177 ちょっとした願い事
「願い事があるのですか?何か欲しい物でも?」
松明を意図的に坊やの方へ向けて、バイオレンスな風景が見えないように調節しつつ坊やの本当の願いを聞いてみることにした。どうせ砂漠薔薇の滴で願いが叶ったりはしないのだ。坊やの望みが叶うまで、この不人気依頼は品物を変えて繰り返されるのである。誰も幸せにならない依頼なんて出すだけ無駄だと思う。
「っく、ぐずっ……あ、あにうえが」
「兄上が」
ああ、年の離れた末っ子と言う話だったか。兄が冷たいと言うのだろうか?
「兄上にっみんな冷たいんだ!一緒にご飯も食べられないし、兄上だけいつも同じ服を着てるんだ!どうして僕は執事がいるのに兄上にはいないの!なんで!兄上だけお庭の小屋で一人で住んでるの!」
逆だった!おっと釣られてしまった。兄が冷たいのではなく、兄に冷たい周囲に納得が出来ない坊やなのであった。家庭の事情は窺い知れないが、案外坊やは物を真っ直ぐ捉えているようだ。ペンを取り出しつつ、坊やの慟哭を聞く。
「お母様は兄上が悪い子だからって言うんだ。だから僕も悪い子になったのに僕は全然怒られない。お庭にも出されないし執事がいなくなったりもしない!兄上の方がずっといい子なのに皆おかしいんだ!」
「それで、皆の目を覚まさせるために、砂漠薔薇の滴が欲しいのですか」
成程ねえ。頭だけは悪くない坊やである。だけれどもお子様ゆえに愛憎やら悪意と言うものに疎いのであった。
「私は坊やのお家の事を何も知りませんが、それでもわかることは多少あります。良い事を教えてあげましょう。坊やの願いが叶えられるような品物はね、この世界のどこにもありません」
「……え?」
「坊やの願い事はね、誰かの気持ちを捻じ曲げないと叶わないんですよ。お母様かもしれないし、お父様かもしれないし、お兄様かもしれないし。坊やには嫌いな食べ物が有りますか?」
急に何を言い出すんだと言いたそうな坊やはそれでも頷いて、羊の肉が苦手だと言った。流石金持ちの家の子は嫌いなものも高級感漂うなあ。白魔石に字を書く。
「嫌いだけど、食べなさいと言われて渋々食べた覚えがあるでしょう。その時の嫌な気持ちを誰かに言われたからって大好物を食べる時みたいに変えられますか?」
「……思えないけど。でも、食べ物の話じゃないか……兄上は食べ物じゃないもん……」
「例え話ですからね、そりゃあ嫌いなお勉強でも、苦手な先生でも、何もできない振りをする執事君でもいいんですよ」
わからないはずがないのに無意味な反論を試みる坊やであったが、あっさり逃げ道を塞がれてうなだれた。子供相手に大人げないなあ、我ながら。
「坊やがしたいのは、そう言う事ですよ。そんなつもりじゃなくてもそうなんですよ。だけどきっと坊やは死ぬまで後悔することになるでしょうね」
何だってこんな洞窟の奥で子供を諭すことになったんだろうなあ。ただの昇級試験なのに、適当にこなしときゃいいのに。自分にため息が出る。木製の持ち手を付けて、蛇の抜け殻を切って貼った酷い出来の行燈っぽい何かの中に魔石をセット。
「僕、……家族みんなを好きなのは僕だけって、わかってた。お母様は兄上の事嫌なんだ。姉上も。お父様は兄上の事が好きだけど、お母様の方がもっと好きだから言えないんだ。召使の皆もお母様が怖いから兄上の事を庇わない」
理由を知らなくても、わかる事はわかってしまうんだよなあ。坊やに不細工な行燈と提灯の合いの子を持たせる。魔力を送って点灯、松明よりは明るいかな?松明はお役御免なのでストレージに仕舞おう。
「よく分かってるじゃないですか?坊やの願いをそのまま叶えたら、誰かしらが今のままじゃいられないってことも」
灯りを不安げに見つめる坊やを抱っこしてやる。そろそろ砂漠薔薇の滴を採りに行こう。湖に足を踏み入れると、坊やが怯えた声を出した。
「泳げないって言ったのに……ぼ、僕が悪い子だから、お水に浸けるのか?僕がいない方が良いから?僕がいなかったら兄上が大事にしてもらえるから?」
あ、本音が出た。こんな子供にこんなこと思わせるなんて罪な家族だなあ。絶対関わりたくない。しかし坊やよ、すでに腰辺りまで湖に沈んだのに濡れないのを不思議だと思わないのか?
「んー、いない方が良い子ってのは居ないんですよ。誰に祝福されなくても自分だけは自分の事を愛さなければならないと、昔の偉い人が言っていますし」
周りの水を押しのけて、適当に空間を作りつつ顔まで沈む。ようやっと坊やも水が避けて行くことに気が付いたらしい。きょろきょろと首をめぐらせているのであった。
「坊やが最初思っていたよりずっといい子だったので、予定通り坊やに滴を取ってもらうことにしたんですよ。今の坊やなら、もう不毛な願い事なんてしないでしょうからね」
直径2メートル程度ある球形の空間を維持するのはそう手間でもなかった。【浮遊】で浮いてないと、濡れた地面を歩かないといけなくなるので坊やを降ろすわけにはいかないが。魚は水中での脅威に過ぎず、空気中には出て来ない。楽勝であった。
さくさく地底湖の中央部まで進み、砂漠薔薇の群生地までたどり着く。ぽつぽつと水中で薔薇が咲いていた。何とも不思議な光景である。水中庭園みたいだ。坊やの両脇を持ち上げて、顔ほどもある立派な花の前に坊やを掲げた。
「はい。薔薇は傷つけないように、真ん中の滴を摘み取るだけでいいそうですよ」
めしべに当たる部分にオパールみたいな粒が光っているのが見えた。坊やがそっと手を伸ばして、恐る恐る滴を取る。抵抗も無く手の中に納まったそれをじっと見つめる坊や。涙型の整った粒がころりと掌の上を転げた。
坊やは無言であったし、滴に何かが起きることも無かった。当たり前の話である。だから滴がちょっと濡れてしまったのも、私が幾つか砂漠薔薇本体と地面の砂、砂漠薔薇の滴を失敬したのも誰にも見つかることはないのだった。