7
十一時四十分。冷たくなった耳に両手をあてがい、歯をがちがちさせながら電車から降りてきた人々に注意を向けていると、券売機の前あたりで、煙草をふかして佇んでいる中年男のもとに、五歳前後のブロンド髪の少女を連れた女が駆け寄っていくのが目に入った。
日付が変わる直前の時間に、五歳の子どもを連れて歩くのはよほどの理由があるのだろう。
マックスは少女の姿を認めた瞬間、彼であると直感した。
「パパ!」
駆け寄る少女と目が合うなり、中年男は『神よ!』と歓喜の叫びを上げ、少女を力強く抱きしめた。誰の目から見ても感動の再会であることは疑いようがなかった。
初めて彼を見た時の祖父母の反応があんな感じだったな。
記憶を照らし合わせ、改めて少女と彼が同一人物である考えを強める。
マックスは、中年男に抱っこされ、眩しいくらいの笑みを浮かべる少女に狙いを定め、移動する彼らの跡をつけた。彼らは争いのない平和な世界に迷い込んだかのように、表情がだらしなく弛緩していた。夢現の無防備な家族から、子どもを連れ去るのは容易だろう。
やっとだ。やっとお前を見つけたぞ、レイ。
すぐにでもマックスは彼を連れて帰りたかった。しかし、万が一少女が人違いであれば、これ以上の捜索は困難になる。
はやる気持を抑えて、マックスは幸せそうな家族の後ろ姿を見守る。
彼らの後ろ姿は何となく昔のランバート家に似ていると思った。
親も子どもも笑顔の絶えない、平穏で幸福な家庭。彼を連れて帰れなければ、失ってしまう温もりのある家庭。
マックスはふと考えるのを止めた。
気が付けば、彼らの家の前まで来ていた。
二階建ての白い木造の家からは―夫婦の子どもたちだろうか―駅で見かけた少女とは別に、若い男女の笑い声がほとんど絶え間なく聞こえてくる。
彼らに気付かれないよう、マックスは玄関脇のバルコニーの下へと移動し、そこで屈み、どのようにして彼を連れだすか考えた。
彼らが寝ている間に家に忍び込もうか。それとも一か八か家の外から彼に声をかけてみるか。
あれこれ考えていると、頭上から少女の声がした。
「やっぱりあなただったのね」
マックスは文字通り飛び跳ねてバルコニーに目を向けた。
「レイ……。レイなんだな?」
視線の先にはアウル駅で見かけたブロンド髪の少女がいた。マックスが期待のこもった双眸で少女を見つめると、彼女は残念そうに首を横に振った。
「私はもうレイではないわ。この家の夫婦の娘、クラリスとして生まれ変わったの。だからもうお帰りになって」
少女の言葉を聞いて、マックスは焼け串で心臓を貫かれたような心持がした。
自分が必死に捜し求めているレイはここにはいない。
唐突に絶望の波が押し寄せてきて、マックスは全身から力が抜けそうになる。しかし、レイを連れて帰りたい一心が彼を動かした。
「レイ、どうしていなくなったんだ。誰もお前を疎ましくなんて思っていないのに」
少女は物憂げな様子でマックスから目を逸らした。
「仕方なかったのよ。浜辺には私を知る人がいたの。私の身の安全を確保するには、あの場所から離れるしかなかった」
「それならそれで、何故戻ってこない。父さんも母さんもお前を本当に愛しているんだぞ」
「わかってるわ。二人には深い深い愛情を注いでもらったもの。でも、この家の人たちはみんな私を疑ってないの。みんなが私をクラリスとして見てくれるの。こんなことは初めて。大抵は一人くらい、あなたのように鋭く私の正体に気付く人がいいるのに」
「お前はこの家のほうが居心地が良いって言うのか?」
恐る恐る訊ねると、少女は真っ直ぐマックスの目を見据え、迷うことなく答える。
「そうよ。私はずっと誰からも存在を疑われない場所で生活がしたかったの。最近では、あなたに追い出されたり、あなたの友達の家で酷い目に遭ったりしたけど、ここは心が安らぐわ」
月明かりに照らされる少女の笑顔は、作り物には見えなかった。
このままではレイを連れて帰ることができない。
窮地に追い込まれても、都合良くマックスの頭が冴え渡ることはなかった。
どうすれば彼を引き止めることができる?
