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話し足りなさそうだった天草さんと別れ、やっと私は焼き魚と藻塩亭に戻ってこられた。さてさて、我が癒し隊を愛でる事にしよう。
「おはよう、亀ちゃんと蛇ちゃん」
イルが登場するまでには30秒ほどかかるので、その間に2匹に――また寝台に上がっていた――挨拶をして一撫でずつしておく。亀ちゃんの場合は甲羅を撫でるのだが、これって伝わっているのだろうか。
「ん、ああ辰砂。おはようございます」
「イルもおはよう」
ふっと現われたイルとも挨拶を交わし、まずは珈琲タイムに入る。イルもすっかり手慣れて、ミルを回す手つきも様になっている。薄めに入れて貰ったコーヒーを楽しんで、その後イルに手を借りることとする。手と言うか、腕を。
「……うーむ」
ちょっと袖をまくって貰って撫でてみたのだが、やはり鱗と言うよりは肌の感触である。所々が滑らかなだけだ。まあ見ればわかるんだけども、悪足掻きは悪足掻きでしかなかったか。
「今日は何してるんですか?」
大人しく腕を差し出しつつ、若干の不信感を見せてイルは私を見下ろしている。並んで座ると、体格上イルの方が顔が上に来るのだ。
「いや、……鱗ってこれ以上生えて来ないのか」
「はい?」
仔水龍だったころのイルの滑らかさを思い出して、つい愚問が口から出てきた。生やせるわけがない、むしろ生やせるなら進化して早々に生やしていたに違いないのだから。イルが進化した後の最初のぼやきは忘れられない。
「少なくとも今の形のまま生やすことはできませんけど……なんです、触りたいんですか」
察しが良過ぎるのも何だか気まずい物がある。無言を貫いていると、イルが角の付け根を揉んだ。時々やってるのを見るが何の意味があるのだろう。凝ったりするのだろうか?
「蛇の鱗では物足りないんですか」
「うーん、いや、蛇ちゃんの鱗は吸いつくような感じの滑らかさなんだけどイルの鱗はどこまでもつるつるして抵抗の無い感じが良いんだ。方向性が違うんだよ」
見透かされた以上隠しても何もならない。正直に心情を吐露すれば、イルは袖を元に戻し、両手で角の付け根を揉み、ついでに一つ咳払いをしてこちらに向き直った。
「どうしても、辰砂がどうしても撫でたいっていうならですけど。【龍化】のスキルを使うと一時的に龍になれますよ。大きくなるのでちょっと目立ちますけど」
イル曰く、【龍化】を使う事で龍の形態を取る事が出来るそうだ。仔水龍の時に一度使った【短気】の系統のスキルだろうか。あれの反動を目の当たりにした私としては、とても賛成しかねる内容である。
「ああ、【龍化】は魔力を使うだけですから大丈夫ですよ。俺はもう成龍になってますから、自分の形を変えるだけで済みますからね。【短気】は無理やり成龍になるスキルだったんです、代償もそりゃ違いますよね」
今思えば、とイルは珍しく遠い目をした。反対意見が尤もな理由で下されたのなら、後は私の気持ち一つと言う事なのか。うーむしかし人のいない所、いない所……心当たりが一つあって若干複雑な気持ちになる。まず間違いなく誰も来なさそうな、殺伐とした所が。
「……久しぶりに、谷を越えようか」
遠まわしに言ったそれは誤解無く受け止められた。そうと決まればぼんやりしている場合では無い。出発しよう。
可及的速やかに、私達は例の谷の前に来ていた。関所が解放された直後の為か、ここまでに人っ子一人見かけないままである。皆ロックの街の方へ行っているのだろうなあ。
「辰砂、どうしましょう?ここで変わります?向こうに行ってからにしますか」
ぼんやりと元の予定を思い返していると、イルから質問が飛んできた。イルがそう言うと言う事は、少なくともイルレーダーには誰も引っかかって無いと言う事なのだが。いや、ここまで来て目撃されるのも面倒だ。
「渡ってからにしよう。同じ飛ぶのでも小さい方が目立たないからな」
「そりゃそうですね。じゃ、もうちょっと我慢して下さいね」
頷き合って、【飛行】を使う。イルの方は【高速飛行】なので、先行して猿を適当に倒しておいてもらおうか。私は蛇ちゃんと亀ちゃんを間違っても落とさないようにゆったり飛ぼう。物申したいらしい亀ちゃんを両手で掲げつつ飛行。
「――我。初。居。空。驚。風。驚!」
初めての空中にいささか興奮気味の亀ちゃんのバタ足を眺めつつ、深淵の谷とか言うこの底知れぬ谷の上を進んでいく。朝通っても昼通っても底は闇だ。∞世界のファンタジックさを考えると、もしかしてこのまま地の底の世界に繋がっていたりしそうで恐ろしい。まだ地上だってほんの少ししか見てないのに。
ほどなく谷を渡りきって、私はイルと並んで立った。崖っぷちにいるのは、変身した際木がへし折れるのを防ぐ為である。
「じゃ、やりますね」
何の気負いも見えないイルがするっと崖に向かって飛んだ。そのままイルの形が曖昧になる。見つめている筈なのに、いつ変化したのかわからない。瞬きするほどの間に、イルは巨大な龍に変化していた。
「あれ?なんかちょっと予想と違いますね」
大きくなったせいか声が更に低く、ざらつくような響きが出たイルの声がして、私は我に返った。いかんうっかり見とれてしまった。前回はあんまりよく見れてなかったのだ。こんなに綺麗だったとは。
「おっかしいなあ……まあいいか。ほら、辰砂、上がってきてください」
身をよじる様にして自分を見下ろしていたイルが私を呼んだ。はっとする。今しがた我に返った筈だったのに、うっかりまた見とれてしまっていたらしい。いかんなあ、反省しつつイルの後頭部辺りまで飛びあがる。人型の時に比べて太くコシのある鬣辺りに着地。
「おお……一枚一枚が大きくなってる。物凄く厚くなって……しかし手触りは変わらないのか。うーん」
イルの大きさの差故か、鱗のサイズだけは比べるべくもなかったが、求めていた手触りは全く失われる事無くそこに存在していた。ひとしきり撫でまわして、極上の感触を堪能する。イルはしばらくその場に滞空していたが、段々暇になってきたのか一つ身体をしならせた。
「初めて大きくなったし、慣らしでちょっと飛びますから辰砂は落ちないように。ちょっとやそっとじゃ抜けないので、鬣を持っといてください」
余程退屈だったらしい。イルはそのまま螺旋を描くように上空へ向かい、ゆったりと空に舞い上がった。暫くは私も亀ちゃんも、多分蛇ちゃんも景色を楽しめたのだが、途中からイルが錐もみ飛行やらアクロバット飛行やらを試し始めて大変な思いをしたのであった。後で猛抗議したのは言うまでもない。