氷巫女(4)
地下水道を、進んできた道筋を逆になぞるように歩いて二〇分。レイジに負担が掛からないように少し速度を落とした行程で、俺は集団の最後尾から先頭を行くフィルニアさんに声を掛ける。
「フィルニアさん、そろそろ先頭を代わりましょうか」
俺の提案に、フィルニアさんは周囲に気を配りながらも笑顔で振り向いた。
「ありがとぉ。それじゃぁ、先をお願いするねぇ」
歩きながら、俺はフィルニアさんと位置を入れ替わる。例え一度移動してきた道を引き返すだけだとしても、先頭を歩いて前方の広範囲に警戒し続けるのはどうしても精神的な負担になる。いくらフィルニアさんが実力者でも、その役割を最初から最後まで押し付けるわけにはいかない。
シャドウの気配が無いか注意を払いつつ、俺は背後に問い掛ける。
「レイジ、体調はどうなんだ?」
「サリーシャの言っていた通り、流れ出た血が戻ったわけじゃない。その分のふらつきはあるが、それ以外は術のお陰で概ね良好だ」
「そりゃ何より。ルイスとサリーシャにはしっかり感謝しろよ? 二人がいなかったら死んでたぞお前」
正直、これは本音だった。
強力な治癒魔術を使える人物が同行していないこの状況下で、どう急いでも地上に出るまで数十分を要する地下水道で左腕切断という重傷を負った。これだけを聞けば、残念ながら生還率は絶望的だ。サリーシャを取り返したルイスという、ある種のイレギュラーが存在しなければ終わりだった事は間違いない。
「……にしても、まるっきりレイジらしくない選択肢っつぅか。今後は俺にダメ出し出来ないだろ、お前」
俺の苦言に、レイジは小さく溜め息を吐いて「まぁな」と呟いた。
「あの状況下、『蠍』にカミコロシ・戯を当てるには、一瞬でも奴の動きを止めるだけの意表をつく何かが必要だった。……まぁ、その方法自体が稚拙だったのは確かだ。その辺の思考回路をどこかの馬鹿に影響されたのかも知れないな」
「おい、誰が何だって? 俺だって腕を切断された事なんてねぇぞコラ」
「おや、どこかの馬鹿としか言っていないが身に覚えが?」
「よっし。そんな無駄口が叩ける程度の元気があるなら一発殴るくらいは構わないよな」
いつものようなやり取りが出来る事に対して内心で安堵した俺は、流石に実際に殴る事はせず道中の警戒に専念する。成人男性が二人並んで少し余裕が出来る程度の通路を進み、ふと通路の左側に体を寄せてから俺は抱いた疑念を呟いた。
「妙だな。帰り道になった途端、シャドウの気配を感じ取れなくなった」
それは俺以外も同じだったようで、レイジとフィルニアさんも頷いて同意を示す。ルイスだけは気配を感じ取る事が出来ないので、俺たちの反応を見てから目を閉じて魔力察知に集中する。
「……ん、シャドウの匂い、しない。……あれ?」
不意に首を傾げたルイスは、改めて集中するように押し黙った。そして、再び目を開けるとやはり首を傾げる。
「……来る時に言った、強い魔力……も、消えてる? じゃ、なくて……同じ場所に、同じ魔力はあるけど、弱くなってる」
来る時に言った強い魔力──つまり、シャドウと同質だが、より強く大きいと言っていた魔力。それが、明らかに弱くなっているらしい。正直、かなり気になる……が。
「……レイジ。どうする?」
「様子を見る程度なら問題ない。ただし、戦闘になった場合はアテにするなよ」
「するかよ馬鹿」
万が一に備え、断鉄を抜いた状態で先へと進む。『蠍』を目指して左に曲がった分岐路まで戻ってきたが、やはり一度もシャドウに出くわす事は無かった。
そのまま、直進──さっきは進まなかった、右側の通路へ。ここからは未踏の領域なので、改めて神経を研ぎ澄ます。が、やはりシャドウの気配は露ほども感じられない。その中で僅かに感じ取れるこの気配が、今から正体を確認しようとしている存在なのだろう、とは思うけれど。
「……悪いレイジ、少し急ぐ。キツかったら後から追い付いてくれ」
「あぁ、分かった」
レイジに断りを入れて、俺は通路を駆け出した。何故なら、感じ取った気配の感触に心当たりがあるからだ。
と言っても、その正体に、ではない。気配の弱まり方に覚えがあった。この、気配が少しずつ薄れ、消えようとしている感覚──死にゆく者のそれだ。辿り着くまでにあまり時間を掛けてしまうと、魔物や変異種の場合は肉体が消滅を始めて原型が分からなくなってしまう可能性がある。レイジもそれを理解したからこそ、俺の先行をあっさり認めたんだろう。
気配を頼りに、曲がり角では時に壁を蹴ってでも極力減速する事を避けて前へと進む。そうして地下水道の中を駆け抜ける事、およそ三分。
