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「おはよう」
挨拶をかわしてイルは早速珈琲を淹れはじめた。もう昨日の反省をすぐにでも試したいらしい。朝の珈琲は乙なものでもあるし、大人しく待つことにする。ほどなくして出来上がった珈琲は昨日より薄目に仕上がっていてブラックでも飲みやすかった。
「美味しいよ」
褒めるとイルは嬉しそうに笑った。ミルを掃除するのも楽しいらしく、一生懸命やっている。片づけたらケースごと降りておいでと言い残して、私は1階に降りることにした。その後どうなったのかが気になるのだ。
「おはようございます」
バターの匂いが充満する厨房に声をかけると、イッテツさんが振り返った。
「……ああ。起きたのかい」
悩み千万と言わんばかりのイッテツさんと目が合った。けれども今度は楽しげでもある。
「魚ったって、身構える必要なんてなかったんだな。いつも通り、試行錯誤すればいいんだ、から揚げの時みてえに」
言葉通り、厨房には色々な食材が所狭しと置いてある。今日の試作品だと渡されたのはやっぱり串に刺さった揚げ物である。……鯵フライだ。ご飯が欲しい。
「乾いたパンを砕いて衣に使ったんだ、あんたが麺を砕いてたの見て思いついたんだぜ。くっつかないから卵にくぐらせて、卵も付かないから小麦粉叩いてみたんだ。魚ってのは結構火が通りやすいみたいだな、焦がさねえように苦労した」
レモンを絞るとまた美味い。ざくざく食べられて最高である。はあ幸せ。
「素晴らしい調理法ですね。物凄く美味しいです。この魚は何という魚なんですか」
この鯵味の魚は見かけたら必ず手に入れようと決意して尋ねてみる。イッテツさんもそうだろうみたいなドヤ顔である。
「ウンメーアジだ」
なお見かけはハタ類みたいだった。相変わらず見た目と中身が違い過ぎて意味が解らない。
「美味しい!でもこれ、バター味しないけどいいんですか」
いつの間にか降りてきていたイルも串を一本拝借して食べている。行儀が悪いぞ。きちんと許可を得て、頂きますまで言いなさい。
「う、ごめん。イッテツさん、一本頂きました。美味しかったです」
こういうところはまだまだ見た目に中身が追い付いてないなあ。素直に聞き入れるだけまだましなのか。イッテツさんも動揺しつつも構わないと言ってくれた。それに、と続く言葉を傾聴する。
「バターってのは途轍もなくいい香りがするがそれだけに主張が強くてなあ。明らかに使わない方が美味い料理もあるみたいで、つい気晴らしに作っちまった」
バターで鯵フライを揚げる想像をしたが、ちょっと遠慮したい感じだ。多分くどすぎる。
「あー、とにかくバターを使えばいいんですよね?野菜と合わせて炒めるとか、後から乗せたり、塗ったりしても面白いかもしれませんよ。揚げ物と組み合わせようと思ったらかなり努力しないといけないと思いますが」
もういっそパスタみたいにしたらいいんじゃないかと適当に思ってしまう私がいる。ほら、魚介のバター炒めって熱々だと破壊的な美味しさがあるし。醤油は足したいけど。
「ソテーか。ああ、ソテーもきっと相性がいいだろうなあ。バターだけだと単調かもしれないから酒で香り付けをして……そうすると……」
あ、またスイッチが入ってしまった。職人肌のイッテツさんは考え込んだら人の話が聞こえなくなるようだ。もうこうなると相手にしてもらえなくなるので、お礼だけ述べてとっとと出かけよう。
何だか全身からバターの匂いがする気がしている。人目がないので思い切って飛んだのだが、多少消えてくれたろうか?今日も外にいる人はいないので、作業場までお邪魔する。
「すみません、糸の購入に伺いました」
声をかけて、出てきてくれたのはユユンさんであった。
「以前一度購入させていただいた辰砂です。使い切ったので、追加を買いに参りました」
ギルドカードを渡して要件を述べると、ユユンさんも思い出してくれたようだ。
「ああ、来訪者なのに細工用に購入なさった怪しい人でしたわね?やっぱり顔は隠さない方がいいですわ、安心できますもの。それにそんなに綺麗なお顔を隠しては勿体ないです」
笑いかけてくれるユユンさんの方がよほど妖艶な美女なのだが、そう言ってもユユンさんは意味深に笑うだけだ。よく分からない。
応接室らしき場所に通されて、ユユンさんが手早く色見本を2組出してきてくれた。ちょっと椅子をお借りして眺めてみる。イルも隣で真剣だ。
「何色まで良いですか?」
「個人契約だから、あと17綛までだな。バラバラに買えば17色まで」
悩ましげに眉を寄せるイル。17色って多いようで少ないのだ。基本の色鉛筆と同じ色を買うだけで12色になってしまうのである。
「あら。辰砂さんが作るのではないのですか?」
食い入るように糸を見比べているイルを見て、ユユンさんは驚いたようだ。口に揃えた指が当てられた。
「ええ。細工物は彼が――イルがやるんです。私は使う石を磨くくらいです。ほら、これが今のところの代表作ですよ」
ストレージから根付3種を取り出して机に並べた。ユユンさんは目を見開いて見比べている。
「まあ。綺麗な物ですわね。特にこの葡萄の房みたいなものが美しいですわ。水晶に、糸の色が透けて見えて……」
絶賛である。私が作ったのでもないのだが何やら誇らしい。
「ええ。おかげさまでご好評も頂いていまして。殆ど使い切ってしまったので、いっそ好きな色を選んでもらおうと思って今日は一緒に来ました」
「そうでしょうねえ。……ですが、このペースではとても個人枠には収まらない量の取引になってしまいますわねえ。もしよろしければ、私の方から購入許可を得られるよう働きかけてみますけれど、如何かしら」
思わぬ申し出であった。確かに、今日17綛購入してしまえば来年までこれ以上糸を買えないわけで。こちらとしてはとてもありがたいのだが、彼女がそんな風に言ってくれる意図は何だろう?
「ほほ、商売の種は拾って育てなければ大きくなりませんのよ。それに、これ。付加守ですわよね?この頃この領地には満足いく付加術師がおりませんの。この辺りで活動して頂けるよう多少優遇措置は取らせていただきますわ」
にこにこしているユユンさんだが、しかし私は根無し草である。今はここにいるけれど、いつかはもっと遠いところに行くかもしれない。
「すみませんがここに根を下ろすつもりは今のところありません。定期購入であるとか、大口の注文にも対応しかねますし、そのようなことを期待されているのでしたら無益なお申し出だと思いますよ」
下手をすると交換条件が出てきそうなので、先に釘を刺しておこう。これで私達が役に立たないことがわかればユユンさんから引いてくれるだろう。
「つれないですわねえ。でもお気になさらないで。あなたがたが今、この辺りで付加守を作成して売っているということが大切なんですから」
それにどういう意味があるのかは私には全然わからなかった。が、まあ量の縛りも無ければ納期だったり制約だったりも無いと言う事らしいのでとりあえず受けておこうか。
「それではどうぞ、よろしくお願いいたします」
「ええ確かに、お引き受けしましたわ」
含み笑いを交わしつつ、据わりの悪い商談はあっさりとまとまった。イルの決めた17綛を購入して私たちは立ち去ったのであった。ディヨルさんに会わなくてほっとしたのは余談である。