第十一章 出会いから始まりへ 〈秋人〉
この世界に生きる殆どの人間は何かしらの目的を持って生きている。オリンピックで優勝するため、たくさんの人に聖書の素晴らしさを伝えるため、誰かを愛するため、誰かに愛されるため、それはどんなものでもいい。だが、それが無い者は忽ち死の淵まで引きずり込まれることになるのだ。
人々はある面において人生における目的、使命なるものに脅迫されている。たとえ、建国したてのアメリカ合衆国が「人間は自由だ」と叫んだとしてもこの脅威から逃れることは出来ない。生きる使命を捨てることは即ち死を意味するからだ。
だが、そのプレッシャーはごく平均的な日常を過ごしていればなんのことはない、取るに足らない脅威である。人間は皆、生まれながらにして欲望のままに行動する本能を持っている。その本能が人々をそれぞれの興味に結びつけ、自ずと目標のために自身を動かす動力になり、生きる力に結びつく。つまり、気にすることはない。気にする必要がないのだ。そもそも、普通に生きていればこの脅威に気づくことさえないのだろう。
しかし、僕は違う。僕はあまりにも幼過ぎる年齢に生と死を知ってしまった。生とは、必ずしも生きるために存在するものではないし、意味のあるものでない。死とは、必ずしも名誉あるものではないし、身体的死を意味するものではない。僕はそれを知ってしまった。すると、何が基準で、素晴らしい生き方なのかが分からなくなった。毎夜、どれだけ考えても分からなかった。ある夜は国家反逆の罪を着せられて首を刎ねられた社会活動家の生涯について考え、ある夜は南北戦争で生き別れた男女の孫の代で再会を果たした話について思索を巡らせていた。
それだけのことをしても、結局のところ殆ど何も分からなかった。僕は何年も無意味な知識ばかりを身につけ、窓の向こうで流れ行く雲をただただ眺めているだけだったのだ。
生と死、それは遥か昔に人類が誕生し、哲学というものが誕生してから考えられるようになったものだ。人類が生と死について考えるようになってから数千年。分かったことは生と死は対極ではなく、生は死があるから存在するのであって、死は生があるのだから存在する、ということだけだった。それで一体人類は何を勝ち取ることが出来たというのだろうか。人間としての生と死そのものの摂理を再確認しただけなのではないだろうか。現に、僕もそれを知ったところで僕の心の陰りが明るみに出るようなことはなかった。
ただ、一つだけ分かったことがあった。それは、この世の生と死はある意味では社会によって意味づけされているということであり、更に限定的なものにされているということである。僕はここ数年、グローバル化の影響による社会の動きによって人間の動きまでもが変化させられている現場を目の当たりにしてきた。僕たちは知らず知らずのうちに操り人形みたいに、手足を社会という生き物に操られていたのだ。
僕はそれを知ってしまった。知ってしまったが故により一層の重圧が僕の体にのしかかった。手足に纏わりつく糸は囚人を扱う鎖のように思えた。僕は一生懸命それを取り外そうと試みるわけなのだが、どれだけ振りほどいてもそれが取れることは永遠になかった。そうして、日々繰り返される日常の数々は僕の体を確実に縛り上げていった。
先に述べておくが、これは後日談である。というか昨日の話である。昨日、僕は高校の周辺をぶらついて過去を懐かしみたいという小早川真菜子と二人であちこち歩き回った。真菜子によると、“ふぉーそん”が全員集合する前にこの懐かしい街並みに慣れておきたいとのことだった。真菜子は僕と同じ高校の部活に所属していたが、高校を卒業すると、僕と同じようにこの街を離れて神奈川の大学に入学したらしかった。しかし、そんなことは今の僕にとってはどうでもいいことだった。それよりも僕はあの、例の少女が言っていた「女の人」に本当に会ってしまったことの方に興味があった。僕は夢の中で少女が言っていたことは殆ど信じていなかった。どうせいつもの夢だろう、と思い込むには何の造作もなかった。僕は本当に何となくあの図書館に行こうと思って行ったのだ。すると本当に会ってしまった。これを運命と言わずになんと言うのだろう。もちろん僕はとても驚いた。そして怖くなった。あの少女は一体何者なのか、そしてこの「女の人」とどんな繋がりがあるのか、そもそもこれは夢の続きなのではないか、そうであるならばいつから夢を見ていたのだろう、など様々な疑問と考察が脳内を飛び交ったが何一つ分からなかった。しかし、そんなことはまた後で考えればいいことだった。とにかく、やらなければならないことは少女が言った通りに目の前に居る女の子に声をかけて面識を持つことだった。
僕はその時、咄嗟に何か話しかけなければならないと思い、ほぼ反射的に「あなたはこの図書館に詳しいですか?」と言った。
すると彼女は一瞬驚いたが、少し迷ってからこう言った。「詳しいかどうかは分かりませんが私は大学に入学してからはしょっちゅう来ています」
「そうなんですか、実は東京から帰省してきたんですがこの図書館は初めてで勝手が分からなくて……。厚かましいお願いかもしれませんが、よかったら色々教えていただきたいのですが」
