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 パアン……パアン……。

 肌寒い空気が流れる夜の街。静寂が支配する人気のない歩道に、不意に銃声が轟き渡る。

 誰が撃っていて、誰を狙っているのか。

 ぼんやりとした意識の中、疑問の答えを求めて辺りを見回す。近くには誰もいない。

 空耳だろうか。そう思いかけた時、再び夜の街に銃声が響いた。

 パアン……パアン……。

 前よりも大きくなった発砲音は、背後から聞こえてきた。

 俺を狙っているのか?

 後方からただならぬ憎悪を含んだ殺意を感じて振り返ると、視線の先に見慣れない男がいた。

 なぜか顔の部分だけが薄い影に覆われている男は、手に持ったピストルの銃口をこちらに真っ直ぐ向けている。

 殺される!

 咄嗟に自身の顔を両腕で庇い目を瞑る。出来うる精一杯の防御で来る衝撃に備えて身構える。しかし、十秒以上経過しても、撃たれることはなかった。

 何事かと恐る恐る目を開けると、つい先ほどまでの光景とは一変、橙色のライトに照らされるスクリーンが目に入ってきた。

 ここは……。

 座席を立ち、スクリーンの横の出入口へと向かう数人の男女を認めて、マックスはようやく映画館で夢を見ていたことに気付いた。

 この日は一学期の修了式だった。学校は午前の内に終わり、マックスはそのまま地元の映画館に寄り道していた。

 この日だけで既に二本の映画を視聴していた。今回の三本目の内容は、冒頭部分で主役と脇役が街で激しい銃撃戦を繰り広げるところまでは記憶にあるのだが、残りは途中で寝てしまって覚えていなかった。だからといってそのことで特別感情が動くことはなかった。最初から時間潰しのつもりで来ているだけなのだ。退屈な映画の内容などどうでもよかった。とはいえ、損した気分は心の中で滞留し、すぐには拭えなかった。

 マックスは下校時、同級生のピーターに『一緒に遊園地に行かないか』と誘われていた。教室で一人でいることを好むマックスに、同じ高校で唯一嫌味などなく純粋に声をかけてくるのがピーターだった。からかってくる同級生や、争い事に無関心の同級生とは違い、マックスもピーターだけは信頼していた。彼といれば下らない映画を見るよりはマシだったかもしれない。しかし、ここ数年マックスは内気になっていた。他人と関わろうという気が全く起きなかった。故に、いつものようにピーターからの誘いは断ったのだ。

 もし彼の誘いを断らなければ、どうなっていたのだろう。

 淡い期待と後悔を抱きながら、マックスは劇場を後にした。

 外は朝から上空を停滞していたどす黒い雲が雨を降らせていた。マックスは折り畳み傘しか持ってきていなかった。面積の狭い折り畳み傘では、どうしても腕と足先には雨がかかってしまう。

 学生服は水分を含むと、カビのような不快な臭いを発した。それでもマックスは焦っていなかった。そもそも帰宅する気が彼には薄かった。家に着いたところで、両親の―この世の終わりを間近に控えたかのような―暗い表情を目にすることになるのだ。

 マックスの両親は、五年前に事故で最愛の息子を失っていた。息子の名前はレイモンド。茶髪で巻き毛の明るく活発な少年だった。

 レイはマックスの三つ歳の離れた弟だった。彼がいなくなってからは家の中では喧嘩が絶えなくなった。喧嘩の発端はいつもレイにあった。お前の所為でレイが死んだとか、今死ねばレイに会えるなど、喧嘩の内容は大体同じだった。同じことで両親は毎日喧嘩していた。マックスは二人の喧嘩をいつも止めたいと思っている。しかし、彼には気持だけで何もすることはできなかった。彼自身もまた、レイを失い苦しんでいた。その苦しみを処理できていないにもかかわらず、他者の手助けをする余裕は彼にはなかったのだ。

