第十章 私の隙間 〈乃愛〉
目が覚めるとそこは先ほどの運河の階段でした。まだここは夢の世界の中なのでは? と疑いの念を抱きましたが、工場の煙突は相変わらずもくもくと白い煙を吐き、幹線道路を走るトラックは右往左往し、運河では小さい魚が跳ねていました。来た時にはまだ浮かんでいたオレンジ色の太陽が沈んでいるところを除けば、ここは夢の世界でもなんでもなく、眠りに陥る前と同じ世界でした。この前はなんとか言い逃れることが出来ましたが、一度ならず二度までもこんな夜遅くに帰るとお母さんに罵詈雑言を浴びせられることは間違いないでしょう。もう今年で十九歳になります。いい加減、自立して、家庭の色んな束縛から逃げてしまいたいと思うのですが、物事はどうしても上手くいきません。お小遣いは教材を買う目的以外にもらえないし、アルバイトをする暇はなければ、許可してくれる気配も到底ありません。たとえ、チラシに出ている格安賃貸物件を穴が空くほど眺め、家賃と生活費を計算し、最安値の支出金額を算出したとしても、お金が無ければ家出することも出来ないのです。差し詰め、私は鳥かごに入れられた小鳥も同然なのでした。
私は体を起こして、幹線道路に立ち並ぶナトリウム灯を端から端まで眺めました。一体、あの橙色の光はどこまで続いているのかしら。それをたどっていくと東京でも北海道でもどこにでもいけるような気がしました。しかし私は道路を走る車を持っていません。ため息をつき、たまに水面を跳ねる魚の数をいつまでも数えている他ありませんでした。こうしている間にも時間は刻々と過ぎるのですが、今さら家に帰ろうという気力はとうに失せていました。
それにしても、あの少女は一体誰だったのでしょうか。所詮気にすることはないのかもしれないと考える一方で、世の中には予知夢という言葉があることを思いだします。ここから公園を出ていくとまたあの少女に出くわすのかもしれない。しかし、その可能性は薄いだろうと私の勘が訴えていました。あの少女にはこの世界の人間からは感じることのないオーラが漂っていました。きっと、予知夢というよりはもっと象徴的な夢なのではないでしょうか。たとえば、あの少女は私に道を尋ねていました。それはあの子が本当に行きたかった場所ではなく、私自身が行かなくてはならない場所を暗示していたのではないでしょうか。残念ながら、少女が私に何を尋ねたのかはもう忘れてしまいましたが、夢の中の私はきちんと道案内をしていましたから私が知っているところに違いありません。きっと、あの少女はまた夢の中に現れて私が行くべきところを指し示してくれると思いました。
そして、しばらく物思いにふけっていると、遠くから誰かの足音が聞こえてきました。その音は背後から聞こえましたが、運河の階段は一段ごとの高低差がかなり高いのでたとえ後ろを振り向いてもその音の正体を認めることは出来なかったでしょう。私はその音が聞こえても特に気にすることなく、無感情に工場の夜景や幹線道路のナトリウム灯を見つめていました。気が付くとその足音は私のすぐ隣で音を止めていました。
「こんばんは」とトオルさんが言いました。
私はびっくりして声がした方に目をやるとたしかにトオルさんが私に声をかけていました。私はあまりに突然のことで驚いて言葉が出ませんでした。
「こんな時間に一体何をしているの?」とトオルさんは言いました。ふだんのトオルさんは厚かましい態度で私に接してくるのに、今日はそんな面影がありませんでした。むしろ清純な青年、と言うにはちょうどいい雰囲気が彼からは感じられました。
私はそんないつもと違う印象に気圧されてか、「別になんでもないです」と小さな声で言ってしょげてしまいました。
「何でもないことないよ。もう深夜十二時だよ。女の子が一人で出歩く時間じゃない」とトオルさんは心から困った様子でそう言いました。
深夜十二時と聞いてさらに驚きました。私はそれが信じられず「深夜十二時」と言おうとしましたが、それは声にならないまま運河の底に落ちていきました。一体どれだけの時間眠りに落ちていて、どれだけ運河の景色を眺めていたのかと考えると呆れてしまいました。もはやこんな時間に帰ったところで家の人は中に入れてくれることはないでしょう。私は混乱した頭を整理するのに精いっぱいで、返事をする余裕もなくうなだれてしまいましたが、それでもトオルさんは諦めずに話しかけてくれました。
