第十八章 確認しなければならない
乃愛と花火を見たその日、僕は家に帰ると泥のように眠りに落ちた。ここのところ、僕は自分の過去の重みを引き出し過ぎていた。そして、そのことは一方は僕にあまりよくない影響を及ぼし、一方は僕のつかえを取り除く効果を生み出していた。その一連の行為は多分僕に必要なことだった気がした。きっと、僕は過去を清算しなければならない時期にあったのだ。そして、それは僕が見る夢に出てくる公子さんという人物が登場してきた時期と時系列的に被っていた。もしかしたら、それは何か関係しているのかもしれない。それは分からなかったが、今日もその夢を見た。
気づくと、僕はいつもの喫茶店に居た。いつも通り、客も、ウェイトレスも居ない、古風な内装、どれも変わらずにそこにあったが、公子さんの姿が見えなかった。「公子さん?」と僕が呟いてもその声は向かいにある壁にぶつかるだけで、何も反応を示さないまま、静寂にもみ消された。もしかしたら、僕は夢の中の世界にたった一人で閉じ込められたのかもしれないと思った。世界にたった一人取り残された主人公。題名は憶えていないが、そんな映画がかつてあったような気がする。なんにせよ主人公にせよ、世界にたった一人では生きた心地がしなかった。僕は目の前に元々置かれていたコーヒーを見つめながら考えごとをしていると、忽ちどこからか声が聞こえた。
「秋人はん」と公子さんは言った。その声はまるで喫茶店全体が話しかけているのではないかと錯覚するように響き渡り、その音源の位置を探し当てることを不可能としていた。
「公子さん?」と僕は言うと、出来るだけ声に耳を傾け、相手の感情を読み取る努力をした。
「今ちょっとな、切羽詰まった状況になっててそっちに姿を現されへんねん。堪忍やで。
「何かあったの?」と僕が言うと公子さんはしばらく押し黙った。
「公子さん?」
「今抱えてる問題は秋人はんに直接関係のある話やし、そうやなあ。もう言わなあかんなあ」と公子さんは言った。「でも、その前に秋人はんに確認してもらいたいことがあるねん。話はそれからや」
「確認してもらいたいことって何?」と僕が問いかけると、公子さんは指パッチンをした。パンっという音が部屋の中の沈黙を破った。
「ええか、秋人はんには今から図書館に行って乃愛の家系について、つまり笹見家についての資料を探し出してもらいたい。そして、その中にある笹見家の家系図と各人物の概要を確認してもらいたいんや。笹見家はこの地域では有名やからな。資料くらいはあるやろう。場所はいつもの市立図書館や。いや、自分の足で行く必要はないで。私の力があればひとっ跳びやさかいな。秋人はんはその家系図と各人物の概要を暗記してくるだけでいい。そうすることが今の問題、詳しく言うと乃愛の問題を解決することになるねん」と公子さんは言った。
そして公子さんは不敵な笑みを浮かべて言った。「そういえば、今日は乃愛に随分助けられたんちゃうん? 恩義が出来たんちゃうか? ええか、これは乃愛を救うための大事なことやねん。借りを返す絶好のチャンスや。もちろんやってくれるでな?」
どうやら僕に拒否権はないようだ。もっとも、乃愛の問題を解決するためなら僕はどんなことでもしようと思うし、公子さんの言う通り、乃愛に借りが出来たことも確かだった。
「分かった。公子さんの言うそれを探して確認してくればいいんだね」と肩をすくめて言った。
「そうや、自分物分かりが良いな。今度飴ちゃんあげるわ」
公子さんはそう言うと、また指パッチンをした。しかし、それはさっきとはまったく違う音の響き方をしていて、頭にずしっとくる重い感覚があった。その音の波長は特別な力を持っていて、それが僕の意識を揺れ動かしているような気がした。視界が薄れていく。喫茶店の部屋全体が歪んでいるような気がした。そして僕は意識を失った。
目を覚ますと、そこはいつもの市立図書館だった。僕は閲覧用のデスクに座っていつの間にか眠っていたようだった。頭が重たい。意識が繋がらない。まるで、白日夢みたいな感覚があった。しかし、これが夢であろうと現実であろうとそう大差はない。どちらにしろ、僕は笹見家についての資料を手に入れ、そこに書かれている家系図と各人物の概要を目に焼き付けないといけないのだ。
乃愛の話によると、彼女の父親は某有名企業の代表取締役とのことだった。社長格の人間の先祖はまた社長格の人間である可能性が高い。才能というものは受け継がれていくものだ。由緒ある名家の生まれであるならば笹見家についての資料が市立図書館の中に置いてあってもおかしくないと思った。
僕は席を立って、その資料を探し始めた。小説や専門書のコーナーにはまず置いていないだろう。あるとすれば参考図書あたりだろうか。僕はその書架で片っ端から資料を探したが見つからなかった。そもそも、そんな資料を一般公開することなどあるのだろうか。いや、ない可能性の方が高い。なら、ある場所は限られている。僕はそう思って、レファレンスの人に尋ねることにした。カウンターに行くといつもの優しい女の人が居るはずだ。僕はその方向に足を進めたが、カウンターに居たのはいつもと違う人だった。いや、正確に言うとそれは人ではなく、うさぎであった。
僕の両目は生来視力が良く、常にA判定だったのだが、この時ばかりは自分の視力を疑った。目の前に映っている生物は幻としか思えなかったが、話しかけてみると意外にも会話が出来る相手だった。
「あの、笹見家についての資料を探しているんですけど」と僕が言うと、そのうさぎは慇懃な態度で答えた。