焦燥感に駆られながら、もたもたと思考を巡らしている間に、少女は笑みを浮かべたままマックスに手を振る。
「あなたには感謝しているわ。でもこれから私はここでクラリスとして生きることにします。今までありがとう。さようなら」
マックスは拳を握って俯いた。これが彼を連れて帰る最後のチャンスだろう。言葉の選択ミスは許されない。彼の心に響かなければ彼を止めることはできない。並々ならぬプレッシャーの中、マックスは少女に訊ねた。
「なぁレイ、お前が欲しいのは本当に安らぎなのか?」
マックスに背を向けて歩き始めた少女はびくりとして足を止める。
「他者としての自分の存在を認めてくれるのと、愛されるのはイコールではない。お前がこの家でクラリスとしていられるからといって、この家の人間に愛されているとは限らないんじゃないのか?」
少女は明らかに動揺した顔でマックスを見下ろした。
「それでも、僕はこの家の人たちに必要とされている!」
言葉の勢いとは裏腹に、少女の膝は力なく崩れた。
マックスは泣き崩れる少女の姿とレイをだぶらせ、彼女から目を逸らした。
「レイ、もう一度戻ってきてくれないか。今度は手を放したりはしない。無理強いもしない。なんだったらお前の望む物なんでも揃えてやる。だから……」
マックスが言い終える前に、少女はレイの声で言った。
「約束だよ」
弟の声を聞くのは数年ぶりのような気がした。
「あぁ、約束だ」
マックスが力強く頷いて見せると、やがて少女は泣き止み、一度部屋の中へと姿を消した。
それから五分後、彼がレイの姿で玄関を開いた。彼は周囲を気にせず一目散にマックスの元へと駆け寄った。
家の壁に身を寄せ、マックスは気配を殺してそっと玄関口の様子を窺った後、小声で彼に訊ねた。
「出るところを誰かに見られたか?」
彼は黙って首を横に振った。
「よし、じゃあ帰るか」
首尾よく少年を連れ出すことに成功したマックスであったが、いきなり問題が発生した。駅に向かって一歩前に踏み出そうとしたと同時に、家の中で悲鳴が上がったのだ。
「クラリスが!クラリスがいないわ!」
叫び声が聞こえ、『やばい』と思った時にはマックスは少年の手を引いて走り出していた。幸い、家の前の道の傍には曲がり角があった。その為、事態を把握して家を飛び出してきた、クラリスの父親と思われる男の死角に入るのは容易だった。しかし、マックスは追手の有無を確認しようと振り返った際、男に顔を見られてしまった。男は逃げ去るマックスを認めたと同時に、天まで届くような声で叫んだ。
「あそこだ!」
叫び終わるよりも先に、男は走り出していた。彼からしてみれば、マックスは娘を誘拐したイカレ野郎だ。捕まったらただでは済むまい。
マックスと少年は男の追跡から逃れようと、全力で走った。捕まりたくない思いではなく、連れて帰らなければという思いがマックスを獣のように駆り立てた。しかし、人気の少ない私道を走っている為か、男を撒くことは中々できなかった。
くそ!どこまで追いかけてくるんだ。
男の必死の追跡に、苛立ちを覚え始めた頃、マックスはしんどそうに走る少年を見て『待てよ』と思った。
男の目的はいなくなった娘を見つけることだ。今俺が連れているのはクラリスではなくレイなのだから、俺たちはあの男の標的にはならない筈じゃないか?
男はマックスたちの五十メートル後方を走っている。一度立ち止まって相手の反応を窺うくらいの時間的余裕はある。
試してみるか?