「笹見さん、いくら夏でもこんな海風のあたる場所に居ると風邪をひくよ。移動した方がいい」
「家に帰りたくないです」と私はようやく声を振り絞って返事をしました。なんだか頭が重たくなってきました。
トオルさんは私の言葉を聞くと瞬時に何かを察知したようで、急に熱心な態度に変わりました。
「笹見さん、とりあえず場所を変えよう。このままここに居てもどうしようもない」トオルさんはそう言うと私の手を無理やり引いて公園の外まで歩きだしました。私はさっきまでずっとコンクリートの階段の上に居たわけなので疲労が蓄積し、満身創痍となっていました。しばらくして公園の外に出ると、トオルさんは道端に止めてある車に乗るよう指示しました。それは立派な車でした。車種については詳しくないので名前は分かりませんがとても高いものだ、ということは一目見て分かりました。
「僕の車なんだ」と言ってトオルさんは中に乗りました。私も続いて反対側に回って乗り込みました。ガタンっとドアを閉める音はこの車の堅実なつくりを十分説明していました。座席もゆったりとしていて、さっきまでの疲労が一気にこの座席に吸い取られるような気がしました。そこで私は燕が惰性で飛行するみたいにリラックスして、自然と言葉が口をついて出てきました。
「トオルさんは今何をしていたのですか?」
「僕は時々、気分転換にこの時間に出かけることがあるんだ。もちろん両親には内緒でね。いつも勉強部屋の窓からこっそり抜け出して駐車場まで歩いて車を出す。それでドライブに出かける。今日は公園まで車を動かして散歩していた。すると偶然君を見かけたんだ。嘘じゃないよ。もし疑うなら今度見に来ると良い」トオルさんは冗談交じりでそう言うと、丁寧に車のエンジンをかけてミラーを調整しました。ブルンっと音が鳴ると同時によく冷えた風が心地よく私の頬を撫でます。私はやっとのことで言葉を発した後も依然として寡黙な態度をとっていましたが、心の中では動揺を隠せずにいられませんでした。トオルさんは元来操り人形のような性格をしていて、いつも会話をする度に機械的な話し方をするのが印象的でした。私はそれが嫌で仕方がなかったのです。なんというか、彼の言動はいささか私をからかっているように見えたのです。しかし、今のトオルさんはそれと全く反対の、――明るく、真摯な――印象を私に与えていました。私はそれに心底驚いていました。
トオルさんは私のそんな様子を見てか、自分自身を落ち着けようと努力していたので、しばし沈黙の時間が車内を流れました。そしてしばらく様子を見てから彼は再び私の方を見ました。
「笹見さんはあんなところで、一人で何をしていたの?」とトオルさんが言いました。
「実は……」と言って、私は運河を眺めながら物思いに耽っているといつの間にか階段で眠ってしまったことを夢のことは簡潔にまとめて洗いざらい彼に話しました。特にこれといった出来事はありませんでしたが、実際に誰かに話して少しでも楽になりたかったのです。私がそれを話している間、トオルさんはいかにも真剣な顔つきで耳を傾けていました。その態度に平素の偽りの様子は全く感じられませんでした。
「それは気の毒だったね。でも、不審者に出くわすことがなくて本当に良かった。近頃は多いからね、そういうのが」とトオルさんは言うとサイドブレーキを下げて指示器を出し、車を発車させる準備をしました。そして免許証を財布から取り出して、ダッシュボードの上にそっと置きました。氏名のところには「三線町徹」と書いていました。「ちょっとドライブしようよ。いい気分転換になるかもしれない」
私は彼の意見に異存はありませんでした。どうせ今日は家に帰れないのですから。私はこくんとうなずくと、シートベルトをしめて態勢を整えました。すると車は威勢の良い音を立ててスーッと走り始めました。
トオルさんはハンドルを右手に握りながら器用にカーステレオを操作していました。
「笹見さん、聞きたい音楽とかある?」とトオルさんは言いました。
「えっと、洋楽が良いです」と私は少したじろいで答えました。私の声には確かに震えが含まれていました。それはトオルさんの変貌ぶりがあまりにも異常だったからですが、その違和感も徐々に薄れてきて、会話を重ねるごとに段々自然に言葉を交わすことが出来るようになりました。
