第十三章 藍色のワンピース
「なあ、そこまで悩むことじゃないだろ」と望が言った。
「いや、そうでもないよ。本当にトラウマなんだ。でも、行かないわけにはいかない。これは僕自身の問題を解決出来る、僕にとって唯一の機会だから」
電話越しの望の表情を読み取ることは不可能だったが、あまり心地良い感情を抱いていないことは確かだった。
真菜子と高校卒業ぶりに会った日、つまり乃愛と初めて会った日から十二日後の土曜日の夜、僕は電話で東京に居る望と通話していた。
僕はベランダの欄干に肘をかけ、右手で携帯電話を耳に押し当てていた。外の気候は昼間と変わらず暑かった。中に入ってクーラーで涼んだ方がさぞ気持ちがいいだろうなと思ったが、何となくそのまま外でいたい気分だった。そういう時は誰にでもあるものだ。夕日が沈んでから何時間経っただろうか。それからずっとベランダで望と電話をしていたので正確な時刻が分からなかった。
「なあ、望。東京って今何時かな?」と僕は時間を確認するつもりでそう言った。
すると、望は「からかってるのか?」と言った。当然の返答だ。ここはグアムでもハワイでもない、東京と同じ、日本の中にある大阪なのだから。部屋の中にある壁掛け時計を確認すれば分かる話だった。しかし、僕はそれを上手く思考に結びつけることが出来ないほど混乱していた。僕は「からかってなんかない。大真面目だ」と言ったが返事は帰ってこなかった。どうやらそれは東京と大阪、あるいは人工衛星とを繋ぐ電波の途中で落っこちてしまったようだ。
ずっと家に一人で居ることはつらいことだ。正常な思考を正常な思考と判断してくれる人、つまり自分の考えの答え合わせをしてくれる人が居ないのだから何が正しい振る舞いで、何が正しい考えなのかが分からないのだ。東京で一人暮らしをしている時は望や瑞樹としょっちゅう会っていたから寂しくなることはなかった。しかし、大阪に帰って来れば仲間なんて誰もいなかった。もちろん地元だから街中を熱心に探せば一人くらいは見つかるかもしれない。だが、仮初めの仲間と真の仲間とは違うのだ。家には相変わらず両親は帰ってこなかった。大阪に帰ってきてから一度も会っていない(そのことを予想して両親には連絡しなかった)。
とにかく、僕は誰かと話がしたかった。それで、あわよくば僕は今悩んでいることについての助言を貰いたかったのだ。
ひとしきり考えを巡らせてから窓越しに部屋の中にある壁掛け時計を見ると午後七時十五分を指していた。多分三時間くらいは通話していただろう。この当てのない通話もじきに終わらせなければならない。そのために口火を切ったのは望の方だった。
「とにかく」と望は言った。「秋人は真菜子さんとかいう人のことを男女の関係という意味で忘れられないんだな。それで蹴りをつけるために同窓会に乗じて真菜子さんにその想いを伝えたいと。そういうことだろ? なら伝えればいいじゃないか。恥ずかしがることないだろ」
僕はため息をついた。違う。全然違う。
「そうじゃない。確かに僕は真菜子のことを忘れることが出来ない。でも、そういう意味じゃない。想いを伝えたいんじゃない。確認をしたいだけだ。高校時代に感じたあの淡い気持ちは正しかったのかを知りたいんだ」
「正しいかどうかを決めるのは秋人自身だろう。その気持ちは誰かによって決められることじゃないと思う」
それはもはや意味のない押し問答だった。いくら親友である望と言えど、僕の気持ちを理解することは出来ないのだ。僕は諦めて通話を切った。地平線に並ぶ風景に目を凝らしてみたが、ナトリウム灯を生やした高速道路と真っ暗な山脈しか見えなかった。
その夜、夢の中にあの少女が出てきた。真菜子と高校の周辺を歩き回った前の日に見た夢に出てきたあの関西弁の少女だ。彼女は突然夢の中に現れて僕に“破壊と再生の執行人”とお近づきにならなければならない、とコテコテの関西弁で言ったのだ。そして、それは乃愛のことで、僕は辛くも、あるいは幸いにも彼女の言った通りの運命を辿ることになり、今日に至っていた。