息せき切りながら、マックスは自分の考えを少年に伝え、意見を求めた。期待に反して彼の反応は薄かった。
「多分、意味がないよ」
「どうしてだ?今のお前の姿はレイなんだぞ。お前の顔を見れば、あのおっさんだって諦めるに決まってる」
「いや、あの人には僕がレイに見えてない。あの人の中では僕は永遠にクラリスなんだ」
マックスには少年が何を言っているのか解らなかった。突然少年から外国語で話しかけられたような心持がして、すぐに聞き返そうとしたが、前方にT字路が見えてきたので、一旦どちらに曲がるかに注意を向ける。
子どもの頃にアウルの街には頻繁に遊びに行っていたお蔭で、駅までの道のりはおおよそ理解できていた。
駅へと向かうのであれば、ここは右だ。それを分かっていて、マックスは少年を左に誘った。
わざわざ駅から遠ざかる道を選んだのは、駅で張りこんでいるであろうクラリスの家族を避ける為でもあるが、左の道のほうが狭い小道と曲がり角が多いことを知っていたからだ。
マックスの記憶通り、左の道には曲がり角が多かった。
二人は小さな迷路のような道で右折左折を繰り返し、目に入ってきた公園の園内にある滑り台の陰に身を寄せた。
追手を撒いた自信はあった。横並びに十数人は一度に滑れるであろう、大型の滑り台の下から、公園の北側の出入口を覗き込むと、ちょうどクラリスの父親が北側の出入口の前を通り過ぎるのが見えた。
おかしい……。
約五十メートル距離を空けた状態で、十回以上も右左折して公園に着いたにもかかわらず、男が近くまで追ってこられたことをマックスは不審に思った。
男が現れたのは偶然か。それとも……。
安全な場所を求めて、すぐにでも男が走って行った道の反対に向かいたかったが、厭な予感がして公園内に止まった。
マックスの予感は的中した。
男は再び北側の出入口前まで戻ってきた。都合の悪いことに、今度は走っていなかった。
男は歩きながら辺りを忙しなく見渡している。徒歩での捜索ということは、男は少年が自分の近くにいることを知っているのだろう。
ここでじっとしていては、いずれ見つかることなる。それにしても、どうしてこの近くにいると分かったんだ?
危険は承知でマックスは滑り台の陰から顔を出し、男の様子を窺った。辺りは薄暗く、北側の出入口までは三十メートルほど距離もある為、男の姿ははっきりとは捉えられない。しかし、男が時折手に持った手の平サイズの物体に目を向けているのは暗くても捉えることはできた。
あれだ!
疑問の答えを得て、マックスはすぐさま少年に小声で声をかけた。
「レイ、何かあのおっさんに持たされた物はないか?」
マックスに問われ、少年は自身の首に手を当てる。
「そういえば、お守りだって、このペンダントを渡されていたんだ」
これか。
マックスは少年に有無も言わせず、薄ピンク色の丸いペンダントを彼から外すと、辺りを見回し、たまたま南側の出入口付近を通りかかった軽トラックに向かって放り投げた。ペンダントは放物線を描き、運良く走行中のトラックの荷台の上に乗った。更に運が良いことに、荷台には柔らかいものでも敷いてあったのか、ペンダントが荷台の上に落ちても、夜に鳴く虫の音よりも小さい微かな音しかしなかった。
トラックが公園から遠ざかるのに呼応して、男もまた公園から離れて行った。マックスがペンダントを放り投げた時、男は公園内に足を踏み入れていた。あと一歩行動を起こすのが遅れていたら、二人は男に見つかっていただろう。
マックスは安堵の息を吐くと、北側の出入口へと向かおうとした。が、少年が腕を引っ張るので、再び滑り台の陰に身を隠す。
「何かあったのか?」
少年は肩をすくめた。
「もう少し休ませて」
マックスはまだまだ体力に余裕があったが、少年の呼吸は少し乱れていて、しんどそうだった。諦めて片膝をつき、滑り台に凭れると、少年が不思議そうに言った。