「じゃあこれはどうかな」トオルさんはそう言ってボブディランのアイウォントユーをかけました。車内はエンジン音だけが響いていて落ち着いた雰囲気でしたが、洋楽がかかるとたちまち温もりのようなものが車内を満たして、夜独特の憂鬱のようなものを吹き飛ばしてくれました。地上のナトリウム灯が真夜中の暗闇を虚しく照りつける中で車を走らせながら、私たちはその空間の中で分け隔てなく、色んなことを話しました。
「笹見さんは家のことで悩んだことはある?」とトオルさんは言いました。
「どうして?」
「知っての通り、僕も君も、大学に入るべくして入った。そして、入ってからは他の人以上に、それも受験期以上に勉強を強いられた。大学に入ってからは特に自由な時間を失ってまでね。それもこれもお互いの両親の勝手な都合のためにこうなっている。たしかに勉強することは親に保護されている間は義務としてやらなければならないことだけれど、僕たちは違う。他の一般家庭では見えない未来のために少しでも子どもに投資して保険をかける。そして出来るだけ将来の活躍の幅を広げようとする。それは当然のことだね。でも、僕たちは歩みを進む限り確実に見えているレールの上を走っている。将来必要とされているステータスを満たすために必要とされている勉強量を、必要とされているだけ用意され、必要とされているだけ努力を求められる。そこには冒険というものがない。そして心というものがない。それってとても退屈なものだし、何よりも愛というものがない。だから僕は、僕と笹見さんの例の件について、君から正直に思っていることを聞いておきたかったんだ」トオルさんはそう言うとまたしても珍しく新しい表情をしました。それは今までで見たことがない、苦渋に満ちた表情でした。そして、彼の言動は来るべくして来たタイミングで十分にため込まれた反発の意志によって発された言葉だということが痛々しいほど伝わりました。
私は少しの間考えて、意を決しました。
トオルさんを、徹さんに変換し直しました。
かつての嫌悪の感情は既に消し去っていました。
「お昼の時の話ですが」と私は言いました。「私は頭の中に猫を飼っているから大丈夫だと言いました。けれど、実際は全然大丈夫じゃありませんでした。本当のところは飼っていたのではなく、飼われていたのですから、いつだって家庭という檻を破って出ていきたいと思っていました。けれど、その勇気がどうしても出てきませんでした」
徹さんは前を向いて運転しながらも心は完全にこちらに向いて聞いていました。そして、何度も頷いて言いました。「そうだ。僕も笹見さんと同じだ。僕も頭の中に猫を飼っていた。でもそんなの居ないに等しかった。猫は気ままで一つの場所に留まらないからね。急に悲しみが襲ってきて頭の中に逃げ込んでもそこはもぬけの殻なんだ。だから僕はこれ以上仮初めの自分でいることに耐えられないんだ」
きっと、徹さんは大学に入学して私と「ややこしい契約」の上で関わるようになってから、仮初めの姿に身を染めることを覚悟していたのでしょう。でも、それはとても不自然な代物で、どう考えても一人の青年が背負っていけるものではなかったのです。そして彼はついに限界を迎えてしまったのです。
「私はあなたと同じです。同じような道を、明るすぎる未来に向かって歩かされています。でも、私は諦めてしまったのです。いっそ心を殺して、運命に負けてしまおうか、と思ったのです。そこがあなたと違うところです。あなたは強いです」と私が励ますように言うと彼は「どうかな」と呟いて微笑みました。
しばらく車を走らせると住宅街に入り、何度か曲がりくねったある一角の住宅の前に止まりました。その家は特に豪勢というわけではなく、いかにも集合住宅のカタログに載っていそうな形をした家でした。肌色の洋風の外壁が施されていて、下の方は赤れんが積まれていました。表札には「三線町」と書かれていました。後で気が付いたのですが、ここは私の家の近くでもありました。
「ここは別荘なんだ」と徹さんは私と一緒に車を降りて言いました。「両親は喧嘩すると口を利かなくなる。すると母親の方がこっちに避難してくるんだ。いわばここは家族戦争用のシェルターだね。今日はここに泊まっていいよ。着替えは確か従兄妹のものがあるはずだから、勝手に使って大丈夫。幸い今日は僕がここの鍵を持ってる。また学校で返してくれたらいいから」
などなど、事務的な説明をすると徹さんは私に鍵を渡しました。
「ありがとうございます。でも、本当にいいのですか?」と私は心配そうに訊ねました。