 マックスは憂鬱な気持のまま、写真屋の前を通った。ここを通り過ぎればマックスの家までは歩いて五分ほどで到着する。家が近付くにつれて、両親に対する不安や恐怖心が彼の心を絞め上げ始めた。もはや、水気のある冷たい学生服も、カビのような臭いも、マックスは感じなくなっていた。

 やがて、前方に白と橙色のライトが目に入ってきた。二つある光の内、白は向かいの家の玄関前のライト、橙がマックスの住む、ランバート家の玄関前のライトだ。

 マックスは橙色のライトが視界に入ると、元々のろのろと歩いていた速度を更に緩めた。マックスの中には迷いがあった。

 明日から夏休みに入る。折角の休みなので、このまま家には帰らず、更に寄り道しようかと考えた。しかし、ランバート家の玄関前に、小さくうずくまる黒い影を目にし、歩く速度を速めた。初めは影に見えた黒い塊は、近づくにつれて一人の子供の形を成していった。

 玄関前に佇む子どもは、明らかにサイズのあっていない、ぶかぶかの白いセーターの中に顔を埋め、小刻みに震えていた。

 マックスは玄関前に立つと、子どもの頭上に折り畳み傘をかざし、その小さな頭をまじまじと見つめた。うずくまる子どもの顔はシャツの中に隠れていて、確認することはできなかったが、頭部は白と橙の光に照らされて、はっきりと捉えることができた。子どもの髪は弟と同じ、茶色で巻き毛だった。

 どことなくこの子はレイに似ているとマックスには思えた。故に、マックスは子どもに『レイ』と声をかけた。

「レイ、こんなところで何をしているんだ?」

 マックスに問われると、子どもはゆっくりと顔を上げて答えた。

「マックス、鍵が開かないんだ。このままだと風邪を引いてしまうよ」

 マックスの目に映った子どもの顔は、レイと瓜二つだった。

 レイにそっくりな少年は、歯をがちがちと鳴らし、困り果てた表情でマックスを見上げる。彼の声、彼の話し方、彼の表情は、五年前に亡くなった弟のそれと寸分の狂いもなく一致していた。

 死んだ筈の人間が体を震わせて助けを求めている。奇妙な現象を前にして、マックスはこれも夢だと判断した。

 あぁ、俺はまだ夢を見ているんだ。本当の俺は今映画館の中にいる。つまらない映画だったからな。途中で寝てしまったのだろう。そうに違いない。

 マックスは目の前で震える子どもを幻だと思った。幻の世界のレイであれば、相手をすることはないとも思った。しかし、気まぐれにマックスは自宅の鍵を取りだし、解錠すると、片手で玄関を開け、もう片方の手で少年の腕をぶかぶかのセーター越しに掴み、彼を家の中に招き入れた。

 父さんと母さんが彼を見たらどんな反応をするだろう。

 珍しくマックスはわくわくしていた。心臓の鼓動は高鳴り、体は熱気を帯び、顔からは笑みがこぼれた。

「さあ、行くぞ」

 玄関口に鍵を置き、少年の腕を引いてリビングルームに入るなり、マックスはソファに腰掛けている両親を呼んだ。

「父さん、母さん。この子は誰だと思う?」

 そう言って、マックスはびしょ濡れの少年を自分の前に立たせる。予想に反して、二人はすぐには口を開かなかった。レイと瓜二つの少年は両腕で自身の体を抱き、面倒臭そうに老いた夫婦へと目を向けていた。しばらく室内には誰も見ていないテレビから流れるバラエティ番組の陽気な司会者の声だけが響いた。

