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藍色の約束  作者: みくに葉月
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第十七章 いるか座

「幼い頃に兄弟を亡くした。四つ上の兄だった。兄は僕よりもとても優れた人だった。小学校では必ずどの教科もクラスでナンバーワンの成績を収めていた。それは僕の両親による英才教育の賜物だった。進学塾、ネイティブの英会話教室、水泳教室、空手、テニス等の習い事は一週間のうちの六日を占め、毎日最低六時間の自宅学習を強いられていた。放課後は遊び時間なんてろくになかったから友達は少なかったと思う。これが小学校高学年の兄にとって平気なわけがなかった。頬は痩せこけ、肌はカサカサで目は充血していた。深夜遅くまで続く習い事のせいで晩御飯を食べる時間はいつも夜十一時を過ぎた頃だった。でも兄は一度たりとも親に向かって不平不満をぶつけたことが無かった。一度だけマンションの廊下で泣いている兄を見たことがある。その顔は誰にも見せたことがない、悲哀で痛切な表情をしていた。多分、いつもああやって人知れず泣いていたんだ。その頃の僕は小学一年生になりたてで右も左も分からず、どうすることも出来なかった。ただ、兄の身に何かしらの危険を感じていたことは事実だった。それで……」

 この時の僕は殆ど平素の自分を忘れていた。このことは僕の心の奥深くに根付いていた問題であったし、誰にも話したことが無かったため、これを文脈立てて誰かに説明することは困難だった。それでも乃愛は話に真摯に耳を傾けながら時折同意を示す相槌をしたりして僕の告白を受け止めていた。

「それで、ある日、兄は突然死んだ。交通事故だった。朝、学校に向かう通学路で一人でふらふら歩いているところを後ろからトラックに追突された。運転手は過失運転致死傷罪で逮捕されたけど、裁判で有罪判決が下されるその瞬間まで事実は認めるものの歩行者にも非はあったと主張していた。というのも、運転手の主張では兄は車が近づいてきたその時、突然ふらっと身を翻し、白線から飛び出したのだという。もしそれが本当なら、それは兄の心身の衰弱によるものだと当時の僕は推察した。しかし、本当に兄はふらふらするほど憔悴しきっていたのか、それとも運転手の完全な不注意によるものなのか、今ではその真相は分からない。

 で、ここから僕の地獄が始まった。兄が死んでから両親は狂ったように仕事に精を出すようになった。兄のことで負い目を感じてそれを振り切ろうとしたんだ。度重なる出張、会社での泊まり込み。それらが災いして家に帰ってくることが殆どなくなった。帰ってきたとしても母親はご飯なんてろくに作ってくれなかった。それどころか、僕のことなんてすっかり忘れてしまっている様子だった。幸い、お手伝いさんが晩御飯を作りに来てくれたり、近所の優しいおばあさんが余ったおかずをお裾分けしてくれたり、それが無い時は自分で買い物して作ったりしたから飢え死にはしなくて済んだ。

 両親を恨んではいないよ。元から愛してなかったからね。本当さ。両親は僕を養ってくれたけれど愛してはくれなかった。そんな人を尊敬の眼差しで見つめることは不可能だった。だから、悲しくも何ともなかった。そんなことより、学校で周りから被害者の弟として見られたことが辛かった。可哀想に、とよく言われた。本当に可哀想なのは僕じゃなくて兄だ。そんな的外れな慰めは逆に僕の心を傷つける行為でしかなかった。そして、それに追い打ちをかけるように僕の両親は仕事ばかりしている育児放棄の人間だ、という噂が近隣の主婦のネットワークを通じて広まった。それは客観的に、法律的に見れば事実ではなかったが、僕としては両親は育児放棄をしていたも同然だった。兄が毎日深夜まで習い事をしている間に仕事に明け暮れる親を間近で眺めていた僕はそれを育児放棄と判断する他に選択肢はなかっただろう。

 そして、その噂はついに街中を駆け巡り、僕たち家族は社会的にあの家に住むことが難しくなった。両親はしばらくして噂のことを知り、すぐに引っ越すことになった。僕は兄をこの世から追いやった両親のせいでこの街を離れることになり、そのせいで友を失った。これが、ことの真相だよ」

 

 僕は言い終えると、周りの空がさっきとまるっきり違っていることに気づいた。青い空と白い唐揚げの雲は既に通り過ぎ、藍色の闇とオレンジ色の夕日の光が夜の到来を知らせていた。周りを見渡すと、運河には続々と人が増え始めていたし、内陸の公園地帯では夜店を楽しむ人たちで賑わっていた。腕時計で時刻を確認すると、午後六時になっていた。

