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何も見なかったことにしてこの場を離れるには少しばかり遅かったなあとつくづく思いつつ、イルにおっさんの相手をお願いした。ちょっとこの若者を何とか落ち着かせなければ何も話が進まないのである。
「まあそうですよね……いいですよ、でも早めでお願いしますね。えっと、魚さん?ちょっとお話し聞きたいんですが」
「おん?天下の龍人サマが何の用じゃい?ワシぁ初めて見たわ」
いちいち視線の使い方が挑戦的ではあるが、非常に物分かり良くおっさんはイルについて街道へ戻って行った。あれってメンチを切るとか言うんだっけ。いや、どうでもいいことを考えてみても始まらない。若者に声をかけよう。
「あのう。ちょっと魚さんには私の連れと話してもらっていますから、今ここにはいません。とりあえずなんだって魚さんをそんなに怖がっているのか教えてもらえませんかね」
おっさんは顔はいかついし体は魚だし口調はチンピラだが、きちんと話せば別に危険なわけでもない。悲鳴を上げて逃げ回るような相手ではないと思うのだが。若者はまた顔だけ出して魚さんを探しているようだ……さっきと全く同じ行動である。と言うことは、魚さんがこの場を離れたことにも気づいてなかったのか。
「い、いない……あ、ああ良かった……怖かった」
盛大なため息と共に、彼は再び藪から這い出た。ため息をつきたいのは正直私の方だが、まあ、首を突っ込んだのだから仕方あるまい。
「ええと、私は辰砂と言いますが、お名前お伺いしても?」
「あっ、すみません僕人参スキーと言います。漢字で人参、スキーはカタカナです。えっとあの人……人?魚?はどこ行っちゃったんでしょうか」
「今は私のパートナーが話していますよ。ちょっと見た目と口調にインパクトがありますが、良い方みたいです」
イルが排除しなかったと言うことは、おっさんに悪意または害意がないという事だ。おっさんが悪い存在ならば近づいて来る間に撃ち落とされてお陀仏になっている。
「それで、何がどうしてあなたたちはこんなにこじれてしまっているんでしょうか?おっさ、じゃなくて魚さんは『自分を釣り上げた見所ある若者に声をかけたところ、話を聞かず逃げ惑うのでつい追いかけまわしてしまった』と言っていましたが」
水を向けてみると、人参スキーはくしゃりと顔を歪めた。つぶらな瞳と言い、顔のつくりからして小動物的な容姿である。昔飼っていたハムスターが、巣の掃除の度にこんな顔をしていたなあ。
「そんなあ……そんな理由なんですか……すっごい怖かったのにぃ」
涙目の人参スキーが語るところによれば、サンの街からナナリの街へつながる街道は渓流らしい。物凄く魚が釣れそうなポイントだったので釣りをすることにした人参スキーは現実世界ではありえない大爆釣に舞い上がり、その場で魚を焼きながら釣るという暴挙に出たと言う。
るんるんで鮎を焼きながら釣りを続けていた人参スキーだったが、ルアー釣りであたりが無くなり、手持ちのミミズをエサにしたそうだ。そしてミミズを川に投げ、鮎の焼け具合が気になって竿を持ったまま振り返って――無精なことに人参スキーは座ったまま釣りをしながら鮎の面倒も見ていた――鮎を半回転させて振り向いた時に竿が大きく引き込まれた。
すわ大物と人参スキーは必死のやりとりを行い、数分にも渡る激闘の末、釣れた大物こそがおっさんであったと言うことだった。そして針を自分で外したおっさんに猛烈に凄まれ、脱兎の如く逃げ出して今に至ると。街中でも屋内でもお構いなしにやって来るので結局街道から外れた藪の影に隠れたそうで……。
「まあ、とりあえずお疲れ様でした。∞世界って結構謎のイベントを引きやすいですよね、わかります」
「え!っこれってイベントの類なんですかね……!?」
つっかえながらも事情を話し終えた人参スキーを一応労ってみると、人参スキーは小さな目を見開いた。イベントと言うか、イベントと言うには違和感があるけどイベントとしか言いようがないと言うか。
「私もよくわからない出来事が結構起きたりしますよ。泉の精霊さんと知り合ったり、精霊さんのカップル成立の瞬間に立ち会ったり、最近じゃクエストを受けようとすると面倒なやつを最優先で回されたりします」
所謂ゲーム的なイベントとはかなり違うし、クリア条件もわからないし、そもそもクリアしたかもよくわからないけどね。まあ、∞世界に来てからやって来たことの積み重ねで今に至るのだから別に後悔もない。もうこの世界をゲームシステム的に考えると、辻褄の合わなさに私の頭が爆発するので考えないようにしている。
「そうなんですかね……?でも物凄く怖かったんですよう、カツアゲかと思っちゃって」
人参スキーのしょぼんとした顔に合わせて獣耳もぺったり伏せた。獣人系統は耳と尻尾が感情に連動しているのか、上手い具合に動いていて実に自然である。内心を隠したい時には不利だろうなあ。
「まあ、∞世界はかなり個性が多彩と言うか、あくまでも住民であってNPCはいないように思いますよ。言いたいことが伝わりますかね?上手く言えないのですが、私はここの人も人なのだと思っています」
「……住民、ですか。NPCじゃなくて」
人参スキーは目を何度か瞬かせた。戸惑うような表情だ。やっぱりプレイヤーの中では住民はあくまでNPCだと言う認識が主流なのだろうか。とてもそんな風に思えない私が少数派なんだろう。
「まあ、魚さんもちょっとアクが強いだけでいい人なので、どうしても心配なら私たちが同席するので一度話を聞いて見ませんか?それくらいなら付き合いますよ」
人参スキーはたっぷり五分ほど悩んだけれど、結局了承してくれた。これでよしと、あとは魚さんが突撃しそうならイルに捕まえてもらうだけだな。