まったくもって茶番であった。僕は幼い頃からずっとあの図書館に通い詰めていたし、館内の隅から隅まで知り尽くしている自信があった。しかし、僕はそう言う他なかった。何よりも彼女と交際を始めることが最重要課題だった。目的のためならば些細な嘘も必要なことだった。そして、その甲斐あってか、彼女は僕をとても丁寧に案内してくれた。最初に自己紹介をして、彼女の名前が「笹見乃愛」ということが分かった。乃愛は綺麗な、透き通った声をしていて、顔はもちろん、服装まで美しかった。藍色のワンピ―スで、それはあの少女のものととても似ていた。人はこの女の子のことを「月下の妖精」とでも呼ぶかもしれない。それほどの美貌を兼ね備えており、もし美魔女コンテストやミスコンテストなるものに参加すれば絶対に優勝すること間違いなしだろうと思った。しかし、あの少女曰く、乃愛は「月下の妖精」ではなく、「破壊と再生の執行人」として存在していたのだ。
乃愛というのは聖書に出てくるノアと何か関係があるのだろうか、とふと頭をよぎったが、そんなことを考え出すと頭が痛んだ。あまりにも非科学的過ぎる。いや、僕はもう既に非科学的な日常に飲み込まれているのかもしれない。あの少女の夢を見た時からか、それかタランチュラに追いかけられる夢を見た時からか、どちらにせよ夢が大きく関係していることは間違いないだろう。夢は往々にして多義的な意味合いを持つ。無意味な映像を映し出す時もあれば、人間の生死にかかわる予知を映し出す時もある。所詮は夢、されど夢なのである。
それはさておき、こうして僕は乃愛と関わり合うことになった。たとえ、これがあの少女の罠で、結果的に悪い未来に繋がることになろうとも僕の意志は最初から固まっていた。僕は乃愛と親交を深めなければならないのだ。そうすることで僕の中にある、埃をかぶった空洞を埋めることができるかもしれないのだから。その使命感は半ば洗脳のように僕の脳内に働きかけていた。
それから、僕は乃愛との出会いを今回きりで終わらせないように、翌日に乃愛から図書館について詳しく教えてもらう約束をとりつけた。
翌日、午後一時に僕はあの時計台(家から歩いて三分ほどのところだ)で乃愛と待ち合わせすることにした。夏休み中で特にやることもないので午前中は暇をもてあましながら、乃愛とどんな話をすればいいのか、どんな話をすればよろこんでくれるのかについて思索を巡らせた。何せ、乃愛とは昨日初めて会ったばかりなのだ。彼女の名前以外には何も知らない。そんな人と一日を過ごすのだから事前に色んなシミュレーションを行わないわけにはいかなかった。しかし、いくら効果的に、円滑に会話を進める方法を考えてもそれは無意味のように感じた。結局はその場で臨機応変に接するほかないのだ。
時計台には僕が先に着いた。乃愛はその五分後にやってきた。乃愛は昨日見た通り、やはり真っ黒い髪をしていて、頭の先から肩まで緩い曲線を描いて生えていた。肌のツヤは真夏の日差しの下でも十分保たれていたし、二対の目は覗き込めば宇宙の果てを見出すことが出来るのではないかというほど、どこまでも澄んでいた。服装は昨日の藍色のワンピースとは異なり、ごく一般的なカジュアルな服装に変わっていた。藍色のワンピースは間違いなく似合っていたが、今日の青の短いスカートと白いシャツという服装も悪くないと思った。
「遅れてごめんなさい」
「大丈夫だよ。まだ五分しかたっていないから」そう言って僕は彼女と図書館に向かって歩みを進めた。特に近いというわけではなかったが、別段疲労感を催すほどの遠さでもない、日常会話をしていればあっという間に着く距離だった。
「秋人さんはあの時計台でよく待ち合わせをするのですか?」と乃愛は言った。
「そうだよ」と僕は単調な声で答えた。
「とても素敵な時計台です。特別目立っているわけではないけれど、どこか落ち着かせてくれる趣があります。秋人さんはあの時計台でよく待ち合わせをされるのですか?」
「落ち着く、と言えばそうかもしれない。駅前は他にもカフェやコンビニがあるけれど賑やか過ぎて一人で誰かを待つには向かない。その点、時計台の近くは静かで良い。だから基本的にこの周辺で待ち合わせをする時はあそこにするようにしている」
乃愛はまったくその通りだ、と言わんばかりに何度も頷いて言った。
「秋人さんは今までどんな人と待ち合わせをしたんですか? もし良かったら、あくまで参考程度に」
参考、という単語が少し引っかかったがそれに言及していると随分回り道をすることになるかもしれない、と僕は思ったので特に気にかけずに答えた。
「高校の時は部活仲間とかとよく待ち合わせをしたな。高校を卒業すると四月の初旬に東京の大学に引っ越したからあそこで待ち合わせをすることはなくなったけどね」
「今は東京の大学に通っているのですか?」
「うん。そうだよ」
「私も今年から大学に通っています。同い年ですね」と乃愛は口元を緩ませてそう言った。「偶然にも知り合った方が同い年だなんて、なんだか素敵だと思いませんか?」
僕は乃愛の直接的すぎる言葉に少し驚いたが、嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、そこには運命を決定する神様のような不思議な力が含まれているように感じた。それは僕にとって乃愛はそれほど大切な存在に成りうるということを示唆しているようにも感じた。