最悪の依頼(4)
フィリンダ北東、森の中の小さな泉。
切り抜かれたような木立の隙間から射し込む日の光に、俺は少しだけ目を細めた。地面を見れば、そこにはやはり森の奥へ続いていく真新しい踏み均した跡がある。
耳を澄ましてみるが、何かが草を踏み分けて進む音はしない。鹿や鳥の鳴き声さえも遥かに遠い。囁き声も森の隅まで届いてしまいそうな静寂が続く中で、俺は短く息を吐いた。
腰に差していた鈍鉄を静かに抜いて、右手に持ったままで森の奥へ歩き出す。この森の樹は幹が太く、身を隠すにはそこまでの不自由は無い。だが逆に言えば、見通しも良くないのだ。どの瞬間に何が起こっても対処出来るよう、準備は怠ってはいけない。
──成る程。昼間でこの状態なら、昨日レイジに言われた事は間違いじゃないな。
*
「森の工場、か。確かに、操業を停止した後は誰も立ち入っていない場所だ。身を隠すには適してる」
俺の結論に納得したように頷くレイジ。
なので、俺はこれから何をするつもりかも伝えてしまう事にした。
「場所は分かったんだ。俺はこのまま人質の救出に向かう」
「まぁ、待て。丁度紅茶を淹れた所だ、寄っていけ」
冷静と言うよりはノンビリとした態度を取るレイジに、俺は苛立ちながら背を向けた。
「そんな暇は無い」
「リュウト、お前はいつもそうだ。他の依頼はともかく、殊人助けとなると焦りが目立つ癖がある」
レイジが食器を弄っているのか、背後でガチャリと音が鳴る。
「何かが起こってからじゃ遅いんだよ。一刻も早く助ける事の何が悪いって言うんだ」
「早く助けようとしているなら、俺もとやかく言うつもりは無いけどな。お前のそれは、救えない可能性への恐怖心だ。そんなモンに取り憑かれているままに行くのは感心出来ないな」
「……っ! なら、誘拐されたままのアリスを放っておけって言うのか、お前は!!」
振り返って怒鳴った俺の耳に、ダンッ!という重く響く音が届いた。直後、部屋の中央のテーブル付近にいた筈のレイジの頭だけが視界の下端に映り、俺の鳩尾に何か硬く冷たい物が押し付けられた。
「──お前が救われる為に他人を救おうとするな。リュウト、お前は過去に囚われる為にグランサスに行って来たのか?」
冷たく鋭い視線で俺の顔を見上げるレイジの手には、氷のような蒼い輝きを含んだ銀色の拳銃が握られている。さっき食器の音だと思っていたのは、この拳銃を握った音だったわけだ。
「……そこまでして止めるだけの理由があるって事か」
「そういう事だ。落ち着いたようで何より」
「落ち着いたってより、肝が冷えたって」
俺の腹から銃口を放し、手の中で銃をクルクルと回しながらレイジはニヤリと笑った。
「心配するな、装填してあるのは非殺傷のスタン弾だ。暫く腹に食い物を入れる気が無くなるだけさ」
「それを撃っても大丈夫とか思ってんのが逆に怖ぇっつうんだよ」
大人しく部屋に上がり込んだ俺に、レイジは今度こそ淹れたての紅茶を差し出してきた。とりあえず一口飲み込んでから、俺は本題を聞き出す。
「で? 今から助けに行く事の問題点は?」
「まぁ、先ずはお前が冷静ではなかった事だな。それが解決された今でも、問題は数多く存在しているわけだが」
優雅な動作で紅茶を口に含んで、香りを楽しむように目を閉じるレイジを「本格派を装いやがって」という感情を込めて睨んでみたが、一切意に介さずにレイジは続けて問題点を挙げ始めた。
「リュウト。あの森、昼間でさえ日光が遮られて薄暗いんだぞ? 夜の最中、完全な闇が支配するあの場所をどうやって歩くつもりだったんだ? まさか、誘拐犯に気付かれるのを承知で懐中電灯を点けて行くつもりだったとは言わないよな?」