「なあ、秋人はん」
「なに?」
「この部屋暑くない?」
「そりゃあ、真夏だからね。仕方ないんじゃないかな」
「それは秋人はんの世界のことやろ? 私はそんなん知らんし、秋人はんの世界の現象にいちいち影響されたくないんやけど」
「まあ、郷に入っては郷に従え、と言うからね」
少女はため息をついて藍色のワンピースの裾を弄っていた。僕はこの少女のことを何一つ知らない。ある日突然夢の中に現れて一方的に予言を押し付け、勝手に消えてしまったのだ。それきり少女のことを考えることはなかったが、脳裏から消え去ることはなかった。何となく、漠然と僕の頭の中に現れては消えることがしばしば続いた。それは他の夢を見た時とは少し違った。日を追うごとに頭の中の少女の存在が無意識のうちに大きくなっていった。まるで、頭の中で二番目の人格が構成されていくみたいに。
僕たちはこの前と同じ、木造の古びた喫茶店で木の椅子に座り、テーブルに向かい合っていた。相変わらず無人の店内で、ウェイトレスすら居なかった。少女は眼を細めながら当たり前のようにオレンジジュースを飲んでいた。一体どこからそれを注いで来たのだろうか。それは分からなった。とにかく彼女は再び僕の夢の中に現れたのだ。以前現れた時、少女は乃愛と知り合うように指示をした。きっと何か要件があるときにだけ現れるのだろう。今回もそうに違いない。僕は少女が話し出すのを待った。
「なあ、秋人はん。最近どうや」とオレンジジュースを飲み終えた少女は言った。
「最近って?」と僕は顔をしかめた。
「最近は最近や」
「もっと具体的に言ってほしいな。天気について言えば猛暑だよ。季節について言えば、言うまでもなく夏だよ」
少女は言った。「あのな、自分。からかってるんか? 私が何について聞いてるのかくらい分かるやろ?」
僕は頭の中を整理して答えた。
「つまり、乃愛のこと?」
「そうや。この前、その女と面識を持てって言ったよな? それからどうなった?」
「君の予想通り、その次の日に市立図書館で会ったよ。破壊と再生の執行人だなんて肩書が似合わない、ただの僕と同じ、大学生だった。出会ってから、最初はどうなるかとても不安だったけど今は順調に親交を深められていると思う」
僕の言った通り、あの日以来、乃愛とは順調に交際を進めていた。乃愛は最初は敬語しか使わなかったが、徐々にタメ口に慣れさせていき、普通の会話を出来るくらいにはなった。
笹見乃愛。僕と同じ十八歳の大学生だ。聞くところによると、乃愛の父親はかの有名な大企業の代表取締役らしい。一方、母親は主婦ではあるが有名家系の出身らしく、その自負心は今でも衰えることを知らず、あちこちで言いふらしているらしい。そんな夫婦の間に生まれた乃愛はどんな制約に縛られて生きなければならないかは想像に難くないだろう。道理で両親にも敬語を使いたくなるわけだ。だが、その呪いのような敬語も僕との間では断ち切られることになった。
あれから、僕たちはスケジュールの許す限り、出来るだけ会うようになった。乃愛は僕の家から電車で一時間半かかるところに住んでいるらしく、最初、僕はそのことを知らなかった。それ故に、乃愛を誘う度に僕の地元に呼び出すという形になってしまったことは後々、悔やみに悔やまれた。しかし、それを除けば僕たちは極めて順調に、むしろ快調にことを進めていた。最初は少女に託された言伝という使命感と好奇心からその動機は成り立っていたが、段々乃愛のことが気になり始め、ついには彼女に恋をしていると言ってもいい段階に入っていった。乃愛自身は僕が関わっていることで嫌な素振りは見せなったし、彼女の中にいる「恋愛をしている自分」、という存在を見出したことで幾分か楽しんでいるかのように見えた。