「どうしてあの人僕たちを見失ったの?」
「発信器だよ。お前に渡していたペンダントの中にでも仕込んでおいたんだろう。だからここまで追ってこられた」
マックスはつまらなさそうに答え、思い出したように少年に訊ねる。
「それより、あのおっさんにはお前がレイに見えないっていうのは、どういう意味なんだ?」
少年は罰が悪そうに俯いた。
「大した話じゃないよ」
何かをごまかすかのような少年の振る舞いが、マックスの不安を殊更に煽った。
彼は嘘を吐いている。確信したマックスは両手で少年の肩を掴んだ。
「お前は何を隠してる。本当のことを言ってくれないか」
少年の双眸をじっと見つめると、彼は諦めたように言った。
「僕の姿を見た人の中には、僕がたとえ別の人に姿を変えたとしても、自分が求める人の姿として、僕を捉えてしまう人がいるんだ。さっきの人も、そういう人たちの一人だよ。僕がクラリスから姿を変えても、あの人の目には僕がクラリスにしか映らないんだ。まるでクラリスというフィルターがついているかのようにね」
「でも俺はさっきまでお前がクラリスとして見えていて、今はレイに見える。変化に気付く人間と気付かない人間って、何が違うんだ?」
答えたくないのだろう。少年はマックスから目を逸らした。
彼に聞かずとも答えは何となく解っていた。しかし、マックスは少年の口から聞きたかった。
「どうしても知りたいの?」
遠慮勝ちに訊ねる少年に、マックスは力強く頷いて見せる。
「あぁ、教えてくれ」
少年は不安そうにマックスを一瞥した後、そっぽを向いたまま答えた。
「その人が他の何よりも失った人のことを求めた時、その人には僕の姿が定まって見えるみたいだ」
予想通りの答えだったので、マックスは驚きはしなかった。
両親とは違い、俺は確かにレイを一番に求めていない。
レイが亡くなってから二ヶ月が過ぎた頃、マックスが学校から家に帰ってきた時のことだ。『ただいま』と玄関を開けてすぐに、亡くなった息子の名前を呼ぶレイチェルの声が聞こえてきた。玄関の扉が閉まるより先に、物音を聞いてレイチェルは寝室から玄関口まで駆けつけた。彼女の腫れあがった目には期待と安堵の色で溢れていた。どうやら玄関が開く音がしただけで、レイチェルはレイが帰ってきたのだと思ったようだ。しかし、実際に帰宅したのはマックスで、レイチェルは彼を見た途端、目に大粒の涙を浮かべて崩れ落ちた。
母親が崩れ落ちる寸前、マックスは彼女と目があった。恨めしそうなその目は彼にこう語っていた。
なんであなたなの?
その日以来、マックスの中ではレイに帰ってきてほしい気持よりも、両親を悲しませたくない気持のほうが強くなっていた。
帰宅することに恐怖を覚えるようになったマックスは、いつの日か、外出する時は午後六時前には帰宅しないという決まり事を自分の中で作った。弟のレイが外出する時は、いつも午後五時前には帰宅していた。マックスが午後六時以降に帰宅するようになったのは、両親が喧嘩する姿を見たくないというのもあるが、二度と両親にレイが帰宅したと誤解されないようにする為でもあった。
マックスは両親を悲しませないことを一番の優先事項としていた。
失った人を一番に求めていなければ、少年の姿は固定されない。マックスはレイとの暮らしを一番に求めていなかった。故に、少年の姿の変化に気付くことができるのだろう。
謎が解けると、マックスは自分を責めた。
俺はなんて薄情な兄なんだ。
レイは家族の幸せを一番に優先していた。もしレイとマックスの立場が逆であれば、彼は何よりも家族との暮らしを求めたに違いない。
自分を情けなく思ってマックスは少年から手を放した。自分には彼に触れる資格が無いと思ったのだ。しかし、すぐに少年がマックスの手を掴んだ。それも芝居がかった所作ではなく、自然な振る舞いで。
