第十二章 猿蟹合戦
「たそがれ」に着くと、僕たちは真っすぐエスカレーターを上って市立図書館に入っていった。中の人の数は相変わらずまずまずで、その大半が暇を持て余した耳の悪い老人だった。多少雑談をしても耳障りに感じる人はおそらく居ないだろう。
乃愛は館内の各コーナーと蔵書検索について司書顔負けの丁寧な口調で説明してくれた。それはまるでライオンの母親が子に狩りの仕方を教えるように積極的であり、一方で駅構内を流れる電車発着のアナウンスのように機械的でもあった。アンチノミーという言葉が一瞬脳内をよぎった。
「ここが洋書コーナーです。ここの図書館では多種多様の本が揃えられていますが、中でも一番多く取り揃えているジャンルは小説です。洋書も日本文学もどちらも多く揃っています。一番古い物ですと、五百年前のものがあります」
「ほお」
「ここが児童書コーナーです。このコーナーの書架は館内の約四分の一を占めており、おむすびころりんはもちろん、はじめての将棋教則本から水滸伝まで多種多様の本がそろっています。対象年齢で言うと大体中学三年生までがこのコーナーだけで十分楽しめるかと思います」
「へえ」
「これが蔵書検索の機械です。画面に触るだけで反応してくれます。何とも賢い機械です。最先端の科学には脱帽します」
「はあ」
「あの、ちゃんと聞いていますか?」と乃愛は怪訝そうな顔をして言った。「もし説明がお気に召さないようでしたら司書さんにお願いした方がいいかもしれません」
「いや、そんなことはないよ。乃愛さんの説明は分かりやすくて、何というか、説得力があったよ」と僕は慌てて感想を言った。それはあながち嘘ではなかった。彼女は文句なしの美しい女性だし、声も表情も綺麗だった。それらは一貫して僕に明るい印象を与えた。しかし、他方で彼女の話し方は僕に重い印象を与えた。話している内容自体は暗くないのにも関わらず、そこにはボーリングの球のような、ある種の重みがあった。それは僕にとって間違いのない感覚だった。僕は生来、人を正確に観察する能力を持っていた。その人の歩き方、身なりでその人物のおおよその性格と社会的状況を見定めることが出来るのだ。例えば、大学構内で見知らぬ大股で歩く大男を見かけると、その人は体育会系の人間で、どんなスポーツをしているか、その分野においてどんな地位を占めているのかまで見分けることが出来た。
しかし、彼女のことはよくわからなかった。こんなことは初めてだった。だから彼女が話している時に大きな戸惑いを覚えた。彼女の本質をつかむことが出来ない。まるで酸素を手のひらで捕まえるかのように、それはするっと抜けていく。彼女は意識的に、あるいは無意識のうちに自己を重い石の蓋で隠しているのかもしれない。だから外から見れば、その重い石だけが僕の目に見えているのだ。
それは出会って二日目の人間同士の印象としては当たり前なのかもしれない。それは時間をかけてほぐしていくものであり、急に打ち解けるものではないのかもしれない。だがしかし、時間は有限である。夏休みが終わりに近づけば僕は東京に帰らなければならない。あと三週間弱あるとしてもそれは知り合ったばかりの男女においては短い期間と言えるだろう。僕はベストを尽くさなければならない。そして、そのためにはまず彼女のことを知ることが最優先なのだ。
僕たち二人は微妙な雰囲気なまま沈黙していたが、やがて僕の提案で書架の中からおすすめの本を探してきて紹介し合うことになった。ここでどうにか挽回しなければならない。僕たちは閲覧用のテーブルに向かい合って座り、それぞれ見つけ出した本を手前に積み上げた。そこでまず乃愛が口火を切った。
「私のおすすめはたくさんあったんですけど、頑張ってこの三冊に絞りました」そう言ってまず取り出したのは『まるわかり! 猿でも覚えられる星と星座大図鑑』だった。
「これはおすすめというよりも個人的に気になったものです。私たちはいつだって星の下で生きているのにその星や星座のことを殆ど知りません。それってもったいないことだと思うんです。だからこの本を読んで是非お互いに知識を共有しなければ、と思いこの本を選びました」と乃愛は熱心に言った。
僕は彼女の瞳を遠慮がちに見ていた。その瞳は宇宙色に輝いていた。彼女は自分の瞳の中に宇宙のような景色を浮かべていることを知っているのだろうか。それは分からなかったが、彼女からは本に対する熱心な感情が感じられた。しかし、それ以外のことは何も分からなかった。
「次は僕の番だね」と言って僕は息を整えた。「僕も三冊に絞ったよ。でも、中にはシリーズ本があって複数冊になってしまうけれどそれは構わないかな?」
乃愛はこくんと頷いた。
「じゃあ、まずはカラマーゾフの兄弟を紹介するよ」と僕は複数冊に分かれたそれを手で持ちながら説明した。「この本は複数冊に分かれているし、とても長いから僕自身読了には随分時間がかかったけれど、その分得られる物が多かったと思う。ドストエフスキーっていうロシア帝政末期の小説家が書いた本で、早い話その人の全集一冊を持ってくればよかったんだけど誰かに借りられていたみたいだった。本の内容は読んでから理解した方が良いと思う」