 乃愛は僕の話を聞き終えると、猫みたいな伸びをして息を吐いた。この話はあまりにも重た過ぎたのかもしれない。すると、乃愛は意外にもこんなことを言った。

「秋人くんって自分のことはあんまり話さないでしょ」と乃愛が言った。

「え」僕はその言葉にあまりにも驚いて狼狽えるような、唸るような声を出してしまった。藪から棒である。まさに今こうして長い時間自分のことについて話した後だったので、むしろ「よく喋るなあ」と言われても仕方のないことだったのに、乃愛はその反対のことを言ったのである。僕は目を丸くして乃愛を見ていたが、乃愛は続けて言った。

「だって、今までこのことは誰にも言わずに黙ってたんでしょ?」

 僕はまた驚いた。「どうしてそのことが分かるの?」

「分かるよ。顔に書いてるもん」

 ああ、単純な性格は隠すことが出来ないものだ、と僕は思った。

 乃愛は僕を見て笑うと少し頬を赤らめてこう言った。

「だめだよ、悩みはみんなに相談しないと。でも、私に、私にだけ悩みを打ち明けてくれて嬉しかった。ありがとう」

 僕は返す言葉が見つからず、黙ったまま乃愛の肩を抱き寄せた。何だか、転がってきた好機に乗じているような感じがしたが、こうしないわけにはいかなかった。僕は嬉しいのだ。嬉しくて、声に出来ないそれを行動で示したかったのだ。僕たちはしばらくそうやって肩を合わせて手を触れ合った。まるで、お互いに足りていない温度を分け合うみたいに。

「あ、花火」と乃愛が言った。

 ひゅー……っぱん、という音と共に黄色の閃光が夜空ではじけた。黄、緑、赤、青、色とりどり、大小様々の花火が宙を舞い、会場は一気に歓声に満ちた。

 

 花火が終わると、乃愛はこんなことを言った。

「ねえ、秋人くんは星座を生で見たことがある?」

「そりゃあもちろん」と僕は答えた。

「じゃあ秋人くんは夜空を見上げて何種類の星座を探し当てることが出来る? 自分で「これは〇〇座だ!」って言い当てるの」

「そう言われると殆ど分からないな。東京もここも、星なんてほとんど見えないから。でも、オリオン座だけは分かるよ。腰のベルトが特徴的だからね」

「夏の星座の中で言うと?」

「夏の大三角形かな。でも位置までは分からない」

「私ね」と乃愛が言った。「イルカ座が好きなの。都会や光が多い地域では見ることが出来ないくらい小さく、微かに光る星座なんだけど、それでも星座として立派に輝いているのが素敵だと思ったの。でも、イルカ座の光の小ささは私たちの住む地球から見た目っていうだけで、もっと近づけば光り輝いて見えるはずだから、誰かがその存在を知ればその分だけその星は輝くと思うの。つまりね、誰にも見えないところで輝いていても歩み寄れば分かるってこと。そしたら夜空にはいるか座みたいに、私たちが知らない星がまだまだあることが分かって、その分だけ夜空が光り輝くと思うの。ごめんね、話していて何を言っているのか分からなくなっちゃった」

「分かるよ」と僕は言った。乃愛は遠回しに僕を慰めようとしてくれているのだ。やっぱり、乃愛には『破壊と再生の執行人』だなんて質の悪い二つ名は似合わない。僕にとって乃愛はやはり『月下の妖精』そのものだった。僕は彼女の手を握りしめ、一生この温度を忘れないようにしようと誓った。この温度があれば何でも越えられるし、たとえ離れていてもお互いのことを忘れることはないに決まっている、とそう思った。


 しかし、悪夢は突然やってきた。いや、突然と言うよりも、予期していた事態から目を背けていたと言う方が正しいだろう。僕は、公子さんが僕と乃愛を引き合わせた根本的な目的を忘れていた。あるいは、脳裏に浮かばないようにしていた。公子さんからは最初の夢で会った時から怪しい雰囲気を感じていたし、関われば関わるほど悪い方へ引きずり込まれるような予感はあった。しかし、結果的には僕は乃愛の方へ進んでしまっていた。僕は公子さんから件の目論見を引き出すことなく、騒動の渦の中心に身を投げていたのである。さて、そんな僕が後にどんな体験をし、未知の脅威によってどれほど打ち負かされるのかは想像に難くないだろう。だが、この頃の僕は浮かれていて何も判断することが出来なかった。僕はいつまでも水面を見つめる彼女が映る水面を見つめていた。


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