 俺は間違ったことをしたのだろうか。

 マックスが自身の行動を後悔し始めた頃、父親のランバートがゆっくりと目を見開いた。

「レイ……。レイではないか!」

 ランバートはつと腰を上げると、少年がびしょ濡れでいることを気にもせずに、彼を力一杯抱き締めた。

「レイ。あぁ、レイ。ずっと会いたかった。ずっと待っていたんだぞ、レイのことを」

「父さん。そんなことより、暖炉に火を点けてほしいな。寒くて死んでしまいそうだ」

 大粒の涙を浮かべてわんわん泣くランバート。そんな彼を余所目に、少年は迷惑そうな顔で炉を見つめる。

「なんと!体が濡れているではないか。レイ、少しだけ待っていろ。父さんが着替えを取ってくるからな」

 ランバートは普段の緩慢な動きからは想像もつかないくらいの俊敏さで、レイの部屋から、生前彼が着ていた服を取ってきて、それを少年に着させた。

「ありがとう、父さん」

 レイの服に着替えた少年は、暖炉に火を点けるランバートの背中を嬉しそうに見つめ、微笑を浮かべる。

 幸せな夢だ。

 マックスはそう考えながら、バスルームから取ってきた白いタオルで、少年の髪を優しく拭いた。

 少年はマックスと目が合うと、恥ずかしそうに俯いた。生前のレイも、マックスが手を貸してやると同じ反応をしていた。彼はどこから見てもレイだった。しかし、ランバートの妻、レイチェルだけは少年に訝し気な視線を送っていた。

「さあ、レイ。ゆっくりと体を暖めるんだぞ」

 妻の様子を露知らず、ランバートは少年の肩に毛布をかけて、満面の笑みを浮かべた。

 暖炉に点いた黄色い炎は、薪の上でゆらゆらと踊る。まるで家族と再会した一家を祝うかのように。

「ねぇ父さん」

 少年は暖炉に向かって手を伸ばし、遠慮勝ちに訊ねる。

「しばらくここにいてもいいかな?」

 少年の言葉にマックスとランバートは驚きを隠せなかった。二人はなぜ少年がそのような質問をしてくるのか解らなかった。

 レイは家族だ。家族を追い出す人間がどこにいるだろう。

 マックスとランバートは一瞬目を合わせ、同じことを考えた後、ランバートが少年に告げた。

「ずっとここにいていいんだ、レイ。もうどこにも行かないでくれ。どこにも行く必要がないし、またどこかに行ってしまったら、私たちは再び深い悲しみに襲われることになる。レイは私の大切な息子だ。ずっと私の傍にいておくれ」

 返答を聞き、少年はほっとしたようにランバートに礼を述べると、次はマックスへと顔を向けた。振る舞いからして、マックスにも意見を求めているようだった。

「レイ、俺も父さんと考えは同じだ。どこにも行くことない。ここにいてくれ。お前は俺のたった一人の弟だ。この家で一緒に過ごしていこう。昔と変わらずに」

 マックスの言葉を聞き、少年は嬉しそうに頷いた。次に彼の視線は依然ソファでくつろいでいるランバートの妻、レイチェルへと向けられた。

 レイチェルは先程から少年を冷たい―非難するような―目で見ていた。彼女だけは少年と目が合っても、自身の暗い双眸の色を変えようとはしなかった。少年は次第に怯えたような目でレイチェルを見るようになった。

「悪ふざけもいい加減にしてほしいわ」

 レイチェルはそう言って口火を切った。

「この子がレイ?そんな筈がないわ。私はどんなに忙しくても、毎週一回は必ずファルスパークにレイの墓参りに行ってる!酷い悪戯だわ。死者を愚弄するなんて。あぁ、なんてことなの。マックス!早くその子どもをここから出して!」

 金切り声を上げて頭を抱えるレイチェルの考えは間違っていなかった。彼女の言うとおり、レイの魂は数年前に天へと昇って行った。すなわち、常識的に考えて、レイが家族の前に再び現れることはあり得ない。しかし、マックスは目の前の少年をレイだと確信していた。これは自分の夢なのだから、ありえないことも起こるのだと、彼のいる世界を受け入れていた。

