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カリスマさんと別れ、私は『焼き魚と藻塩亭』に戻った。宿屋中がから揚げの匂いに満ちている。一体どれだけ揚げたのだろう?イッテツさんはまた鍋の前に仁王立ちしていたので、女将さんにだけ挨拶してさっと部屋に戻った。
明日の調合の為の薬草の下処理を再開する。夜が更けるまでには終わるだろう。ゴミ袋にまとめた傷んだ葉をイルが齧っては苦い顔をしていた。
「うぇ、不味。辰砂は何でこんな葉っぱ煮たり混ぜたりして人に売ってるんだ?喜ばれてるのか?」
何故かと聞かれれば第一には金策の為であり、第二には自分用を確保するためなのだが。今までポーションを売った相手が感謝を述べてくれた時の心持ちは悪くなかった。つまらない言葉を投げかける者もいるが、そうでない相手の方が多いのだ。
「んー、色々?そうだな、喜ばれてるかは知らないけど重宝はされてる、かな」
言葉にすると嘘臭くなりそうなので言葉を濁した。イルは良く解らない顔をしていたが、私にもよく解っていないので許して欲しい。
薬草の処理をすべて終えた後。【隠密Lv.3】を【料理Lv.4】と入れ替えて、部屋を出た。イルに寝てても構わないと言ったのだが、強硬に付いて来ると言い張ったので一緒である。
今夜は三日月で光量が少ない。悪事を働く人間にはもってこいの夜である。それと、私にも。糸を空中で渡して浮遊を続け、音もなく降り立ったのは『角煮と氷砂糖亭』の屋根の上である。さて、どこからお邪魔しようか。
人通りを確認していると、いかにも怪しいですよと言わんばかりの挙動不審の男が歩いてきたのを見つけた。執拗に周囲を見渡し、風が吹けば飛びあがらんばかりである。何にそんなに怯えているのだ。
怯える男は私の足元、『角煮と氷砂糖亭』の裏口を独特のリズムで8回叩いた。
「ケンドンだ。……ニーウエスト湾に親子の夕日は沈む」
何を言ってるんだと思ったが、次の瞬間に扉が開いた。合言葉であったらしい。随分気障な台詞回しだ、意味を考えるとさらに不快である。ところでこいつは昨日の男だったのか。別人のように憔悴しているな。
屋根裏の換気用の小窓を外して建物内へ滑り込んだ。内側から引っかけるだけの鍵など糸の前では無いのと同じである。【浮遊】のおかげで足跡もつかない、証拠は残らない方が良いので好都合だ。
「――だから、何故――」
「――ごみ――化け物――」
「―――話になら――」
盛り上がっているのか、天井越しなのに声が漏れ聞こえてきている。浮いたまま聞こえる方向へ移動すると、唐突に四角い穴が設えてあった。何ぞこれ?下を覗き込んでみる。暗がりに目が慣れたのか良く見えるようになった視界には、棒が渡されて服が吊るされている様子が映った。クローゼットか、しかしそれがどうして天井裏につながっているのだ?
「辰砂、梯子あるぜ。逃げるか隠れるか用じゃね」
極僅かに囁くイル。本当だ、私側の足元には縄の梯子が垂れていた。声はこの穴を通じて聞こえている。ケンドンと多分ガーンコが揉めている風だった声は今は小さな声になってしまった。どうにか聞こえないものか?
しばし考え、糸電話の事を思い出す。集音部分に当たる紙コップはないが、振動を伝えてくれないだろうか。糸を1本、クロゼットの隙間から部屋へ侵入させる。音を伝えるなんて曖昧なイメージで性質変化は起きるのだろうか。
「――ニーウエスト湾がいいだろうな」
「!」
「!」
物凄く明瞭に聞こえ始めた会話にこちらが驚いた。予想外の出来に二人してびっくりである。いやそれどころではなくて話を聞かなくては。
「だ、旦那……ニマリンに行けってのかい……!な、なあ、俺、明日からまた嫌がらせ、が、頑張るからよ!頼む、ニーギャング海賊団なんかにゃ会いたくねえよ」
ケンドンが必死に言い募っている。そんなにニマリンとやらは行きたくない場所なのか。本屋にまた行ってどこにあるのか調べてみようか。しかも、海賊団?
「お前が仕事を途中で投げ出さなければこんな事にはならなかったのにな。丁度渡りを付けていた奴が機嫌を損ねて殺られたばかりでな、次を探していたんだ。なに、何人か付けてやろう、これでお前も部下を持つ立派な男になれる」
「だ、だ、旦那ァッ……!」
「明日には出発しろ。急げば2日で戻ってこれる。簡単な事だろう?――行け。迎えを寄越してやる」
ひっ、ひっ、と嗚咽が聞こえ、ケンドンは逃げるように部屋を出て行った。閉められた扉の音と、不快げに鼻を鳴らす音。私は穴に手をかけ、クロゼットに降りると隙間から部屋の中を覗いた。