僕と乃愛はある時は難波の心斎橋商店街を心行くまで練り歩き、ある時は梅田の喫茶店でお茶をした。男女二人きりでデート、というのはいささか緊張する所業だったが、回数を重ねていけばそんなものは直ぐに慣れた。そんな僕たちの様子は傍から見ればリア充と言ってもいい間柄であったことは間違いないだろう。
僕はそれらの乃愛との進捗状況を包み隠さず詳細にまとめ、少女に伝えた。少女は途中でオレンジジュースをおかわりしに席を立ったが、それ以外は真剣な面持ちで僕の話を聞いていた。
「ふーん、思ってたよりも上手くいってるやん。よくやった」と少女は無関心を装いながらもそう言った。「秋人はんのことやから「それ以上のことは出来ないし、指図されてするものでもないだろう」とか言うかと思ったけど」
「心外だな。僕の何を知っているんだ? 僕は草食かもしれないけれどここぞというときにはちゃんとするもんだ」と僕は顔をしかめて言った。
「なるほどな、やから今度の月曜日に花火に行く約束まで取り付けたんやな。自分やるやん」
「え」
「なんや。なんか変なことゆーたか?」
「どうしてそれを知ってるの?」
「私は知ってることは知ってるんや。いつも色んなところを飛んで見て回ってるからな」と少女はそう言ってつまらなそうにグラスに入った氷をストローで弄り回していた。
僕と乃愛しか知らないことを少女は知っている。そして、多分僕と乃愛の未来に何が待ち構えているのかさえも知っているのだろう。
僕は少女のことを何一つ知らない。そんなのは不条理だ。
少し考えて僕は言った。「ねえ、君の名前は何? まだ教えてもらってないんだけど」
すると、少女は顎にグーにした手を当てて少し思案して言った。
「所詮夢や。名前なんて必要ないと思うんやけどなあ。それでも必要なんやな。なら公子って呼んでくれ」
「公子? それが本名?」
「本名とは言ってない」
「にしても少し昭和過ぎない?」
「余計なお世話や」
「じゃあ、公子さんって呼ぶことにするよ」
「別に、さん付けせんでええのに。こんな中学生みたいな見た目やし」
「確かに、見た目は中学生だけど頭脳はそれ以上だと思うよ。僕よりたくさんの物事を知っているようだしね」
「ま、それは正解や。夢の中の世界において、見た目は関係ないからな。名前が何であろうと関係ないのと同じように」と公子さんは言った。
それから、僕たちはそれぞれ無言で虚空を見つめ、考えごとをしていた。お互い、考えなければならないことが山ほどあるのだ。窓の外に目をやった。喫茶店の外は無限に広がる草原だった。こんな何もないところに喫茶店を立てたところで客が来るのだろうか。いや、来ない。この店には僕と公子さんしかいない、ご覧の有り様だ。だが、夢の中の世界にもルールがあるのだろう。郷に入っては郷に従え、だ。公子さんも同じように窓の外を見つめていたが、やがてこちらに向き直り、こう言った。
「自分、明日高校の部活の集まりに行くんやろ?」
僕は一瞬ドキッとしたが(少し顔に出たかもしれない)、すぐに態勢を整え直した。
「そうだよ」と僕は言った。
「それは別にいいんやけどな、秋人はん。そのことで何か悩んでるやろ?」と公子さんは言った。「もし悩んでるんやったらそれは不要な雑念や。その一切を今すぐに忘れるべきや」
「それはどういうこと?」と僕は言った。
「これ以上は言われへん。でもアドバイスというか、ヒントくらいは言える。『物事の客観的事実に惑わされるな。常に己の心情に耳を傾けろ』このことを忘れたらあかんで」
その言葉の意味は分からなかったが、とにかく明日のふぉーそんの集まりにおいて何か忠告をしてくれているということは分かった。確かに、僕は明日の集まりには細心の注意を払わなければならない。それは最初からそのつもりだった。僕は「分かった、気を付ける」と言うと、公子さんは満足した様子で消えて行ってしまった。意識が離れていくまでのしばらくの間、僕は喫茶店の中に一人取り残された。テーブルの上にはさっきまで公子さんが飲んでいたオレンジジュースと僕のウーロン茶だけが残っていた。