「母さん……」

 マックスは少年が気の毒だと思い、レイチェルに事情を説明しようとした。しかし、彼の言葉はランバートの怒りの言葉によって掻き消された。

「レイチェル!なんてことを言うんだ。よく見ろ。この子の髪、この子の顔。この子は紛れもなく私たちの子どもだよ」

「あなたはろくにレイの墓参りに行ってないからそんな馬鹿げたことが言えるのよ」

 レイチェルは吐き捨てるように言った。

「なんだと!私はお前と違って毎週教会に足を運んでいるぞ!今こうしてレイが戻ってきてくれたのも、私が神に祈りを捧げた結果だ!」

「あなたはいつもそう。教会教会教会教会。息子の墓参りよりも教会が大事。そんなんだから慈悲深い神はあなたに紛い物を寄越したんでしょうね」

「いい加減にしないか!」

 ランバートは怒声を上げると、親の仇でも見るかのような鋭い目付きでレイチェルを睨む。今にも飛びかかりそうな勢いがランバートにはあった。

 マックスは慌ててランバートを手で制し、レイチェルを宥めるように言った。

「母さん、この子は間違いなくレイだよ。別に深く考える必要なんてないんだ。なぜならこれは……」

 夢だから。マックスは母親にそう伝えようとしたが、またしても彼の言葉は遮られた。

「やめて!やめてよ!その子がレイな訳ないでしょう!最近はやっと落ち着いてきたっていうのに。なんてことなの」

 レイチェルはヒステリックに叫ぶと、両手で頭を抱え、自身の膝の上に―わざとらしいくらい大袈裟な動きで―突っ伏した。

 ここまで現実に忠実でなくていいのに……。

 マックスは少年を気の毒だと思った。実の母親に存在を否定され、傷つかない子どもはいないだろう。こんな時、兄としてどうしてやることが正しいのか考え、マックスは少年の肩に手を置いた。

 すまない、レイ。ここに連れてくるべきではなかった。

 母親の振る舞いを見ていると、マックスの心の中は後ろめたい気持でいっぱいになった。

 こんな姿の親を見て、きっとレイは悲しい気持になっただろう。

 自責の念に駆られるマックスだったが、彼の予想に反して、少年は母親の言動を気にしていないようだった。

「母さん、喧嘩はやめよう。僕はみんなが喧嘩しているところは見たくないよ」

 少年は暖炉へと手を向けたまま、静かにレイチェルを見つめながらみなに告げた。どことなくこの手の状況に慣れているかのような口ぶりだった。

 少年の落ち着きぶりに、マックスとランバートは我に返った。少年は別段、母親の言葉に取り乱している訳ではなかった。むしろ、取り乱しているのはレイチェルのほうだった。

 レイチェルは少年に話しかけられると、顔を上げ、彼を睨みつけ、彼に怒声を浴びせた。

「母親なんて呼ぶのはやめなさい!私はあなたのことなんか知らないわ!」

 マックスとランバートは緊張した面持で少年へと視線を向けた。

 やはりというべきか、少年は怒鳴られても落ちついていた。穏やかで少し楽しそうな表情さえ浮かべていた。

「僕は母さんに育てられた記憶があるんだけどな」

「なら言ってみなさい。私の旧姓、私の誕生日、私とレイしか知らない二人だけの秘密の一つや二つ、言ってみなさい!」

 レイチェルはそう訊ねれば、少年が返答に窮すると思ったようだ。しかし、少年は彼女にとっては意外なことに、すらすらと言葉を返した。

「母さんの旧姓はコートニー。誕生日は十二月四日。二人の秘密は幾つかあるね。その中でも僕が恥ずかしくないのは、買い物帰りに母さんが道端に落ちている小銭を自分のものにしたこととか、母さんが父さんのお弁当に、床に落ちたサンドイッチをそのまま入れたこととかかな」

 少年の暴露に、ランバートは顔をわずかに顰めたが、レイチェルは彼の答えを聞くと、目の色を変えてランバートとマックスの間に割って入り、彼の小さな体を力強く抱きしめた。

「あぁ、レイ。あなたは私の産んだレイなのね」

「だから先程からそう言ってるではないか。お前が産んでないレイなど存在するものか」

「母さん、痛いよ。大袈裟だなぁ」

 少年のおかげでランバート家には極寒の地で燃ゆる炎を前にした時にも似た、暖かい安らかな空気が流れ始めた。

 レイチェルはしばらく、だらしなく顔を弛緩させて少年の横で彼を抱きしめていた。ランバートは好きな異性を前にした子どものように、そわそわしながら少年の為にココアを作った。

