第十四章 ふぉーそん
翌日、僕は朝の八時に目覚めた。外では雀とセミの鳴き声合戦が繰り広げられていた。窓を通して日差しが入り込む。温かい風は網戸を通して流れ込み、部屋中の温度を上昇させていた。いつもはこんな早い時間には起きないのだが、今日は眠気よりも緊張の方が競り勝って僕の脳をせわしなく駆り立てていた。なんといっても今日はふぉーそんの集まりの日なのだから。僕は起きると支度を整え、掃除をしたり本を読んだりして時間を潰して午後十二時半に家を出た。
集合場所は近所にあるカラオケ屋さんだった。真菜子の提案らしかった。僕はそこに着くと、海道守と顔を合わせた。
「おお、秋人。久しぶりだな」と守は言った。
「久しぶり」と僕は答えた。
守はふぉーそんの部長で、今回の同窓会を提案した張本人でもある。守はギターボーカルで、洋楽の演奏を好みとしていた。守は才能もあるが努力家で部内での熟練度はずば抜けて高かったが、基本的にそれを鼻にかけることはせず、みんなと明るく接していた。多分、それが部長に選ばれたる所以だろう。
僕と守が顔を合わせてからしばらくすると、懐かしい顔ぶれがちらほらと集まってきた。全員でちょうど十人くらいだろうか(もちろんその中に真菜子も居た)。僕たちはカラオケ店に入ると、五人で二部屋に分かれることになった。守は僕とは違う部屋になったが、真菜子と同じ部屋になった。
「秋人、久しぶり~」と真菜子が言った。
「久しぶりって、二週間前会ったばっかりだろ」と僕はため息をついた。
「えーそーだっけ?」と相変わらずのマイペースな口調でそう言った。
カラオケが始まると真菜子は率先して歌い、周りの雰囲気を盛り上げた。真菜子のパートはベースだが歌も上手かった。楽曲はありきたりなJ―popソングだったが、不思議とひきつけられた。真菜子が歌い終えると、周りは「ひゅー」と言ってはやし立てた。それからみんなは次々と歌い始め、良い雰囲気を作り始めていた。ちなみに僕はカラオケ自体があまり好きではないので歌わなかった。
「秋人は歌わないの? 歌いなよ~」と真菜子は強引にマイクを突き出して言ったが、僕はそれを手で制して断った。真菜子の観察力と行動力は計り知れない。きっと、僕が空気にでもならない限り、目的のためならば地球の果てまで追いかけてくるのだろう。しかし、今空気になってしまっては困る。僕はこの場に影を薄めるために来たのではないのだから。僕はチャンスを掴まなくてはならなかった。それまでは息を潜め、好機の到来を待ち望まなければならない。
カラオケが終わると、午後六時を迎えていた。僕たちは晩御飯を食べに居酒屋に向かった。もちろん、僕たちは全員未成年なのでお酒は飲めないが、そこにある焼き鳥が絶品なため、高校時代からよくみんなで通いつめていた。居酒屋に着くと、守が取り仕切ってみんな座敷のテーブルに着かせた。そして何かの因縁なのかどうかはわからないが、僕と真菜子は隣同士になった。みんなが席に着くと一斉に料理を頼み始めた。僕は座布団に座ったまま、脳内をフル回転させていた。そして、ある決心をした。「やはり、言わなければならない」と。
このことはもっと早くからはっきりさせておくべきだったが、僕の中の気持ちが中々定まらず、結果ここまで自分で勝手に引き延ばしてしまったのだ。そして、その問題は今となっては既に昔の話であって、それは当の本人からしてもやはり昔の話なのかもしれない。しかし、それをここではっきりさせないわけにはいかない。それにはもう僕の我慢の限界が来ていたのだから。
その当人とはまさしく真菜子のことである。真菜子は他の同期の部員と同様、高校一年の時からの付き合いでずっと友達の感覚で仲良くしていた。それから、その延長で放課後は部活を放り出してよく二人で難波に遊びに行ったりもしていた。そのくらい仲のいい関係だったのだ。男女の友情とはまさにこのことではないか、と当時は思っていた。しかし、それはある日突然揺るがされることになった。
