第十六章 違った角度
翌日、僕は乃愛と会う約束になっていた。乃愛と初めて会ってから二週間と一日が経った。たった二週間、されど二週間。僕たちはほぼ毎日のようにあちこちに遊びに出かけていた。僕と乃愛の関係は短い期間ではあるが確実に深まっていた。どうしてそんなに短い期間でここまで親交を深めることが出来たのか。それはまるで安っぽい恋愛映画でよくみられる「運命的なもの」として片づけられる類のものではなかった。たしかに運命的ではあるけれど、それは半ば強制的な運命に等しかった。すべての発端は僕の夢に出てくる公子さんだった。公子さんは何かを知っている。しかし、僕には何も教えてくれない。教えてくれないまま彼女に転がされているのだ。それは無人のヨットのポールに縛り付けられて太平洋に締め出されることと等しかった。だが、とにかく僕は前に進むしかなかったのだ。
今日は乃愛の地元に僕が行き、一緒に花火を見ることになっていたので昼から支度をして駅に向かい、電車に乗った。乃愛は事前にメールで乃愛の地元を知らせてくれていたのだが、その場所が他でもない、僕の最初の故郷だったことに驚いた。僕は大学に入るまでは市立図書館や乃愛の通う大学や時計台のある街に住んでいたのだが、小学校低学年まではその街に住んでいたのだ。なんという巡り合わせだろう、これはもう「運命の赤い糸で結ばれている」と傍から言われても認めざるを得ないかもしれない。僕はそう思いながらまだ暑い、八月末の残暑の陽光が差す車内の椅子に腰を掛けていた。
駅に着くと、そこには懐かしい景色が広がっていた。見覚えのある駅のホーム、駅の向こうに見える商店街の数々、どれも懐かしい風景だった。改札口を出ると既に乃愛が待っていた。
「おはよう」と乃愛は笑って言った。
「もう昼だよ」と僕は言った。
「起きたばかりなの」
「僕もだ」
乃愛は僕に対してだけだったが、もう完全にタメ口を使えるようになっていた。このまま両親に対してもタメ口を使えるようになってもらいたいものだ。そうしなければ永遠に両親の呪縛から解き放たれることはないのだから。僕は乃愛の姿を眺めながらそう思った。
乃愛は比較的トレンディな服装をしていた。青いデニム色の短いスカートに白い半袖のシャツという恰好で、少し高めのヒールを履いていた。「浴衣は着ないの?」と僕は聞いたが、彼女は首を横に振った。どうやら昼間からそんな姿で出歩くのは恥ずかしいらしかった。
僕たちは花火が始まる夕方まで話しついでにその本会場である運河で場所取りをする予定だったのだが、予定を変更し、僕が元々住んでいた家を訪れることにした。せっかくここに来たから久しぶりに見ておきたかったのだ。
僕たちは駅を出ると、踏切がある方とは反対の方角に歩き、やや遠くの方に高くそびえる大きな病院を目指して歩いた。病院は交差点の内角に位置しており、その対角線上に僕のマンションが建っていたので、病院が目印のようなものになっていた。僕たちは歩きながらその家についての話をした。
「私の家もこの辺の近くだよ。もしかして、小学校低学年までは私と秋人くんは同じ小学校だったんじゃない?」
「それは違うと思うな。乃愛の名前なんて人は学年の中に居なかったし居たらすぐに気づいたよ」
「そう、かな」
「そうだよ」
病院の前に着くと、僕たちは横断歩道を一度渡り、しばらく歩いてから車道を横切って渡った。僕が住んでいたマンションは形こそ変わらなかったが、かつての青い外壁の部分は朱色に塗り替えられていた。多分、十年ほど前に執り行われた一斉免震工事とともに塗り替えられたのだろう。一階にある入居者リストを見ると、僕が住んでいた部屋には見知らぬ誰かが入居していた。ここにはもう僕が住んでいた影は跡形も無くなっていた。その感情は、牧畜民がある地方を一周回ってかつて生活していた集落に戻ってきた時に憶える感情に似ているような気がした。いや、あるいは牧畜民には故郷という概念は無いのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