 二人は頻りに少年に話しかけていたが、マックスだけは少し離れた所から彼を見ていた。レイと話したいことはたくさんあった。ただ、両親のレイを求める気持が強すぎて、マックスは少年に近付くに近付けなかった。それでも少年はマックスの気持に気付いているようだった。彼は暖炉へと体を向けつつも、時折振り返っては、目の合ったマックスに微笑みかけていた。

 レイ、またお前に会えてよかったよ。

 マックスの心の中には、先程抱いた少年に対する後ろめたさは既に霧散していた。少年の笑顔にマックスは救われた気がした。

 リビングに置かれたテレビは、いつの間にかニュース番組を映していた。ニュースでは、三年前に行方不明になっていた十七歳の少女が突然、リディスの街に住む家族の元に戻ってきたことが報じられていた。

「今日はめでたい日だ」

 不意にランバートが言った。

「早速宴の準備をしよう。すぐに両親と弟を家に招待する」

「あら、あなた。お父様とお母様はここから近いからまだしも、お兄様は遠いセバノの街にいるのでしょう?今すぐお越しいただくのは迷惑ではないかしら?」

 レイチェルは怪訝な顔で夫へと目を向ける。

「何を言う。私たちのレイが見つかったのだぞ。弟も飛んできてくれるだろう」

「それなら私も両親と姉さんを呼ぶわ。こんな幸せな時間を私たちだけで過ごすのはもったいないもの」

「あぁ、それが良い。祝い事は大人数のほうがより楽しいからな」

 ランバートがテーブルの上に置かれた携帯電話へと手を伸ばすのを見て、マックスは騒がしくなりそうだなと思った。

 家で親戚一同が集まるのは、五年ぶりのことだった。レイを失ってから、両親は祝い事を避けていた。

 ランバートの弟のグレンとは、マックスは中学生になってから一度も会っていなかった。マックスが生きていて一番辛かった時、唯一手を差し伸べてくれたのがグレンだった。

 弟の死の原因は自分にあると考えていたマックスにとって、グレンは大きな支えだった。

 傷心に暮れる両親に、マックスが謂れのない暴言を吐かれたのは一度や二度のことではない。そんな中、グレンだけは彼に力強く言ってくれていた。『マックス、自分を責める必要なんてない』と。

 マックスは常に冷静で聡明なグレンを尊敬していた。久しぶりに彼に会えると思うと、自然と心が躍った。しかし、この家の中で、ただ一人少年だけは浮かない顔をしていた。

「父さん、待って!」

 ランバートが携帯電話を耳に当てた途端、少年は鋭い声で彼を制止した。

「おや、レイ。どうしたんだい?急に大声なんか出して」

 少年の声に困惑して、ランバートは携帯電話をテーブルの上に置いた。

 少年はランバートと目が合うと、後ろめたそうに俯いた。

「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんだ」

 レイチェルは少年の背中をさすりながら『いいのよ気にしなくて』と彼を宥めた。その傍ら、ランバートは少年の肩に手を置き、優しく穏やかな口調で言葉を返した。

「いいんだいいんだ。それよりどうして止めたりなんかしたんだ?レイもおじいちゃんとおばあちゃんに会いたいだろう?」

「会いたいよ。でも今は嫌なんだ。ずっと雨の中を走ってきたから疲れているんだ。だから、今日は四人だけでゆっくり過ごしたい。駄目かな?」

 少年は俯き勝ちで怯えたような視線をランバート、レイチェル、マックスの順にゆっくりと移していった。レイチェルはすぐに少年に同意を示した。ランバートも張り合うかのように彼女の後に続いた。残るマックスは暫し逡巡してから少年に答えを返した。

