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藍色の約束  作者: みくに葉月
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第十九章 埋め合わせ

 気が付くと僕はまたあの喫茶店に戻っていた。窓から差す陽光の角度が変わらないところを見ると、ここでは時間の経過という概念はないのかもしれない。ここから市立図書館に飛ばされる前からあったコーヒーは今も慎ましく机の上に置かれていた。それから正面を見ると、公子さんがいつもの藍色のワンピースを着て姿を現していた。公子さんが姿を現しているということは彼女の言う切羽詰まった問題はもう解決されたのだろうか。それにしても、さっきの白昼夢のような図書館の出来事は公子さんが仕組んだものなのだろうか。それともすべて幻なのだろうか。僕は公子さんの顔を眺めながら考えたがやはり分からなかった。それからしばらくすると公子さ

んは口を開いた。

「分かったか? あれがことの真相や」

「うん分かったよ。十分過ぎるくらいにね」

 

 そう、公子さんがあの資料を先に見てほしいと言った理由が今分かった。僕は今まで公子さんに何一つ乃愛のことについて教えてもらえず、ただひたすらそのチャンスを逃すな。と言われていただけだった。なぜ公子さんがそうしたのかというと、それは余りにも危険過ぎることだったからだ。笹見グループは日本各地に子会社を持つ大企業である。もし、乃愛のことで首を突っ込んでいることが分かれば僕も公子さんもただでは済まされないのだ。そして公子さんは僕に一定の試練を与え、僕のことを共通の目的を持つ同志と認めた上で、僕にこの事実を伝えて、問題の解決に本格的な協力をもとめたかったのである。

 あの資料をもとに推理した結論から言うと、現在の笹見家は国家公務員かまたは将来そうなると期待される男を婿養子として迎え、乃愛と結婚させようとしている、ということになる。多分、公子さんはその事実を誰よりも早く察知し、乃愛を救うために色々手回ししていたのだろう。しかし、と僕は思った。

「しかし、当の本人はどうなんだろう?」と僕は慎重に言った。「確かに望まない結婚を強いられることは辛いことかもしれないけれど、実際乃愛が何を考えているのかがまだまったく分かっていない。本人の意思がないところでこのことについて話すべきではないんじゃないかな」

 すると、公子さんは首を左右に傾けて骨をぽきぽき鳴らしながら息を吐いた。そしてよく通る声でこう言った。

「お前はアホか」

「アホ?」と僕は聞いた。

「お前は今まで乃愛と何をしてたねん。何を思って乃愛と交際してたねん。自分の胸に聞いてみなさい」と公子さんは言った。

 それを聞いて、僕は乃愛と今まで過ごした日々と、その間に感じたことを思い出した。

乃愛とは色んなところに出かけた。今日は一緒に花火を見た。この日々は他でもない、大切な人との時間に違いないのではないか? 少なくとも僕はそう思っている。そして、乃愛もそう思っているに違いない。ならば、乃愛は今運命との葛藤に怯えているに違いない。そうだ。そうに違いないのだ。僕は彼女を助けなければならないのだ。僕は顔を上げ、しっかり前を見据えた。

「そうや、その心意気が大事や」と公子さんは言った。「それじゃあ、乃愛を救うために過去に行く覚悟は出来てるよな?」

「過去って? そんなことが出来るの?」

「当たり前や。私は何でも出来るで。それで秋人はんには過去に行って重要な仕事をやってもらいたいねん」

「それで、その仕事とは?」

「乃愛は中学生の時、既に将来のお婿さんとして三線町徹という男を迎える約束をしてしまってる。それは契約書などの書類や、法律的な手続きによって秘密裡に決定づけられていて、一度決定してしまうと本人の力ではどうすることも出来ひんねん。やから秋人はんはもう一度その契約が結ばれる前に戻って三線町徹に接触して、それを阻止してほしいねん。もちろん過去に戻ることは危険やし、私だけの力で生身の人間一人を送り出すことが出来るか分からへんけど、やってみる価値はある。どうや、お願いばっかりになってしまうけど、これは秋人はんのためでもあるんや。引き受けてくれるな?」と公子さんは言った。その瞳に嘘の文字は無いように見えた。

 現実離れも甚だしい。余りにも話が飛躍過ぎではないか? いや、それはもう夢の中に公子さんが現れてからずっとそうだ。しかし、これは公子さんが一人で水面下で動いて作り出した機会でもあるのだ。なるほど、僕に今までこのことを黙っていたのはこのためでもあるのか。いきなり夢の中に見ず知らずの人が現れて、誰とも知らない女の子を救ってほしいとお願いされてもそんな怪しい話を引き受けるはずがないのだ。公子さんの目的のために僕が利用されるのはあまり気が進まないことだったが、僕はもう乃愛のことを愛してしまっていた。僕は公子さんのお願いを断るわけにはいかなかった。

