左側の空白
今回は、『正しさの致死量』から少しだけ時間が進んだ物語です。
大学生活を始めるため、故郷の鷹崎市を旅立とうとする蒼汰。
出発の朝、駅のホームで楽しそうに話しながら並んで歩く高校生の男女を見かけたことをきっかけに、夏海と付き合い始めた頃のことを思い出します。
告白された日のこと。初めて恋人として並んで歩いた帰り道。そして、夏海が髪型を変えた日のこと。
別れてから一年以上が過ぎても、蒼汰の中では、夏海との破局をどう受け止めればいいのかという問いに、まだ納得のいく答えを出せないままでした。
けれど、人の気持ちとは関係なく季節は巡り、時間も電車も止まってはくれません。
過去に残された心と、未来へ進んでいく時間。その狭間に立つ蒼汰の、短い旅立ちの物語です。
――朝の鷹崎駅は、相変わらず騒がしかった。
改札の向こうから絶え間なく人が流れ込み、ホームには発車を待つ学生や会社員の姿が並んでいる。
地元の友人たちに見送られ、駅の改札口を通り抜けた今井蒼汰は、肩に掛けたリュックサックの位置を直した。
必要なものの大半はすでに東京の住まいへ送ってある。今日持っていくのは財布とスマートフォン、着替えを少し。それから、移動中に読むための本が二冊。
東京行きのホームへ続く階段の手前で、蒼汰は足を止めた。前から制服姿の男女が歩いてきた。見覚えのある制服だった。おそらく、高校の後輩だろう。二人は楽しそうに話しながら並んで歩いていた。
男子の少し左側を歩く女子が笑った。耳の上で左右に小さく結んだ黒髪が揺れた拍子に、蒼汰の足がほんの一瞬だけ止まった。
名前も知らない女子の揺れた髪を見た瞬間、忘れたつもりなど一度もなかった記憶が、ひどく鮮明な色を伴って蘇った。
瑠璃色に染まりかけていた、夏の夕暮れどきの空、。耳の上で左右に束ねた髪を留めている甘橙色の小さな髪飾り。そして、自分の左側で少し照れながら笑っていた、同い年の交際相手。
*
「俺も……たぶん」
「たぶん?」
ほんの一拍置いて、蒼汰は目の前で不安な表情を浮かべて立っている彼女(夏海)を見つめ返した。
「好きだよ」
「嬉しい……」
甘橙色の小さな飾りが、夕暮れの光を小さく弾いた。夏海は張りつめていたものがほどけたように、顔いっぱいに笑った。
その笑顔を見て、蒼汰もようやく息を吐いた。
「急だったから驚いたよ……」
「そこは最初からそう言いなよ」
夏海はそう言って笑うと、一歩前へ踏み出して蒼汰の左手をつかんだ。
触れた夏海の手は、思っていたより少し冷たく感じた。指先が触れた瞬間だけ、夏海の右手がわずかに止まった。それでも夏海は手を離さず、そのまま蒼汰の左側へ並んだ。
「今日から、こっちにする」
「何が?」
「歩く場所よ」
「まあ、別にいいけど……」
夏海は少し照れたように笑った。
「……だって、私たち……もう付き合ってるんでしょ?」
二人のあいだには、もう数センチほどの隙間しかなかった。さっきまで少し先を歩いていた夏海が、今は蒼汰の左側にいる。右手はまだ、蒼汰の左手を軽く握ったままだった。
そして夏海は、空いていた左手を伸ばして、蒼汰の左腕を抱えるように身体を寄せた。
「……おい。近くないか?」
「いいじゃん。彼女なんだから……」
そう言いながらも、夏海は蒼汰とは目を合わせなかった。よく見ると耳まで、わずかに赤くなっている。
けれど、腕を離そうとはしなかった。
蒼汰は一瞬だけ、自分の左腕に伝わる夏海の体温を意識した。手をつないでいるだけなら、まだ少し離れて歩くこともできた。けれど、こうして腕まで抱えられると、その距離はほとんどなくなる。
夏海の髪が肩の近くで揺れるたび、蜂蜜を思わせる淡い香りがふっと届いた。
夏海の指が、蒼汰の手をもう一度握った。蒼汰は一瞬だけ戸惑ったが、今度は自分からその手を握り返した。
――その瞬間、夏海が嬉しそうに蒼汰を見上げた。
蒼汰も何も言わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。
好きだということも。一緒に帰る時間が楽しいということも。明日もまた会いたいと思っていたことも。
それまでは、それぞれが自分の中だけで抱えていたものだと思っていた。
——けれど今は、もうどちらか一人だけのものではなかった。
夕暮れの住宅街を、ふたりで歩き始めた。これまでなら夏海が少し先を歩き、蒼汰がその背中を追っていた。
けれど、その日からは違った。少しだけ速い夏海の歩調に、蒼汰が合わせる。ふたりは同じ速さで、夕暮れの帰り道を歩いていった。
*
付き合い始めて、しばらくした頃。学校帰りの途中で、夏海が蒼汰の家へ遊びに来たことがあった。
「……お邪魔します」
夏海の声は、いつもより少し小さかった。蒼汰も、自分の部屋へ夏海を招き入れるとなると妙に落ち着かなかった。
「ああ……適当に座って」
「……じゃあ、ここで」