「その資料につきましては一般公開されておらず、現在は書庫に保存されています。なので、関係者以外の方は閲覧制限の対象となっております。大変申し訳ありませんが、お引き取り下さい」
「でも、僕はその関係者です。公子さんの命令でここに来ました」と僕が言うと、うさぎは困った顔をした。表情の奥に嘲笑の兆しが見えた。
「はあ、しかし私は公子さんという方を存じ上げておりません。閲覧制限のある書物にはそれぞれ関係者リストが作られていますので、それに該当しない方はどのような理由がありましても閲覧いただくことは出来ません」
なるほど、確かに公子さんの名前を使うのはまずかった。公子さんというのは僕と話す時だけに使う偽名なのであるから、このうさぎがそれを知らないのは当たり前のことだった。ならば、これはどうだろうか。
「ああ、すみません言い間違いでした。本当は乃愛さんの指示です。僕はお使いを頼まれてきました」
僕がそう言うと、うさぎは今度は口をあんぐり開けて、焦燥の表情を浮かべた。どうやら予想外の名前が出てきて驚いているようだった。乃愛の名前がこのレファレンスもどきのうさぎにとってどんな影響力を持つのかは知らなかったが、とにかく僕は七変化みたいに顔の表情を変えるうさぎのことが面白くてたまらなかった。
しばらくうさぎは何かに憑りつかれたように思案を重ねると、何度か咳払いをしてこう言った。
「大変失礼しました。書庫に案内いたします。どうぞこちらへ」
館内の奥ばったところにあるドアのところに案内され、うさぎが若干背伸びをして鍵を外し、ドアを開けると、そこには館内の倍近くの量の書架が並ぶ景色が広がっていた。僕はそれを見てどこかの帝国図書館を想起したが、ここは夢ではない限り本物の市立図書館なのである。
中に入ると、うさぎが先に走って行ってすぐに資料を取ってきてくれた。タイトルのところには『名家としての笹見家』と書いてあった。僕はそれを受け取ると、館内で閲覧をする許可をもらい、机の前に座ってそれを開いた。資料は分厚さ的にはそれほど分厚くなく、速読をすれば三十分くらいで全体の概要を掴めるくらいのものだった。僕はページをパラパラと捲って、笹見家の家系図と各人物の概要を探した。
すると、それはものの五分で見つかった。説明としてはまず、名家としての笹見家を築いた江戸時代の医師である笹見義則の代まで遡ることになる。義則は町人生まれだったが、生まれ持った才能を駆使して医者の地位を昇り詰め、最終的には府中藩に仕える藩医として活躍し、その土地において絶大な権威を博していたが、江戸時代が終わりを迎え廃藩置県が行われると、藩医としての位が抹消され、再びゼロベースからのスタートとなった。そして、笹見家は本拠地を上方に移し、義則の息子、義輝は数年間あちこちを転々としながらもフリーの医者としての活躍を見せ、何とか面子を保ちながら落ち着ける場所を探し出すことに成功した。記録には大阪としか書いていないので、詳しい場所は特定出来なかったが、どうやら大阪の名家である笹見家はこのあたりから始まったらしいことは読み取れた。
そして、笹見家はまるで時代を追いかけるかのように、代を追うごとに職種を変容させていった。義輝はフリーの医者として働く傍ら、西洋医学の勉強のために何度も海外に行き、そこで学んだ知識を日本の医学に取り入れた功績を残したし、義輝の息子、正人は科学者となり、第二次世界大戦時代における殺戮兵器の開発メンバーとして召集され、数年間国立の開発センターで勤務し、ある程度の研究成果を上げていた。そして、戦後の笹見家は大きく方向転換して不動産業に進出し、莫大な資産を得るようになった。つまり、学界きっての名家から経済界きっての名家にシフトチェンジしたのである。それを契機に笹見家は様々なジャンルの商いに手を出すようになり、今では日本各地に数多くの子会社を抱える、笹見グループという商事会社として名を馳せるようになった。
笹見家がグループの頂点として君臨するからにはその分責任とイメージの比重が大きくなってくる。それはもはや江戸時代の笹見家が気にしていた周りからの評価など比べ物にもならないくらいのプレッシャーに違いない。乃愛が家庭に縛られて自由に生きることが出来ない苦しみは江戸時代に生きたどの笹見氏よりも大きいものであるはずだが、もちろんそのことは資料に書かれていなかった。
家系図と概要からまとめた内容で分かったことは大体これだけのことだった。確かにぶっ飛んだ家族構成だったが、別段ありえないことは記述されておらず、探せばいくらでも見つかるくらいの普遍的な名家の家系だった。そう、笹見家は普通のお金落ちの家系だった。
だが、そこでふと思いとどまった。笹見家当主というのは代々息子が継ぐもので、女子禁制であった。また、当主はその代の実権を握り事業の展開も意のままに操ることが出来た。そして、笹見家では代々、事業のために当主が国家の高級官僚の娘と結婚することが多かった。では、乃愛の代はどうなるのか。現在の状況を見てみると、笹見隆文と笹見京子の間に生まれた子どもは笹見乃愛ただ一人で、息子は居なかった。これは笹見家にとっての大問題だ。何せ跡取りが本家に居ないのだから当然分家や親戚から批判や懸念の声が上がるし、笹見グループが抱えている各企業のお偉いさんの不安を駆り立てることは間違いないだろう。そして、そこで打ち出される打開策はたった一つしかない。それは……。
「そうや、よくわかってるやん」と言う公子さんの声が聞こえた。