少年はマックスの手を優しく握り締めると、彼を励ますように言った。
「マックスが何を一番に思っているのかは分からないけど、それと同じくらい弟を求めたからこそ、マックスは僕を見つけられたんだよ」
少年の言葉には温もりがあった。マックスは汚い心を持つ自分が赦されたような気がした。
俺も傍にいて良いんだよ……な。
心の中で少年に礼を言い、彼の手を握り返し、泣きそうになりながらも笑みを浮かべるマックス。少年は照れくさそうに笑い、彼から目を逸らす。
「それに、マックスは僕を……」
話はそこで途切れた。少年が何か言いかけた時、近くで銃声がした。
何事かと辺りを見回し、南側の出入口付近に、こちらに向かって銃口を向けているクラリスの父親がいることに気付く。どうやらトラックに仕込んだ囮はすぐに看破されたようだ。
「見つけたぞ、クソ野郎!」
男は怒鳴りながらもう一度発砲した。放たれた銃弾は咄嗟に身を伏せたマックスの頭上を掠め、地に落ちた薬莢は『からん』と高い音を奏で、一時的に夏虫の合唱に加わる。
幸い、マックスと少年にけがはなかった。伏せるのがあと少し遅ければ、危うく夏虫の歌が鎮魂歌になるところだった。
二回目の銃声の直後、マックスは少年を連れて、振り返ることなく北側の出入口へと走った。公園を出ると、左右に道が別れている。マックスは迷わず左の道を選ぶ。土地勘があるのはこの公園までだったが、銃声を聞いて、クラリスの家族が駆けつけてくるかもしれない不安が、マックスにアウル駅から遠ざかる左の道を選ばせた。
前とは違い、男の気配はすぐ後ろから感じられた。少年を連れている以上、男を走って振りきるのは不可能に思われた。
このままだと殺される。
背後では男が威嚇の発砲を繰り返している。少年への被弾を防ぐ為か、銃口は今のところ宙に向けられている。しかし、マックスに娘を攫われたと思っている男が、彼へと発砲するのは時間の問題だ。
「止まれ!今止まれば命だけは奪わないでやる!」
男の殺意は依然、マックスを狙って放さない。男が嘘を吐いているのは明白だった。
マックスは男の言葉には耳を貸さず、走りながらひたすら祈り続けた。
神様、どうか彼を無事家まで届けてください。
再びのT字路。今度は右の道を選ぶ。
祈りは届かなかったのか、角を曲がった先は人気のない長い長い直線だった。
これでは格好の獲物だ。
せめて少年だけでも助けなければと、走る速度を緩め、自分が囮になろうとした時、前方に、黒いワンボックスカーの後部座席に荷物をしまう老人の姿が目に入った。
あれだ!逃げのびるにはもうあれしかない!
老人の元へと駆け寄るなり、マックスは躊躇うことなく彼を突き飛ばした。
「うおっ……」
情けない悲鳴を上げながら、老人が目の前でアスファルトの上に転がっても、マックスの良心は麻痺したかのように痛まなかった。
「さぁ、早く乗れ!」
マックスが運転席から少年を押し込むようにして助手席に座らせる。
「おじいさんは大丈夫なの?」
心配そうに振り返る少年を無視して、運転席に乗り込む。マックスは一秒でも早く車に乗り込まなければ射殺されると思った。だからこそ他人を気遣っている余裕などなかった。しかし、マックスの考えは間違っていたようだ。
老人から車を奪う時、いつでもマックスを撃てたクラリスの父親が何故撃たなかったのか。答えは単純だ。彼は待っていたのだ。マックスが運転席に留まる時を。
「止まれ!止まらなければ撃つぞ!」
男の持つ拳銃の銃口は、真っ直ぐマックスの頭に向けられている。彼は本気だ。こちらの出方次第ではすぐにでも撃ってくるに違いない。
いよいよ逃げも隠れもできなくなったマックスだったが、不思議と恐怖心はなかった。覚悟はできていた。
家族の為なら、どんなことだって……。
マックスは敵を見据えたまま、既に刺さっている車のキーを回し、エンジンをかける。