 マックスとしてはグレンとの邂逅を望む気持もまた、レイとの幸せな時間を求める気持と同じくらい強かった。そのグレンとすぐに会えないと思うと、マックスの高揚は少しばかり冷めた。しかし、彼自身もこの日は放課後、地元の映画館の館内を明確な目的もなく放浪し続けていたので、疲れていない訳ではなかった。

「あぁ、俺も今日ではなくても構わないよ」

 三人の同意を得られると、少年は玩具を与えられた幼子のように満面の笑みを浮かべてはしゃいだ。彼の笑顔を見ているだけで、マックスは罪を赦されたような心持がした。

 お前は俺を責めないんだな……。

 ふと、マックスは隣に座る両親へと目を向けた。二人は眠そうな顔で少年の横顔を見つめていた。なんとなくマックスには両親も自分と同じことを考えているように思えた。

 それから四人は幸福な時間を過ごした。

 夕飯はレイチェルが作った、デミグラスソースのかかったハンバーグ(レイは母親の作ったこのハンバーグが大好きだ)を四人で仲良く食べた。少年は昔のレイと同じように、口周りをソースで汚して三人の笑いを誘った。食後にはトランプの大富豪で盛り上がった。トランプの戦績は.少年がダントツに一位である大富豪が多かった。彼は一位から最下位に転落しようとも、次の回では再び大富豪の地位へと上り詰めた。両親はそのことを頻りに称賛した。得意気な笑みを浮かべる彼も、満更ではないようだった。もっとも、周りが少年に有利に運ぶよう、加減しての結果なのだが、少年が気付いている様子はなかった。マックスはそんな彼を見て、相変わらず子どものままだなと思った。

 およそ二時間に及ぶ連戦が一区切りついた頃、少年は風呂に入りたがった。レイチェルはすかさず少年に『一緒に入ろうか』と彼を誘った。少年が気にせず母親とバスルームに向かうのを見て、マックスは彼を冷やかした。

「おいおいレイ。お前はその歳になってまだ親と風呂に入るのか?」

 レイが歳を取っていないにしても、彼は既に八歳だ。

 レイチェルはマックスの冷やかしに一瞬むっとしたが、少年は焦りを顔に露呈させ、慌てて彼に言葉を返した。

「そんな訳ないだろ、マックス。一人で入るさ!」

 マックスは予想通りの反応が見られてにやりとした。

 少年が一人でバスルームに向かうのを、レイチェルだけは心配そうに目で追っていたが、十分もすれば、彼は体を真っ赤にしてリビングに戻ってきた。

 その後はランバート、レイチェルの順に一人ずつ風呂に入り、最後にマックスが湯船に浸かった。

 喧嘩の絶えない普段の家であれば、たっぷり三十分はバスルームに籠ることもあるが、この日は少年のお陰で幸せな気分だった。その為、マックスは五分程度で入浴を済ませ、急かされるようにしてバスルームを出た。

 今度は何の話をしよう。

 期待を胸に飛び出した先の廊下には、明かりが点いていなかった。そればかりか、リビングの中も闇が支配していた。

 マックスがリビングを出る時、既に少年は眠気を訴えていたので、両親はマックスを残して、少年と三人で一足早く寝室へと向かったようだ。このようなことはレイが生きていた頃にも度々あった。両親にとってマックスは二の次であり、一番は常にレイだった。

 マックスは幼い頃から『お兄さんだから』という理由で我慢を強いられてきた。そのことでマックスが不平を洩らしたことはほとんどない。いつもマックスは両親の気持を優先していた。だからといって、何も感じていない訳ではなかった。

 一人取り残され、寂しい気持を抱いて、リビングに明かりを灯す。誰もいない室内で、コップの中に水を並々注ぐと、ゆっくりとそれを飲み乾した。

 することがなくなってしまった。

 マックスはリビングを後にし、音を立てないよう静かに自室へと向かった。

 蒲団が綺麗にに整えられてある、自室のベッドの上に横になると、部屋の明かりが点いているのにもかかわらず、睡魔が襲ってきた。それはいつもの、精神的な疲労から来るものではなく、幸福で温もりのある眠気だった。今ここで眠りに落ちれば、天にも昇る気分を味わえるだろう。そう思ったが、すぐに眠る気はなかった。