「ううん、こちらこそ、今日は笹見さんと正直に話せてよかった。これから先、来るべき艱難がどんなものなのかは分からない。けど、さっき話したことは嘘偽りない。正直に生きれば、そしてそれを最後まで覚えていれば、何とかなるのかもしれない。さっき話したことはとても大切なことだったんだ。だからこれはせめてものお礼だよ、ありがとう」と徹さんは言うと、
車の中に入って手を振ると暗闇の奥に走ってしまいました。
彼は「とても大切なことを話した」と言いました。確かにそうだったかもしれません。しかし、実際的な面から言うと何かを話したようで全然何も話していませんでした。そこには最も話さなければならないことが決定的に欠けていました。あるいは、彼は敢えてそれを避けていたのかもしれません。結局、心の穴を埋めることが出来たのは徹さんだけでした。でも、それでいい、と私は心の中で思いました。きっと、いつか私の心の穴を埋めてくれる人が現れる。だから、今は生きようと試みなければならない。私は重い頭を抱えながらも全く勝手の分からない家の中に入り、深夜の見知らぬ住宅で一夜を明かしました。
運河と少女と徹さんと過ごした激動の月曜日から五日後の土曜日、私はぴりぴりした太陽に照らされた海沿いの街を背景に、電車に揺られながら移動していました。先週大学のテストから解放された私は束の間の休息を得ることが出来ました。今日は朝からずっと勉強机に向かって経営学のお勉強をしていましたが、昼の一時になると今日一日分の課題が片付き、自由な時間が出来たのでこうして外に出ている次第です。私は電車に乗って、一時間半かけて大学の近くにある例の市立図書館に向かっていました。いつもは学校のついでに立ち寄ることが出来ましたが、学校が終わるとそういうわけにもいかなくなりました。私の住む街にも図書館がありますが、やはりそこも学部の図書館と同じくらい使い勝手の悪いところです。たとえ何時間もかかる道だとしても本のためであれば身を賭して駆け付けるのが読書家の宿命です。私は先日借りた『不思議な国のアリス』を読みながらのんびり市立図書館に向かいました。
駅前の雀たちは相変わらず木に止まって羽を休めていました。あの雀たちは一体何のためにあの木で休息をとっているのでしょう。なぜあの木でなければならないのでしょう。それはもしかすると目の前にある駅を守るためなのかもしれない。ああやって駅を出入りする人々を値踏みするためなのかもしれない。それは人間である私にとってまったく分からないし、関係のないことでした。雀には雀の世界があり、私には私の世界があるのです。
私は踏切を渡り、真っすぐ道なりに進み、次の交差点で左に曲がり、真っすぐ行ったところにある「たそがれ」の前で立ち止まりました。歩いている間はあの雀のことを考えていたのでちっとも気になりませんでしたが、空の色は私の住む街の空と少し違った色をしているように見えました。しかし、空は繋がっています。場所によってまったく性質の違う空など、この地球が丸い限り存在しないのです。でもどうして違うように見えるのでしょうか。雲の流れと時間経過による空の変化。もちろんそれも違うように見える一つの原因のうちの一つですが、それとは別に、もっと抽象的な理由が存在するように思います。でも、思うだけであってそれが何なのかが分からないのです。それは夜も例外ではありません。夜空は夏と夜で大きく見え方が異なります。私にはその理由が分からないのです。この地球上に生きているのにそんなことも分からないとは愚かしい限りです。また今度調べなければなりません。私はそう心に念じつつ「たそがれ」の中に入っていきました。
市立図書館は「たそがれ」の最上階に位置します。それまでに立ち並ぶお店はまだ開いていましたが、客足は途絶えていました。駅前にある時計台の時刻は午後二時半を示していましたからお昼のピークは過ぎたようでした。市立図書館に入ると、図書館員は作業に追われて忙しそうにしていましたが、やはりここも空いていました。広々とした図書館で、その机やカウンター、書架、蔵書検索システムもまだ真新しい雰囲気を醸し出していましたが、今はかえってそれがこの図書館を寂しくさせる要因となっている気がしました。