「しっかり掴まってろよ」
マックスのその言葉で、少年は彼がこれから行おうとしていることを理解する。
「駄目だよマックス。人殺しなんて絶対にしてはいけない」
「お前を連れて帰るには、もうそうするしかないんだ」
「人の命は何よりも大事なものなんだよ!」
ハンドルを握るマックスの腕を力一杯掴み、制止しようとする少年。そんな彼を蔑むような目で睨むマックス。
「俺にとっては、家族の笑顔が一番大事なんだよ!」
レイの死を、お前の所為だと責める父親の顔。何故レイではなくあなたが帰ってくるのと恨めしそうに問う母親の目。脳裏に焼き付いて忘れられないそれらの光景を、少年がいなくなればまた現実で見ることになってしまう。
マックスはもう二度と喧嘩の絶えない日々には戻りたくなかった。もう一度笑顔の溢れる生活を送りたかった。故に、少年の制止を振り払い、怒声を上げながらアクセルを踏んだ。
「どけえええぇぇぇ!」
マックスは男めがけて車を発進させた。正確に言うのであれば、発進させようとした。しかし、車は動かなかった。動かそうとした瞬間、辺りに銃声が響いた。直後、運転席はどす黒い血で染まった。
真っ暗闇だ。
マックスは呆けたように闇を見つめていた。銃声が聞こえてすぐ、目の前が白い光に包まれ、一瞬で光は闇へと変わった。
俺は……死んだのか?
はっきりとしない意識の中、現状を把握しようと周囲に意識を向けると、声が聞こえてきた。声は弟の声だった。何故かか細い弟の声はマックスを呼んでいた。
「……クス。マックス……」
レイの声を聞いて、マックスは慌てて辺りを見回した。
血が点在している道路、腰をさすりながら激している老人、大口を開けて目を丸くしているクラリスの父親。目に映るものが全て横向きに見えた。いつの間にか社外に出ていて、道路の上に仰向けになっていた。
どうして俺は外にいるんだ?
痛む背中に顔を顰めながら、マックスはゆっくりと体を起こし、目に入ってきた光景を凝視する。
マックスの目の前には、先程まで乗っていた筈の老人の車があった。そして、マックスの代わりに銃弾をまともに受けたのだろう。フロントガラスが割れている老人の車の運転席には、腹部から血を流し、瀕死の状態で横になっている少年の姿があった。
「レイ!」
マックスが呼ぶと、少年はがくがくしながらも、懸命に顔を上げて、彼と目を合わせた。
「よかった。無事だったんだね」
役目を果たしたかのように、力なく座席の上に倒れそうになる少年。マックスは彼の元へ、弟を守る兄のように素早く駆け寄ろうとする。が、寸前のところでクラリスの父親に突き飛ばされる。
男は死にかけの少年を前に、銃を路上に放り投げ、力強く彼の体を抱いた。わんわん泣きながら娘の名前を呼び続けた。
しかし、当の少年は男を見ていなかった。虚ろな目は、全身傷だらけになりながらも、路上で片膝を付くマックスに向けられていた。彼は口から赤黒い血を吐きながら、マックスに目で語りかけた。
これでよかったんだ。誰も死ぬ必要なんてないんだ。
マックスは少年の輝く双眸の奥に、確かにレイの面影を見つけ出した。
レイ、お前はそれで幸せなのか?
マックスが訊ねようとした時、少年はにこっと笑い、目を閉じた。その目が再び開かれることはなかった。
近くでは車を盗られかけた老人がマックスと男に悪態を吐いていた。愛する者を射殺した男はひたすら涙を流していた。そんな中、マックスは一人後悔していた。後悔は彼を連れ出したことではない。車を盗もうとしたことでもない。
マックスは少年の最期を弟として迎えさせてしまったことに後悔していた。
彼は何故最期までレイで在り続けたのだろう
答えを求めて空を仰いだ時、ちょうど垂直に降下していく一筋の流れ星が目に入った。暗い宇宙を走るその光はまるで、天の涙のようだった。