 夢の中で眠りに落ちれば、夢から覚めてしまう気がした。マックスは今夢の中に存在する、平穏な暮らしを失うのが怖かった。

 そろそろ終わりが近付いてきているのだろうか。

 意味もなく天井をぼうっと見つめていると、自室の扉が薄く開いた。誰だろうと、半分閉じかかった双眸をドアに向けると、パジャマ姿の少年が目に入った。

「マックス、入ってもいい?」

 小声で遠慮勝ちに訊ねてきた少年を、マックスは快く招き入れた。

 少年はマックスの部屋の扉を閉めるなり、真っ先にマックスの蒲団の中へと身を滑らせる。

 レイの部屋は毎週一度はレイチェルが掃除をしている。その際律儀にも彼の蒲団も洗っているので、寝るだけならわざわざマックスの部屋に来る必要はない。

 それでもこの部屋に来たということは、何か理由でもあるのだろうか。

 マックスは少年が電灯を眩しそうにしていることに気付き、明かりのスイッチへと手を伸ばす。

 カチッという、何かが割れたような音がした後、電灯の光は弱まり、室内は薄暗くなった。部屋を真っ暗にしなかったのは、レイが暗闇とお化けを怖がっていたことを思い出してのことだった。

「なぁレイ。どうしてこの部屋に来た?父さんと母さんと一緒じゃなかったのか?」

「うん、一緒だったよ。でも、父さんも母さんも、僕の手を強く握ってくるんだ。だからすごく痛くて全然寝れなかったよ」

 少年は寝心地が悪いのか、何度も頭の向きを変える。見かねてマックスは自分が使っている白い枕を彼に差し出した。

 枕の上に頭を乗せると、少年の動きは落ち着きを見せ始め、薄目を開けたまま、彼は満足そうに笑みを浮かべた。

「それは災難だったな。でも、手を強く握られていたんだろ?お前どうやって寝室から抜け出してきたんだ?」

 両親はレイを失ってから彼の帰りをずっと待っていた。その二人が簡単に少年を手放すとはマックスには思えなかった。しかし、マックスにとっての難題は、少年にとってはさしたる障害ではなかったようだ。

「歌を歌ったんだ。そうしたら二人は手を離してくれたよ」

「それにしたって、抜け出す時に止められたりしなかったのか?」

「一生懸命に歌ったからね。父さんも母さんも朝までぐっすりの筈だよ」

 歌うだけであの二人の束縛から逃れられるものなのか。マックスにはいまいち理解できなかったが、少年は現にこの場にいるので、彼の言う通りなのだろう。

「父さんと母さんを安心させる歌か。今度俺にも教えてくれよ。なぁ、レイ」

 マックスが声をかけても、少年から返事はなかった。彼はいつの間にか目を閉じて、静かな寝息を立てていた。

 枕元に置いてある目覚まし時計を見ると、午後十一時を過ぎていた。レイはいつも九時頃に就寝していた。故に、少年が話の途中で寝てしまうのも無理はないのかもしれない。

 レイ、お前は昔から俺たちの光だよ。

 この辺りの地方は夏でも日が暮れると、初冬の昼間ほどに冷え込む。マックスは少年の肩まで蒲団をかけてやると、彼の横で微笑を浮かべた。

 それにしても……。

 長い夢だなと、マックスはすやすや眠る少年を見つめる。

 そういえば。

 不意にまだ直接彼に触れていなかったことをマックスは思い出した。

 レイ、久しぶりにお前に会えてよかったよ。

 小さな少年の手に、自身の右手をそっと重ねる。少年の手は固く、温もりがあった。マックスは一瞬、呆けたようにきょとんとした後、驚いて右手を引っ込めた。

 少年の体温と質感は、目の前の光景が現実であることを主張していた。

 俺は夢を見ているのではなかったのか……。

 マックスはこの時になってようやく少年が幻ではないことに気が付いた。

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