僕はそこで諦めて、乃愛と一緒に運河のある公園に向かった。運河に着いた時、腕時計は午後四時を示していた。もちろん、そんな時間に熱心に場所取りをする人はたかが知れている。この広大な運河なら、きっとどれだけの人が来ても全員が花火を見ることが出来ると思った。それでも、僕たちは十分花火の見えやすい位置を選び、僕が持ってきたレジャーシートをそこに敷いて二人で腰を掛けて話をした。
二人は交際をするにあたって、話さなければならないことが山ほどあった。お互いの趣味、家族構成、友人関係、将来設計、などなど、挙げだすときりがない。それらを短い間で話さなければならないのだから、一分一秒たりとも無駄には出来なかった。なぜそんなに焦る必要があるのか。それはタイムリミットが存在するからだ。僕は夏休みが終われば東京に帰らなければならない。東京に帰ればまた次の長期休暇までは会えなくなる。そうなるとお互いの熱が冷めてしまうのは目に見えている。だから、その火が消えてしまわないように、今一緒に居られるこの時を悔いのないように、出来るだけたくさんの温もりを分かち合えるように努力しなければならないのだ。そのためには僕たちは毎日話し合うことが必要だった。その作業はまるで、お互いが今まで空っぽにしていた心の中の隙間を埋めるようだった。
乃愛は僕のすぐそばに腰を下ろして運河を流れる水の流れを眺めていた。僕は幹線道路を右から左へ走る車を眺めていた。空はまだ青く澄んでおり、唐揚げみたいにごわごわした雲が右の方に浮かんでいた。
僕たちは最初、お互いの生まれ育った街、つまり今居るこの街についての思い出を語っていたが、やがてその話題は今日僕たちが訪れたマンションの方に移っていった。
「そういえば、秋人くんの家庭はどうして引っ越ししなければならなかったの?」と乃愛は不思議そうに言った。「ごめんなさい。でも、どうしても知りたくて。何か言いづらい事情があるなら大丈夫だよ」
それを聞いて、乃愛は真菜子と同じくらい優しいなと思った。僕は存外単純な人間なのである。やはりそれは乃愛の言う通り、言いづらい事情があっての引っ越しだった。果たしてこれを会って二週間の彼女に言うべきなのか、僕は単純な頭の中で深く考えた。そして、ある結論を導いた。多分、僕は正直に乃愛に話さなければならない。この問題については僕の過去が大きく関係していたし、それと同時に一人の人間の命が関係していた。また、それが僕の中の重要な問題として胸の奥深くに根付いて、縛り上げていたことは確かなことだった。そんな重要なことをいつまでも乃愛に隠しているわけにはいかない。お互いの間に秘密を抱えることはすなわち恋愛関係の破綻を意味するからだ。だがその一方で、そんな重要なことをここでふらっと言い出すことは余りにも口が軽過ぎるのではないだろうか、という心配もあった。もしかしたらこのことを告げた途端に乃愛は僕のことを嫌うかもしれない。もしそうならば少なくとも今はこのことは話さないでおくべきだ。しかし、今を逃せば次のタイミングがいつやってくるのか分からない。そして、夏休み中にその機会を得られなければ僕は東京に帰ったきり、そのことを話せなくなるだろう。僕は頭を抱えていたが、やがて顔を上げて、ゆっくり言った。
「この前、僕は一人っ子だって言ったよね?」
「うん、言ったよ」
「実は、本当は兄弟がいたんだ」
「え」と言って乃愛は眼を見開いた。「どうして嘘をついたの?」
「今はもういないんだ」と僕は悲痛な表情を浮かべて言った。「いいかい、これはとても大切な話なんだ。軽々しく誰彼かまわずに言うわけにはいかない。でも、君にだけは遅かれ早かれ、いつかは言わなければならない。なぜなら秘密を作りたくないからだ。だから、君が良いなら今ここで全部話してしまいたい。たとえ、今が楽しい花火大会の前だとしても」
すると、乃愛は僕の顔を見て何かを察したようで、こくんと頷いた。
「とても長い話になるよ」
「いいよ」
僕は一度深呼吸をして、「じゃあ」と言ってから話し始めた。