「月と星の光が、俺が進むべき道を照らしてくれるのさ」
「そうか、是非とも路頭に迷うがいい」
特にその辺の事は考えていなかったので、適当にロマンチックなボケをかましてみたらバッサリ切られた。切り方が素晴らしくて痛みさえ感じない。次の一手を考えるのも面倒なので、紅茶でも啜っておく。
「いいかリュウト、夜は見通しが悪い。だから隠密行動に適しているなんて思われがちだが、それは勘違いだ。夜は目が利かなくなる分、他の感覚が研ぎ澄まされる。暗闇が不安を誘って警戒心も増す。そうなれば、普段は聞き逃してしまうような些細な物音にも気付くようになるんだ。お前、あの草群を音を立てずに掻き分けていく技術でもあるのか?」
「無いな」
「だろう? なら今から行くのは無謀だ。そもそも、身を隠している分際で夜襲を警戒しない馬鹿がいるとも思えないしな。むしろ、警戒心の緩む昼間の方が敵の虚を突けるんじゃないかと思うんだが」
*
──と提案され、事実こうして昼間にやって来たわけだが。
大樹の陰から顔だけを出して森の奥を観察しながら、俺は色々と思考を巡らせてみる。
足元を見れば、確かに草が踏み倒された跡が奥へ奥へと続いている。
ここを何者かが通ったのは間違いない。が、泉から森の奥へ足を踏み入れて二〇〇メートルは進んだが、一向に人の気配を感じ取る事が出来ていない。ただの獣道ってオチじゃないだろうな。だとしたら、とんでもなく時間の無駄遣いになっちまうぞ。
それだけは勘弁して欲しいな、と切に願いながら俺は草を踏み分ける。やがて、森の自然には不釣り合いなコンクリートの塀が見えてくる。所々が風化して崩れたそれは、間違い無く目的地である廃工場の一部だ。
立ち止まって耳を澄ましてみるが、やはり周辺で何かが移動するような音は聞こえない。木々の隙間を通り抜ける風が草を撫でるだけだ。まぁ、逆に異常ではあるか。レイジの情報通り、この近辺に野性動物も近寄って来ないって事だし。
警戒心を一段階上に切り替えて、俺は廃工場の内外を隔てる大きな門扉に近付いていく。
「──あれは?」
完全に封鎖されている筈の門扉が、人が通り抜けられる程度に開いている。よく見れば、左右の扉を繋いでいた太い鎖が千切れていた。
「切断面が綺麗だ。自然に壊れたって話ではなさそうだな」
鎖を持ち上げて観察すると、表面は元の色が判別出来ない程に錆び付いている。しかし、切断面は光沢さえ残す銀色。錆が侵食している様子は無い。
つまりこの鎖はつい最近、人為的に切断されたという事になる。
「とりあえず、何者かがここにいる事は確かになったな。言い方は妙だが一安心、か」
呟いて、俺は門扉の隙間から廃工場の敷地へ体を滑り込ませた。見回してみると、俺の正面に三階建ての社屋があり、その右手に材木加工をしていた平屋建ての大きな作業場がある。
人質を監禁するなら、監視をしやすく逃げ道も少ない場所の方が良い筈だ。となると、大きな工業機械があって見通しが悪い作業場じゃなく、社屋の方に監禁場所を選ぶ可能性が高いな。まずはこっちを探してみるか。
社屋への入り口となるガラス張りの扉に近付いて、試しに音がしないようゆっくりと持ち手を掴んで引いてみる。すぐに硬い手応えがあったので今度は押してみるが、やはり同じ感触が伝わってくる。どうやら鍵が掛かっているらしい。
選択肢を間違えたかと思ったが、鍵の右側の位置だけガラスが割れている。そこから手を差し込んで、内側の鍵を捻って扉を開ける事が出来た。極力静かに扉を閉めてから、足元を確認してみる。割れたガラスの破片は全て社屋の中側へ散らばっている。やはり、誰かがこの社屋に侵入する為にガラスを割り、中に入ってから改めて鍵を閉めた、という事か?
