第二十章 煙突の数
孤独な闘いが始まってからどれくらいたっただろう。腕時計はなぜか機能しなかったし、携帯も反応を示さなかった。太陽と月が入れ替わりは常に不可解だった。太陽が出ている時間が一時間位の時があれば二日続くこともあった。だから寝て起きた時にそれが何日後の朝なのか、あるいは夜なのかを掴むことは出来なかった。その一方、どれだけ時間が経っても、不思議と空腹感はなかった。船内に食糧庫があり、中には大量の食糧が備蓄されていたが、特に必要だと感じることはなく、結局一度も手をつけなかった。
外を眺めていると、時々変な生き物を見つけた。港を出て間もない時には、羽の生えた猫が飛んでいるのを見かけた。これが乃愛の言っていた羽の生えた猫か、と思うと感慨深いものがあった。
この旅には終わりがあるのだろうか。もしかしたら、僕はこの時間経過のない空間の中で訳の分からないタイミングに顔を出す太陽に見守られながら生命を終えることになるかもしれない。そう考えると気が遠くなり、意識も永遠に遠くなりそうな気がした。しかし、そんな苦行は幸いにも終わりを告げた。
気が付くと、僕は何の前触れもなく電車の席に座っていた。どうやらここが過去の世界のようだった。船に居る時は絶望に精神を追い詰められ、このまま命を落とすのではないかと思ったが、着いてみれば過去の疲れはすっかり洗い流され、忘却の泉に沈み込んでいった。窓の外を見ると、今乗っている電車は乃愛の街に向かう電車だということが分かった。車内には人の姿が無く、空調が効いていたので今が何月なのか分からなかったが、途中の停車駅でドアを開いた時にセミが鳴く声が聞こえたので季節は夏だと分かった。どうやら、このまま行けば過去の乃愛の街に着き、過去の因縁たる三線町徹に会えるようだった。僕は決心を固め、これからやらなければならないことを胸に刻み込み、来るべき試練に備えた。腕時計を見えると、八月十五日の午後五時を示していた。時間はもう正常に機能しているようだ。
駅を降りると、日は傾き始め、オレンジ色の陽光が周囲を照らし始めていた。さて、と僕は思った。これからどうしようか。よくよく考えてみれば見知らぬ人のところに行っていきなり訳の分からないことを言ってしまいには結婚の約束を無しにしてくれ! なんて頼むのはどう考えても道理に合わないことだった。それではまるで公子さんと同じではないか。僕は心の中でため息をついて歩き始めた。とにかく行動に移さなければ何にもならない。僕は三線町徹という男が出来るだけ寛容なじんぶつであることを祈り、乃愛の住むマンションの方へと向かった。
乃愛の家に行けばそこに三線町徹が姿を現すはずだ。そして僕はそこに現れ、彼と一対一で話し会う。それは単純な作戦だった。だが、何かしら有効な手立てが見つかるはずだ。僕は乃愛のマンションの前にある公園に張り込むことにした。僕はコンビニで食料を買い込んでブランコに座って根気強くその時を待つことにした。
しかし、待てど暮らせどその時が訪れることはなく、近所の子どもに笑われ、ついに張り込みは三日目を迎えた。全身汚れまみれになり、頬はげっそりして、精神は限界を迎えていた。時間の経過という概念がある分、ここでの耐久戦は船にいた時の何倍もつらかった。出入りをする人間は三線町徹らしき人物どころか、乃愛本人さえ居なかった。もしかしたら笹見家は旅行か、田舎に帰省しているのかもしれない。もしそうなら三線町家の方にも連絡はいっているはずだし、ここに来るはずもなかった。そしてそれが的中していれば僕の張り込みは不毛な努力として終わりを迎えることになる。僕は諦めて、銭湯に行くことにした。
久しぶりの湯船はここ数日の疲れを十分に癒してくれた。体に媚びれ着いた汚れを落とし、埃にまみれた髪を綺麗に洗い落とした。風呂を上がると、売店に着替えが売っていたので一式まとめて買ってそれに着替えた。気分一新。清々しい気持ちになり、銭湯に出ると、外は夜空に包まれていた。ふと思い出し、いるか座を探してみたが、それは見つからなかった。僕はそれから行く当てもないので運河に行くことにした。運河のある公園は街灯が少なくて危険なので、夜間は訪れる人が少なかった。僕は誰もいない運河の階段に腰を掛けて、幹線道路と工場の夜景を眺めた。僕は特にすることもなかったので、工場地帯に生えている煙突の数を数えることにした。
「三十本」とぼくが呟くと、隣で誰かの声が聞こえた。
「三十二本だよ。外が暗い時は奥にある二本の煙突を見落としてしまうんだ」と見知らぬ青年が言った。「突然ごめんなさい。でも、気を悪くしないで。僕はここをよく散歩していて、ここにいる人を観察するのが好きなんだ。それで、君が煙突を数える声が聞こえたからつい声を挟んでしまったんだ」