私はそんなことは頭の隅に追いやり、『不思議な国のアリス』を返却してから書架をめぐる旅をしました。前にも説明した通り、私はありとあらゆる類の本を嗜みます。したがって、もう大人の人にとっては敷居が低すぎる児童書コーナーであっても、必要とあらば問答無用で立ち入ります。そしてその通り、私は児童書コーナーに立ち寄りました。この図書館にある児童書コーナーの書架はどんなに小さい子供でも本を簡単に取り出せるようにぎりぎりまで低い高さで設定されています。寸法で言うと1メートルくらいで、背の高い人がそこの間を通るととても目立ちます。私は周りの子どもたちの視線を浴びながらも子ども用の小さい椅子に腰を掛けてから『おむすびころりん』を一生懸命読みました。穴に落ちていったおむすびの中には何が入っていたのかとても気になりましたがそれは分かりませんでした。梅だったらいいな。
そして椅子から立ち上がると、今度は外国人作家の書架に移動しました。前に借りたルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』もここに並べられていました。私は書架を端から端まで眺めました。ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』、ゲーテの『ファウスト』、クリスティの『ABC殺人事件』などなど、挙げだすときりがないですが、どれも読んだことがあるものや興味をそそるものでいっぱいでした。
私はその本の一つ一つに手を触れ、その温度を確かめました。もちろん、館内は空調によってすべての空間が同じ温度に保たれていますが、そういう実際的な意味での「温度」のことを指摘しているのではありません。私の言う「温度」はその著者が一冊の本に込めた熱量のことです。その熱量は触れるだけで分かります。感じるのです。第六感とはまた違います。それは五感の一つである触覚を通して脳内部のある器官によって感じられるものなのです。あくまでそれは予期ではなく感覚なのです。私はこれを第七感と呼んでいます。冗談はさておき、私はその熱量を確かめるためにすべての本と触れ合うことにしました。人間が愛する本は、それぞれどんな温もりをどれほど持っているのかしら。私は右指の人差し指を立てて本の背表紙に触れながら書架の間を歩き回りました。
料理本や生活雑誌のコーナーには家庭の温もりが、哲学や倫理学のコーナーにはこの世界についてあくなき探求を続けた学者たちの熱意が、小説のコーナーには作家たちのありとあらゆる思念の塊が持つ温度が含まれていました。もちろん、本によっては露に濡れた石板のように、あるいは洞窟の氷柱のように冷たいものもありました。そんな本に触れた時は指先がじんじん痛くなりました。
私は色んな書架を巡り巡る中で、最終的に古典文学の全集コーナーに目が留まりました。私はそこでも指先で温度を確かめながら、また、興味のある本を探しながら歩きました。
私は右の人差し指を立てながら正岡子規全集、二葉亭四迷全集、松尾芭蕉全集を目で追っていました。どれも興味をそそるものでしたが、実際に手には取りませんでした。私にはこの図書館にある本の温度を測るという重大な目標があるのです。その思いを胸にまた指を動かしました。すると和歌集や物語集の棚に差し掛かりました。古今和歌集、万葉集、伊勢物語、どれも学校で習ったものばかりでした。それらを指で追っていくのですが、わざわざ言うまでもなく、指が追っていくと体もついていかなくてはなりません。右の棚から順に追っていたので右人差し指が動くと体も一歩右に、また右に動くと体も同様に、という風に動かなくてはなりませんでした。そんな中、今指している平家物語から三冊先にあるところになぜか夏目漱石全集だけが無造作に古典文学に挟まれているのを見つけ、特別気になったのでそれに向かって指を一、二、三と急がせました。すると不意に誰かの左指と私の右指がぶつかり、誰かの体と私の体がぶつかりました。
そこに誰かが居たことに気づかずにいたのです。思わず言葉にならない声を叫んでしまいそうになりました。その人をよくよく見ると、私と同年齢くらいの男の人だということに気が付きました。その男の人は「すみません」と言ってとても申し訳なさそうな顔をしていました。その顔を見て、私は何か言葉を返すべきだったのですが、頭の中でかんがえていたことはまったく違うことでした。
(この人だ。この人が私の心の穴を埋めてくれる人だ)
頭の中で羽の生えた猫が「ニャー」と鳴きました。運命とは、突然やってくることなのかもしれない。私は後になってからそう思いました。