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シルクスパイダー農場は領主直轄であると言う話を聞いていたのにまったく迂闊であった。領主館に平民や来訪者を呼ぶとなると物凄く煩雑で面倒なので、遠見姿見なる物を置いてあるのだそうだ。そんな名前の魔法道具は魔法文字大全に載ってなかったと思う。用途を考えると一般には秘匿されている物かもしれないから、要らんこと言わずにバーノン老師に聞いてみることにした。
ほぼ騙し討ちだったにも関わらず全く悪びれないユユンさんに歯噛みしつつ300000エーンを支払い、ご機嫌のイルとともにやってきたのは今度こそ冒険者ギルドニーの街支部である。まっしぐらに飛んできたので道中何も起きなかった。
「ここの建物が一番大きいですね、街も大きいからかな」
中を見回していたイルが感心したようだった。昨日のイチの街のギルドと比べているのだろう。まあ、田舎町と領主のお膝元が似たような規模では釣り合うまい。
「人が多いと仕事も増えるからなあ。じゃ、受付に行こう」
ギルドに寄らずにウィンドウで受注しようかとも考えたのだが、結局納品なり報告なりでギルドに寄らざるを得ないのである。それなら最初から受付嬢に対応してもらった方が話が早い。
「いらっしゃいませ。冒険者ギルドニーの街支部へようこそ!ご依頼ですか?」
受付嬢は本日も揺るがぬスマイルを披露してくれる。
「おはようございます。階級を上げたいので手持ちと合う納品依頼をこなしたいのですが」
「かしこまりました、少々お待ちくださいね」
素早い手捌きで女性は手元を動かし、ざっと依頼を選び出してくれる。
「そうですね、納品のみと言う事でしたら、常時依頼はフィールドアント、はぐれドッグが出ています。それからファングラビットの肉、フィールドアントの甲殻、ブラックバットの黒焼き、ゾンビの臭液、ミニマンティスの針金、うらなり河童の肝くらいです」
えーと。ストレージの硝子板に該当するドロップ品があるか探す。うらなり河童は倒した覚えがなかったが、後のドロップ品は存在していた。どこかで倒していたらしい。うーむ全然覚えてない。
フィールドアントの甲殻は納品依頼に、残りを常時依頼に回した。はぐれドッグも同様にする。兎肉には興味があったのでパスし、ブラックバットの黒焼きとゾンビの臭液、ミニマンティスの針金を納品した。思ったより捌けなかったな。
「はい、これでⅡ階級及びⅢ階級への昇級試験資格に足りましたわ。こんな達成数になる前に普通はⅡかⅢくらいに上がっている筈なんですけどね。流石戦う調薬師様です」
……はい?今、おかしな表現が聞こえたぞ。ごくごく内輪の恥ずかしいあだ名の筈のそれが、なぜ今耳に入ったのだろう。いや気のせいに違いない空耳だ。
「失礼、今なんて仰いました」
「え?流石戦う調薬師様ですね、と申し上げました。3倍近くまで高騰していた素材をいっぺんに元の水準まで戻すなんて、初めて聞きましたわ!ギルド職員の間で噂になってますよ」
笑顔の受付嬢から目を逸らして、イルの顔を見上げた。目が合ったイルは微妙な顔をしているが、不器用に笑って肩を叩かれた。
「――大丈夫ですよ辰砂、知り合いにはまだバレてません」
イルの優しさが身に沁みる。しかしだな、
「そういう問題じゃないと思うんだ……」
カリスマさんとかおふくろさんとかに知られたらと思うと死にそうである。そういう観点では確かにまだ大丈夫ではあるけれど。そうだけど、そうじゃなくて。
「あのう因みにどうしてそんな呼び方を?」
やるせない思いを押し殺しつつ受付嬢に尋ねてみれば、受付嬢は素敵な笑顔をキープしたまま快活に答えてくれた。
「昨日行われた領内ギルド定例会議にて配布された資料に、発端となったガラス職人からの指名依頼書写しが添付されておりまして。題名が確か、『戦う調薬師へ、瓶が欲しけりゃ材料寄越しな!』みたいな感じでしたので、皆が辰砂様を『戦う調薬師』だと認識しましたわ」
元凶はゼーベック硝子店の店主であった。しばらく店には行かないと固く決意しつつ、昇級試験の説明を聞くことにした。後で聞いたのだが、この日ギルド中の木と言う木が急に成長して大変だったそうだ。柱からも椅子からも床からも芽が出たとか、私は何も知らないがさぞかし大変だったに違いない。