それは高校最後の文化祭での出来事だった。あの日はとても晴れていて十月であるにも関わらず暑かったが、大勢の来場者が押し寄せていた。それは僕たちふぉーそんが出演する有志の野外ステージも例外ではなく、たくさんの見物客が中庭にあるステージ前に集まっていた。あの日、僕は真菜子と守と部外から助っ人で呼んできたドラムと一緒にライブに出演することになっていた。僕たちの出番はトリ。このライブの出演者の順番は事前に厳しい審査で取り決められ、上手いグループが一番良い順番を勝ち取ることが出来た。その厳しい審査の結果、僕たちはトリとして出演することが出来たのである。ライブは予想以上の人でごった返し、大盛り上がりを見せた。自分自身、あのライブは今までで一番盛り上がったライブだと自負しているくらいだ。演奏曲は簡単なロックミュージックで、守が好きな洋楽をすることになったが、そのせいで歌詞が分からず、演奏していても守が何を歌っているのかまったく分からなかった。本人曰く、歌詞が分からなくても盛り上がればそれで良いらしかった。
それから、文化祭が終わり、片づけを終えると、僕たちはライブの打ち上げのためにあの居酒屋に行った。守は生徒会の用事があり、ドラムの子は他の部活の用事があるらしく、先に僕と真菜子の二人で向かうことになった。その道中、僕と真菜子は色んなことを話した。どれも他愛のない話ですぐに忘れてしまった。しかし、会話のある部分だけ鮮明に覚えていた。その一部分だけがとても重要な話だったからだ。今思えば、それは真菜子によって意図的に仕組まれた設問でもあり、メッセージであったのだ。
「ねえ、秋人って好きな人居ないの?」
「どうして?」
「なんとなく。冗談」
それは何の脈絡もなく話された言葉だった。何せ、真菜子がそれを言う前は確か、東京のちんすこうの話をしていたのだから、真菜子の突然の発言には当時の僕はとても驚いた。それから真菜子はすぐに真剣な顔になったのを覚えている。
「秋人」と真菜子は言った。「神奈川と東京ってどれくらい離れているのかな」
「さあ、交通機関を使えばそれほど遠くはないんじゃないかな」と僕は答えた。
「ふーん。じゃあさ、大学に行ってもたまには会えるよね」と真菜子は言った。
この頃、僕と真菜子は既に指定校推薦の枠を獲得し、大学行きが決まっていた。僕はなるべくあの家から遠ざかりたい一心で東京の大学を選んだのだが、真菜子は四年制の大学で日本最高峰の芸術を学びたいという僕よりもまっとうな理由があった。真菜子は絵画の才能があり、水彩画を描くのに長けていた。以前薔薇の花の絵を見せてもらったことがあるが、それはとても上手く描けていた。
「大学のスケジュールにもよると思うけど、会おうと思えば会えるさ」と僕は言った。
「そっかー。じゃあ大丈夫だね」と真菜子は言った。
それから真菜子は言った。「ねえ、今日演奏した曲の三曲目の歌詞知ってる?」
それは守きってのリクエスト曲であり、真菜子が後押しした曲でもあった。「ガンズ・アンド・ローゼズのスウィート・チャイルド・オブ・マインのことだった。八十年代後半からずっと活躍しているアメリカのロックバンドの名曲だったが、むろん、それを演奏している最中に耳を澄ましていても守が発している言葉は英単語の羅列に過ぎず、その意味をくみ取ることは出来なかった。まさかネットで歌詞まで調べようとは思わなかったのだ。守の言う通り、かっこよければそれでよかったのだ。
「演奏していてもあの曲の歌詞は分からなかったよ。あまり意識せずに弾いていたから」と僕は少し考えてから正直に答えた。
すると真菜子はたちまち「はあ」と言って息を吐いた。まるで、重病患者が寝息を立てているみたいに。そしてこう言った。
「秋人もそういう人になって欲しいな。でも、それは我儘だよね」
その言葉の意味はついに分からなかったが、真菜子が何かを伝えようとしているのは確かだった。だからこそ、今の今までそのことを胸につかえていたのである。そして、その疑問を解消する時こそが今なのだ。