藪から棒。青年は手ぶらで僕の横で立っていた。どうやら本当に散歩をしていたらしい。
見た目は中学生のような風貌で、その割にはとても端正な顔立ちをしていた。きっと性格も良いに違いない。服装は黒色のチノパンに黄土色の七分丈のシャツを着ていた。身長はちょうど百六十センチメートルくらいだった。中学生にしては身長が高い方だ。
ご都合主義な映画にありがちな場面だとは思ったが、僕は突然現れたその青年が三線町徹だと確信した。なぜかは分からなかったが、僕の心がそう訴えていた。もしかしたら、僕の嗅覚が本能的に彼に染みつく乃愛のにおいをかき分けたのかもしれない、と思ったがそれは考え過ぎだろうか。
「君が三線町徹君だね?」と僕は言った。すると、青年は当然ながら驚いた顔をした。
「どうして僕の名前が分かるの?」と徹は
言った。
やはりその青年は三線町徹だった。縁談の話をするまたとないチャンスだ。僕は彼に対して、ここに来るまでの経緯をあれこれ話すほどの余裕はなかったし、それだけのことを説明して納得してもらえる自信が無かったので、曖昧にはぐらかして伝えたいことだけを話すことにした。そうしないことには話が前に進まないのだ。そのやるせない感情は僕の胸を叩いたが、仕方のないことだった。公子さんもこんな気持ちだったのだろう。
しばらく考えて、僕は「君に会いに来たからさ」と言った。
「僕に? どうして?」と徹は言った。
「君にお願いがあるからだ」
「でも、僕は君のことを知らない」
「でも、僕は君のことを知っている」
「君は、どこから来たの?」と徹が言った。
「遠い海の向こうからだよ。でも、見ての通り、僕は日本人だけどね」と僕は言った。
徹は僕の瞳を真っすぐ見つめ、何かを読み取ろうと努めていたがやがて諦めたように全身の力を抜いて言った。
「お願いってどんなこと?」
「とても込み入った話になる」と僕は言った。「それは恐ろしくややこしい話で、最初から説明しようとすると忽ち訳の分からないことになる。だから要点だけを言うよ。君は婚約の話を断るべきだ」
僕がそれを言い終えると、徹は真っ青な顔になった。多分、婚約の話は数少ない人物だけで、水面下で進められていたのだろう。大きなお金の動きがあったはずだ。そして、もし途中でこの事実が世間にばれると、子どもを政略結婚の道具にしたという社会的批判が沸き起こり、両家ともに大きく評判を落とすことだろう。彼がこの世の終わりみたいな顔をするのも無理はなかった。彼は中学生にして背中に自分の家の将来と他人の名家の将来を背負わされていたのだから、相当な責任感とプレッシャーがあったことは間違いない。まったく、中学生に家の将来を託すとは世も末だ。
「どうしてそれを知っているの?」と徹はようやく声を絞り出して言った。
僕はため息をついて彼を哀れんだが、僕の件の目的は徹を説得し、乃愛との縁談を中止させることだった。可哀想ではあるが僕がその縁談のことを知っているのを武器にして、彼を脅してでもその婚約を辞めさせる方法を取るほかないと思った。今回の件について、僕は手段を選んでいる余裕が無いのだ。
「僕は知っているから知っているんだ。出所は秘密だよ。僕はその縁談のことを全部知っている。その目的が政略結婚のためにあること、巨額のお金が動いていること、この縁談には二つの名家の将来がかかっていること、全部ね。さて、この縁談のことが世間に知れ渡るとどうなるだろう? 君の家も、笹見さんの家も袋叩きにされることだろうね」と僕は言った。僕が話している途中、徹は今にも膝から崩れ落ちそうなくらい動揺していた。コホコホと咳き込んでもいた。喘息持ちなのだろうか。
僕はそんな徹を見て今だ、と思って言った。「そこで、最初に言った要点に戻ってもう一度言うよ。君はその婚約の話を断るべきだ」
ふと運河に目をやると、幹線道路ではトラックが右往左往していたし、工場の煙突からは永遠に煙が振り撒かれていた。世界は変わらない。しかし、人は変わる。非情だ。目の前にこんな絶景が広がっているのに人はそこにある風景とはまったく関係のない話をしている。そう考えると自分が醜い人間になってしまった気がした。徹は目をつぶり、下を向いていた。僕はそんな徹と夜景を眺めながら徹が話すのを待った。徹はかなり憔悴している様子だったが、しばらくの間深呼吸してからさっきとは全く違った覚悟を決めたような面持ちをして言った。
「分かった。君の目的が何かは分からないけれど、言う通りやってみよう。でも、この件は僕よりも両親のレベルで話が進められている。いくら結婚の当事者である僕でも口出し出来る範囲は限られているし、それが通るが分からない。もちろん出来ることは全部やってみよう。けど、その上で縁談の破綻が失敗した時はどうか恨まずにその秘密を守ってくれ。それが条件だ」