「分かった。引き受けよう」と僕は言った。そして「でも」と言った。

「僕は依然として公子さんのことを何も知らない。目的を知っても動機が分からないようでは乃愛を助けるにあたっての君のイメージが大きく変わってくる。君は、一体何者なのかを教えて欲しい」と僕は言った。

 公子さんは欲張りやなあ、と言って笑うと、口を開いた。

「私の目的は乃愛の身体を守るためにもあるけど、それ以上に『破壊と再生の執行人』の運命を妨げるためにある。それは結婚云々の話じゃなくて、もっと大きな規模の話や。まあ、言っても信じてくれへんからなあ」と言って公子さんはお茶を濁した。

 公子さんにも公子さんの事情があるのだろう。それは個人が抱える問題というだけであって、そこに僕があれこれ口を出す権利はないのだ。僕はわかった、と言うと、公子さんは良かった、と言って笑った。その笑い方は乃愛の笑い方に似ていた。

 

 僕たちは喫茶店を出ると、しばらく歩いた。僕は目隠しをされて、周りの風景が見えないようにされた。そういえば、初めて喫茶店に連れてこられた時は目隠しをしなくても周りの風景は暗闇に覆われていて何も見えなかったような。どうして今回は目隠しをするのだろう。僕はそう思ったが、それを声に出すことはやめた。僕はもう飛躍した話をするのに疲れていた。もうそんなことを聞いても仕方がないのだ。僕は僕の出来ることをするしかないのだ。「よくわかってるやん」という公子さんの声が聞こえた気がした。

 僕は公子さんに手を引かれながら十分ほど歩いた。すると、段々海のにおいがしてきた。

公子さんは僕の手を二回たたいた。もう目隠しを取ってもいいという合図だった。目を開けると、そこは船着き場だった。海は地平線の先まで広がっており、それはどこまでも続いていた。大きい港ではなかったが、一隻くらいなら軍艦並みに大きい船でも泊められるくらいのスペースがあった。そして、そこには実際に船が泊められていた。木造の船で全長は百メートルとあと少し、幅は二十五メートルプール一つ分くらいの大きさをしていた。船の上には屋根のある建物が建てられていて、そこで雨風も凌げるようだった。

 後ろを振り返ると、ミミズクが森の上を元気よく飛び回っていた。そして僕は言った。

「ねえ、公子さん。おかしいよ。今は昼間なのにどうしてミミズクが起きているんだろうか」

「ここでは時間の概念というものが無いんや。やから朝と昼と夜の概念は現実世界とは違うし、それが必ずしもその順番で繰り返されるとは限らん。したがって毎日の習慣という概念もない。あるのは端と端を繋ぐ原理だけや。ここにはここのルールというものがあるんや」

「なるほど」と僕は言った。

 そして公子さんは僕の肩に右手を置いて言った。

「秋人はんにはこれからこの船に乗って過去まで行ってもらう。乗るのは秋人はん一人や。操縦は心配いらん。この船が勝手に連れて行ってくれる。秋人はんはこれに乗って辛抱強く到着を待つだけでいい。そして、着いたら三線町徹のところに行って縁談の話をなしにしてもらうように接触を試みる。それが秋人はんの仕事や。出来るか?」

「公子さんは乗らないの?」

「私にはやらないといけないことがたくさんあるし、私の体では過去に行かれへんのや。やから、残念やけど秋人はん一人で行ってもらう他ない」

「それは何日くらいで着くのだろう?」と僕は言った。

ここには時間の概念が無いのだから、帰ってきた時にはもう四半世紀が過ぎていた、みたいな出来事が起こることはないだろう。しかし、僕の精神は時間が経てば経つほど確実に擦り減っていくものだ。出来ることならなるべく早くことを済ませたかった。

「さあ、それはやってみないと分からへん。それは一時間かもしれへんし、一日かもしれへんし、一億年かもしれへん。情報不足にもほどがあるかもしれへんけど、今はそれくらい切羽詰まった状況やねん。どうか、頼む」

 やはり僕は従う他なかった。もはや僕には自由な意思というものが無いのか、と鬱々とした感情に襲われたが、どうすることも出来なかった。ただ流されるままにいるしかないのだ。僕は船に乗り、決心を固めることにした。船を陸から離すと意外にもすぐに動いた。海と地平線を背に向けて僕は公子さんに別れを告げた。

「すべては、洪水の日の前に」と公子さんはつぶやいた。


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