わざわざ鍵を閉めてあったのは、人質が逃げようとした時に鍵を開ける手間を増やす為か? それとも、俺みたいな救出側の人間が来た時に、物音を立てる可能性を増やして侵入に気付きやすくする為か。
ガラスが割れていたが、鍵は閉まったまま。普通なら、ガラスは偶然割れただけ。やはりこの場所には誰もいないと考えるのが自然だろう。だが、俺の頭には既にその可能性は存在していない。理由は、この社屋に入った瞬間から感じている気配。
「嫌な感じだ。殺気が充満してる」
だが、これは同時に妙な話でもある。
誘拐犯が三階建ての建物全体に殺気を張り巡らすというのは余りにも不可解だ。気配を消して潜むならともかく、逆に存在を主張しているというのはどうも解せない。
──ま、進んでいけば分かる話か。
全ての部屋をチェックしていくが、最終的に目指すのは人質が最も逃げにくい場所──つまり、三階の最奥にある部屋。
床に散らばるガラスを踏まないようにしながら、俺は社屋の探索を開始した。
*
「目標が建物の中に入った。準備を」
床に置きっ放しにしていた携帯型通信端末から、ノイズ混じりの声が届いた。だが、声を受信した男は俯いた顔を上げようともしない。無言のままで全身から力を抜いている。
「おい、聞こえてるのか? お前がどれだけ重要な役割に立っているのか理解して」
「──うるっせぇな。外野が偉そうに騒いでんじゃねぇよ」
気怠そうに呟かれたその言葉に、端末の向こう側の人物──廃工場から五〇〇メートル離れた位置から高倍率の望遠鏡で様子を窺っていた監視役の男は、声を詰まらせた。
「言われなくても知ってるよ、誰かが入って来たのは。面白そうな気配だ、啄むのが惜しまれるな」
昏い笑い声を立ててから、男は傍らに立て掛けていた武器を掴み寄せた。
「しかし、コイツは変わった武器だ。お前等も随分と面白いモノを作ったモンだ」
「……待て」
どこか状況を理解出来ないように、監視役の男は焦りを含んだ早口で尋ねた。
「待て、待てよ。知らない、アンタは一体誰だ!?」
「さて、誰だろうな? 助言してやれるのはこれだけだ──下調べは入念にしとくんだったな」
それだけを吐き捨てて、男は通信機を武器の柄頭で叩き壊した。
*
「さて、どうしようか」
呟いてみたものの、これは何かを思案していたり、迷いが生じたせいで発した言葉ではない。
ざっくりと言ってしまえば、暇潰しだ。
俺の現在位置は、社屋の二階。その中程にある部屋から、先へ続く廊下の奥に視線を走らせている所だ。しかし、こうしていてもやはり誘拐犯には遭遇しない。今の所、無駄に大きな蜘蛛とネズミがエンカウント対象だ。
とは言え、殺気は社屋に入った時より濃くなってる。恐らくは誘拐犯であろう何者かに近付いている事だけは間違いない、か。
しかし、つくづく嫌な感触の殺気だ。まるで腐敗した肉に全身を圧迫されているような不快感。侵食され、自身の肉体も腐り落ちてしまいそうな錯覚に陥りそうになる。
全く、こんな薄気味の悪い殺気、魔物以外に出せる奴がいるのか──。
まぁ、考えても仕方の無い事か。相手が何であろうと、アリスを助ける障害になるなら倒さなきゃならねぇんだし。
意を決して、俺は部屋を出て三階への階段の前に出る。見上げてみると、より一層強い殺気が全身を包む。やはり、この上に殺気の持ち主が居るらしい。
「さて、参ろうか」
呟いて、俺は階段を一歩ずつ上がっていく。踊り場を折り返し、辿り着いた三階の廊下を覗き込むと、その最奥に両開きの大きな扉がある。恐らく、アリスが捕らえられているとすればあの部屋だろう。
──何せ、工場を普通に閉鎖しただけなら、社屋の中の部屋の扉まで鎖と南京錠で封鎖する必要は無いだろうからな。
最奥の部屋の扉には、持ち手の間を通すように鎖が回され、これまた無駄にゴツい南京錠で封がされている。あの部屋が何か曰く付きだと言うなら分からないでもないが、あまりにも厳重過ぎる。どう見ても中の人物が逃げ出さないようにする為の物だろう。となると、どうしようか。素直に鍵を探すか、それともぶっ壊すか。
どちらであろうと、まずはこの殺気の根幹をどうにかしなければ落ち着く事も出来そうにない。これだけ密度が濃くなれば、如何に社屋全体に気配を拡散させていても気配の発信源は探れるだろう。そう思って、俺が意識を集中しようとしたまさにその時。
廊下を少し進んだ先であろう横合いから、腕だけが無造作に突き出された。