「っ。これ、は……」
その場所は、『蠍』が陣取っていたのと同じ保管庫の一つだった。ただ、空間はこちらの方が広く、二〇メートル四方はありそうだ。
その中央に、何かが跪いていた。
恐らくだが、二足直立状態なら体高は二メートル半ば程度。シャドウと同じように全身が黒い影で構成され、背面から鋭利な角度の蝙蝠のような翼を生やしたそれを、見た目のまま形容するなら──。
「悪魔、みたいだな」
角や尻尾は生えていないが、全体的なイメージは書物に描かれるそれに似ている。正直、その見た目からどんな攻撃パターンがあるのか、というのを推測するのは難しい。
「……けれど」
カラ……という微かな音につられ、俺は周囲へと視線を移す。
壁や床に刻まれた、何本もの爪痕。槍を突き込んだように穿たれた穴。そこから細かい瓦礫がパラパラと崩れ落ちる様子が、刻まれた傷が真新しい事を物語る。ここで何かが起こったのは、一時間も経たない──恐らく、俺たちが『蠍』と対峙していたのと、ほぼ同じ頃だろう。
「……リュウト、これは?」
「あぁ」
その状況を眺めている間に追い付いてきたレイジたちが、俺と同じようにその場の光景に足を止める。そこで改めて保管室の中央に存在するそれを見て、俺は溜め息を吐き呟いた。
「誰がやったんだろうな、これを」
そう、壁や床に刻まれた様々な傷よりも。最も気になる事と言えば。その跪く悪魔のような何かが既に微動だにせず。
右腕が手首から少し上で切り落とされ、左肩から心臓に向けて大きく切り裂かれ、喉元にも横一文字の裂傷があり、体の端々から崩壊が始まっている事だった。
「ここに辿り着くまでの間、俺たち以外に目立った気配は感じなかった……にも関わらず、これだ。『蠍』との戦闘に意識を割かれている間はともかく、移動中は寧ろ周囲の気配を気に掛けていた筈なんだけれどな」
これだけの戦闘行為の後、俺たちに気配を感じ取らせずに退却可能な存在……最悪、この地下水道に別の変異種が徘徊している可能性まで考えようとした時、フィルニアさんがゆっくりと口を開いた。
「──あぁ、そっかぁ。一切触れなかったからどっちかなぁ、とは思ってたけどぉ。やっぱり、完全に気付いてなかったんだねぇ」
「……え?」
その言葉が何を指しているのか分からず疑問符を返した俺に、フィルニアさんは諭すような口調で俺にある事を確認する。
「リュウトくん、ここまでの帰り道でぇ、何か不思議に思う事は無かったかなぁ?」
帰り道で……? 特に不穏な気配を感じ取ったりはしなかった。レイジも何か警戒を促したりはしなかったので、これは間違いない。
なら、何かあるとしたらそれ以外。そう考えた俺は、ここに来るまでの一連の行動を思い出してみる。『蠍』との戦闘を終えて、来た道をそのまま辿り、途中でフィルニアさんと先頭を代わり──。
「……待てよ」
もし、それがほんの些細な違和感だったとしたら。その後、少し歩いた所で。
「どうして俺は──通路の左側に体を寄せたんだ?」
そう。成人男性が二人並んで少し余裕が出来る程度の幅がある通路。曲がり角も遠い直線、すれ違う何者もいないあの状況で、どうして俺はわざわざ左に避けたのか。今改めてその行動の理由を尋ねられたら、しっかりと説明出来ないそれだけが、違和感として数えられるたった一つだ。
「あの時……気配を一切感じない何かが俺の横を通り過ぎた、のか? それで、無意識に道を譲った……?」
強いてその理由をこじつけるなら、そうなる。言っておいて、そう簡単に自分に信じ込ませる事も難しい内容ではあるけど。
しかし、そんなある種の暴論に、フィルニアさんはコクリと頷いた。
「そうだねぇ。だとしたらぁ、それは一体誰かなぁ?」
「誰、って……」
誰。そう呼ぶという事は、通り過ぎた何かは──人だ。
この地下水道に入る用事があり、この悪魔のような何かを恐らく単独で討伐し、俺やレイジに気配を、いやその姿すら認識を怠る程に自らの存在を希薄に出来る人物。
「……ルイスは、何か感じ取ったか? 魔力は?」
「ううん……何も、感じなかった、よ?」
ルイスの魔力感知すら反応しない。それなのに、フィルニアさんだけがその存在に気付き、そして見逃したという事実──それが全て当てはまるのは。
「……そんなの、一人しかいない」
この地下水道に出向く用事があり。卓越した単独戦闘能力を誇り。気配も魔力も押し殺す──竜鱗城でフィルニアさんがやってのけたのと同じような──技術を持ち。そして、フィルニアさんがあえて素通りさせる、止める理由を持たない人物は。
「──『百足』なんですね、これをやったのは」




