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すっかり気がそがれてしまった。どちらともなく帰ろうか、となった私達は宿に早々に戻ることとした。
「あーあ。変な奴のせいで糸見つけられなかったな、じゃなくて見つけられませんでしたね」
「全くだ」
イルの言葉遣いがおかしい。どうしたんだろう。足早に路地を抜けて最短距離で焼き魚と藻塩亭へ向かう。その途中に、この世界には珍しい作りの店を発見した。技術的な問題なのか、∞世界において大小問わず板硝子の填まった窓を見たことはない。だが、この店は大きな硝子窓で商品を展示していた。
「へえ」
服ではなく、布が商品なのか。織物が美しく見えるように垂らされている。近づいて見てみる。織物には詳しくないのだが、艶が目を引く。冒険者向けとは思えないのだが、見るだけなら許してもらえまいか。ついでに刺繍糸なんてないだろうか。
「いらっしゃいませ。本日はどのような物をお探しですか?」
恰幅の良い女性がカウンターの後ろにいた。店の中に設えられた無数の引き出しが布を納めた棚なのか、見える範囲に布はなかった。
「いえ、表に飾られた布があんまり綺麗でしたので、つい来てしまいました」
ここは私が思うよりずっと高級な店かもしれない。正直に述べて早々に退散しよう。一つ一つ、店員さんが出してきて見せてくれるような店なんて現実でも入った事はない。
「ありがとうございます。当店の布は全てシルクスパイダーの生んだ糸で織られておりますから、独特の光沢があるのですよ」
シルクスパイダー。この辺りの魔物図鑑には載っていない名前である。不思議な顔をしていたのだろう、店員さんが簡単に説明してくれた。遥か東の方の島国の特産魔物であるそうで、飼いならされた個体が輸出されているらしい。生糸を様々な色に染めて織りあげたものが∞世界における絹、と言う事か。
「御婚礼の際などの衣装にご使用いただいておりますよ」
揺るがない笑顔でお勧めいただいたのだが、残念だが結婚の予定はない。それよりも、絹糸ならば織る前の糸が欲しいのだが不躾だろうか。
「あの、大変失礼な話だと思うのですが、織る前の糸の状態では手に入れることは難しいでしょうか? 組紐細工にしたらさぞかし素敵な物になると思うのです」
店員さんは笑顔のまま、困っていた。明らかに困っている。やはり厚かましい願いだった。謝って店を出る事にしよう。
「大変失礼いたしました。先程のお話は忘れてください」
一礼して踵を返した。何でも要求が通るわけではない、当り前か。店を出てもう一度布を見つめる。何度見ても綺麗だが、戦いに使うには勿体ないな。と、店員さんが店を出てきた。どうされたのだろう。
「あのう。当店では、布の形でしか取り扱いをしておりません。ですが街の南東にスパイダー農場と、併設された染色工房がございます。そちらに出向かれてみてはいかがでしょう? 場所としてはウエスト森とニサウス洞窟のちょうど中間あたりです。住民は問題なく購入できますが、来訪者の方にも販売しているかはわかりかねます」
「ああ、そうなんですね。わざわざありがとうございました、行ってみます」
「いいえ、あなたがあんまり布を熱心にご覧でしたので。良い事になればいいですね」
にこりと店員さんは笑いかけてくれた。店の外まで教えに来て下さるとは何ていい人なんだろう。もう一度深くお辞儀しておこう。
「外套が出来たら行こう、イル」
「うん! ……じゃなくて、はい!」
やっぱりイルが何かおかしい。一体なんだと言うのか。さっきから妙に言葉遣いに気を使っている。
宿屋に戻って、イルはまた投網の練習を始めた。掛け声もこの間までヘイヘーイだったのに、「はっ!」とか「ふっ!」とか格好付けている。
「どうしたんだイル、なんか急に」
黙って本を呼んでいたのだが、一息つく時すら「ふぃー……じゃなくて良い汗をかきました」と言っているのである。堪え切れなかった。
「うん? じゃなくてはい? どうかしましたか」
「言葉遣いを急に気にし始めたけれど、何かきっかけでもあったのか」
もう口に出したのだから気になる事は聞くに限る。イルはちょっと照れたのか投網をくるくると丸めてからこちらを見た。
「アルフレッドさんが格好良くってさ……俺もあんな余裕の大人になりたくて。似合ってない? おかしいかな」
アルフレッドさんとは、喫茶店の店主である。よりによってあんなに完璧な執事みたいな紳士に憧れなくても。イルの今のキャラクターからするとかなり高い壁がある様に思うが。思うけれども。
「聞き慣れてないから不思議には思うが、イルがなりたい大人になればいい。使わないと身に付かないし」
どんな大人になるか選ぶのは本人なのだ。たとえ今私が違和感を感じていたとしても、イルが諦めるか成し遂げるまで応援しよう。
「そっか! っじゃなくて、そうですか! 俺頑張……り、ます」
大分苦しそうだ。無理せず頑張りなさい。後アルフレッドさんはちょっとやそっとじゃ語尾を強調しないと思う。