僕が言い終えると、行きしなに時計台の話をしていた時みたいに乃愛が微笑んだ。
「何か変だった?」と僕は不安げに言った。
「だって」と乃愛は言った。「その本はこの前に読みましたから。とっても趣のある、深いお話でした。秋人さんの言う通りたくさんのものを得られました」
僕は乃愛がカラマーゾフの兄弟を読んでいたことに純粋に驚いた。人を第一印象で決めるものではないのは百も承知だったが、やはり彼女がロシア文学を嗜むようには見えなかった。だからこそこの本を勧めて興味を引こうと考えたのだが、それは失敗に終わった。思えば、彼女と時計台で待ち合わせをした時から既に、僕が前もって予想した彼女の行動パターンからそれは大きく逸脱していた。今日の星占いで魚座は最下位だった(そんなまがい物は断じて信じたくないが)。もしかしたら今日は何をやっても上手くいかないのかもしれない。
「なるほど、乃愛さんは色々な本に興味があるみたいだね」と僕はかろうじて言った。
「はい、とてもたくさんの種類の本に興味があります。この前は『主婦必見! 華麗なる節約術大百科』を読みました。色んな本を読むことは気分転換にもなります」と乃愛は言った。
僕はそれを聞いて異物を誤って飲み込んでしまったイルカのように声を曇らせて頷いた。
「では」と乃愛は言った。「二冊目の紹介をしますね」
「二冊目は猿蟹合戦です。このお話はとてもとても深くて切ないお話です。蟹の骨にもにじむ思いで育てた柿の木に猿が食いつく様子はとても衝撃的でした。それで」と乃愛は永遠に話し続ける予感があったので僕はそれを早々に手で制して止めさせた。
「猿蟹合戦は僕も知っているよ。昔からずっと読んでいたから」と僕は言った。
それにしても、と僕は心の中で思った。あまりにも会話が噛み合わなさすぎる。それは老人のボロボロの歯の噛み合わせを連想させたが、僕たちの歯はボロボロではなかったし、ましてや老人でもなかった。この状況をどうして打破すべきか、それは僕の観察眼をもってしても全く分からなかった。彼女は依然として彼女自身を大きな石の下に隠していた。だが、それでもこの会話を止めることは出来ない。僕はこの三冊目に賭けることにした。この本ならきっと乃愛は言い反応を示してくれるに違いない。
「三冊目はこれ」と僕は言って夏目漱石の『それから』を取り出した。この本は僕が高校三年生の時に読んだ小説だった。この本には特別な思い入れがある。内容もよかったが、この本を読んだ時期が重要だった。あの頃の僕は現実の壁に打ちひしがれて文学の世界で羽を休める必要があった。そんなときに僕はこの本に助けられたのだ。
すると、乃愛は「私も」と言って『それから』を取り出した。同じ本が二冊あるなんて、と思ったが出版社が違った。僕が持ってきた方の表紙は昔の江戸の街が描かれていて、乃愛が持ってきたものの表紙は花の絵だった。
「一緒、だね」と乃愛は言って笑った。ああ、この笑顔だと僕は思った。その笑顔には嘘偽りが見られなかった。どうやら彼女の中の重い石は退けられたようだった。たった一冊の本が一致しただけの話だが、これはとても大事なことだと少なくとも僕は思った。
しかし、乃愛はすぐに何かを思い出したかのように顔を赤らめてうつむいた。
「はっ。すみません。会ってまだ二日しかたっていないのにタメ口で話してしまいました。今のは無意識のうちの発言でした。すみません」と乃愛は言った。
「僕と君は同い年だ。むしろタメ口で話した方がいいんじゃないかな。その方がなにかと円滑に会話も進むかもしれない」と僕は正直に言った。あるいは、そのことが彼女の内面をマントみたいに覆い隠しているかもしれないのだから。
乃愛は少し困ったような表情をして言った。
「でも、私はまだ両親ともタメ口で話したことがないんです。本当です。生まれてこの方、一度たりともありません」
「ほんとに?」と言って僕は驚いたが、正気を取り戻した。世の中には色んな家族様式があるのだ。それは僕も例外ではないのだ。「じゃあ、誰とタメ口で話すの?」
「羽の生えた猫です。今はその子とだけタメ口で話します。前までは羽の生えたウサギとタメ口で話していました」
羽の生えた猫が何を指しているのかさっぱり分からず、頭が混乱した。「羽の生えた猫」と僕は言ってみたが、それに対する返答は帰ってこなかった。どうやら、それについては特に言うことがないのだろう。
でも、とにかく僕と乃愛はタメ口で話し合う仲でいた方が良いような気がした。両親や羽の生えた猫がどうであろうとそれは僕たち二人には関係のないことだ。そしてそれは早いうちに手を打っておくべきだろう。
「ねえ、乃愛」と僕は言った。「これから少なくとも僕とはタメ口で話せるように意識して頑張ろう。なぜかと言うと、僕がそうしたいからだ。そうした方が二人でもっと有意義な、中身のある話が出来ると思うんだ。どうかな?」
乃愛は宇宙色の瞳で僕の顔をずっと見つめていた。それから頬を赤らめ、息を吐いてこう言った。
「分か……ったよ」