プロローグ 災厄の日
白い雪粒を運ぶ、あの蒼白な雲が愛おしい。
あの日、少年は空を見上げて走っていた。
どこまでも白く無限に流れる雲は天を支配する蛇の如く渦を巻き、一切の青空を少年の視界から隠していた。もしかしたら、あの雲は本当に空を侵してしまったのかもしれない、と心配になったが無意味な疑問のために空を眺めて油を売っている暇はない。それどころか、幾重にも重なる雲の隙間からは数多の雪が地上に降りかかっていた。
少年が走ると顔や青い外套はすぐに雪まみれになったが、それでも足を止めることはなかった。その代わり、この雪は何か悪い出来事――それも人生にかかわるほどの――を示唆しているのではないかという不安が頭をよぎった。
分からない、と少年は首を振ったがとにかく、と思い直した。とにかくこの目で見て確認しなければならない。たとえそれが死の淵まで追いやる絶望だとしても、受け入れなければならない現実というものがある。そういった種類の悲しみがあることはテレビドラマを見て漠然と知っていた。だからこそ少年は勇敢に走ることが出来たのだ。
しかし、これが逃避行動かどうかは定かではないのだが、やはり少年の脳裏には別の、まったく違った考えが浮かんでいた。それは昨日見た夢の話だった。
少年は真っ暗な時計の中で一人閉じ込められていた。秒針がなければカチコチという音さえなかった。二つの針は何分たっても動く気配はなかった。どうやら壊れているらしい。ガラス張りの壁を叩いて助けを呼び求めるが、それは虚空に吸い込まれたきり成果を見出さなかった。そのことを認めると、少年は遂に諦めた様子で寝入ってしまった。
少年は夢を見た。夢の中で夢を見るとは不思議なことだったが、それは実際に少年の脳内に映し出された。それは未来の少年の姿だった。未来の少年はもはや青年と呼ぶべき年齢であり、とても溌剌とした表情をしていた。しかし、その一方で何やら物思いに耽っている様子が伺えた。彼は何に悩んでいるのだろう、と少年は青年の外側から眺めていたがその真意はまったく見出せなかった。青年は図書館の机で本を読んでいた。いや、本に記された何かを探していたと言った方が近いかもしれない。青年は本に記された“ある文章”を探していた。それはとても大切なもので、彼の苦境を脱出するために必要なものでもあった(少年はなぜかそれを知っていた)。青年は広大な書物の中から一つの文章を見つけ出そうとしている。それは砂漠の中から一粒の砂を見つけることに等しかった。少年にとって、その光景はとても奇妙に映っただろう。結局、その不思議な映像の謎は最後まで解き明かされることなく、意識は真っ暗な時計を通り、その夢を見た記憶を経由して雪の中を走る少年のもとに帰ってきた。
ふと我に帰ると、こんな時に僕は何を考えているのだろう、と少年は走る足に鞭を打ったが、それも無理はなかったことが後に判明した。あの雲の隙間から降った雪の示唆は奇しくも当たってしまったのだ。
少年は病院の前に足を止めて息を飲んでから中に入った。そして、知らなければならない悲惨な事実を知り、その小さな胸に生々しい傷を刻み込まれることとなった。
すべてはあの蛇雲とともに記憶の彼方に吸い込まれてしまった。この思い出は長い間封印され、空虚な悲しみとして葬り去られたが、まさか十三年後に呼び起こされることになるとは当時は思いもしなかった。