの小鳥遊なんとかって人のことか? まじか、信じられん……。望にも春が来たか。秋人の春はいつだろうな」
「もう勘弁してくれ」
僕はそう言って呆れ果てた顔をした。それでもこの三人で言葉を交わすことはとても楽しかった。考え方は違うくても、やはりここは僕の場所なんだ。僕はそう思いながら心のどこかにある、ぽっかり空いた穴を埋めるようにこのひと時を大切に過ごした。