夏海は少し迷ってから、ベッドの端へ腰を下ろした。座ったあともすぐには蒼汰を見ず、膝の上で両手を重ねたまま部屋を見回していた。
夏海がベッドへ腰を下ろした瞬間、蒼汰は一度だけそちらを見た。けれどもすぐに、視線の置き場に困って机の椅子を引いた。
「どうしたの?」
「……ああ、何でもない」
「ていうか、物がなさすぎだね……」
「……あるだろ」
「机、パソコン、ベッド、本棚、オーディオ……以上」
「いや、十分だろ……」
——コン、コンッ。
廊下から軽く扉を叩く音がした。
「お兄ちゃん、入っていい?」
「何?」
妹が扉から顔を覗かせた。
「明日の体育に使う、わたしのタオルはどこ?」
「明日使うやつなら、玄関の鞄の横に置いといたから、今のうちに入れとけ。朝になったら忘れるぞ」
「はーい」
夏海が少し可笑しそうに蒼汰を見ていた。
「忘れ物まで気にするんだ」
「弟も妹も、放っとくと朝になってから探し始めるんだよ」
「面倒見いいんだね」
「一番上なんだから、このくらい当たり前だろ」
夏海はもう一度部屋を見回すと、机の近くにあった雑誌を手に取った。
「ねえ?ポニーテール、好きなの?」
雑誌の表紙には、長い髪を後ろでひとつに束ねた女性芸能人が写っていた。
「……まあ、嫌いじゃないけど」
「ふうん……なんか意外。そういうこだわりあるんだ」
「あるだろ……」
「そういうの全然、興味ないのかと思ってた」
夏海はそう言って、自分の耳の上で結んだ黒髪を指先で遊ばせた。
それから、悪戯っぽく目を細める。
「じゃあさ、もし私がポニーテールにしたら、もっと私のこと好きになってくれる?」
「な……何言ってんだよ!」
不意を突かれ、蒼汰の肩が跳ねた。顔が熱くなるのを隠すように夏海に背を向けた。
「あ、照れてる!やっぱ、図星じゃん!」
背後で夏海が楽しそうに笑った。
しばらくして、夏海は何かを考えるように自分の髪へ触れた。その仕草を見て、蒼汰は慌てて付け足した。
「……だ、だからって、髪型変えなくてもいいぞ!」
「なんで?」
「それは……俺が決めることじゃないし……」
夏海は一瞬だけ黙った。
それから、何かを思いついたように笑った。
「じゃあ、私がしたくなったらする」
*
数日後。
「——おはよう、蒼汰」
教室の入り口から聞こえた呼び声に、蒼汰は一瞬だけ反応が遅れた。まだ、その呼ばれ方には少し慣れていなかった。
蒼汰が振り返ると、夏海がその場で軽く半回転した。耳の上で左右に結っていた黒髪は、後ろでひとつにまとめられていた。
甘橙色の小さな髪飾りとともに、長いポニーテールが少し遅れて背中を追いかけるように揺れた。
「ねえ蒼汰。これ、どうかな?」
「……何が?」
「髪!見れば分かるでしょ!」
蒼汰は改めて夏海を見る。昨日までとくらべると、ほんの少しだけ、大人びたようにも見えた。
「似合ってる……」
夏海の表情が、すぐに明るくなった。
「ホント?嬉しい!」
「っていうか、なんで髪型変えたの?」
「蒼汰がポニーテール好きって言ってたから、私もやってみたくなっただけだよ」
夏海は後ろ髪へ手を伸ばした。指先で自分の髪を確かめるように触れてから、小さく笑った。
「……これ。やってみたら、結構好きかも」
「夏海が納得してるならいいけどさあ……」
「だって、蒼汰が決めることじゃないんでしょ?」
「まあ……そうだけど」
「なら、いいじゃん。決まりだね」
夏海はもう一度、その場でくるりと回った。甘い香りがふわりと舞い上がり、ポニーテールが背中で楽しそうに揺れた。
蒼汰はその姿を見ながら、何となく思った。
これからも夏海と、何でもないことで笑ったり、くだらないことを言い合ったりしながら、ふたりで楽しく過ごしていきたい。
こういう日常が、当たり前のように続いていけばいいなと感じていた。
*
『――間もなく七番線に電車が参ります』
ホームに電車の接近を告げるアナウンスが流れた。
蒼汰が我に返ると、さっきの高校生たちの姿は、もうどこにもいなかった。
代わりに線路の向こうから、東京方面へ向かう電車がゆっくりとホームへ入ってくる。蒼汰は、肩に掛けたリュックサックの紐を握り直した。
夏海とは、別れ話をした日から言葉を交わしていない。謝りたいと何度も思ったこともある。もう一度話せればと思ったこともある。けれど、今さら何を言えばいいのかは、卒業の日を迎えても分からなかった。
――しかし、ただ一つだけ。
あの頃、自分の左側にいた夏海が幸せそうに笑っていたことだけは、今でも妙にはっきりと思い出せた。
電車の扉が開いたと同時に、人の流れに押されるように、蒼汰は車内へ足を踏み入れた。急いで窓際の席へ座ると、リュックサックを膝の上に置いた。
蒼汰が何となくその中へ手を入れると、指先に一冊の本が触れた。取り出した表紙には、『黄金郷に輝く紅い月』と書かれていた。
地元出身のロックバンド『紅月の楽団』。メンバーたちの生い立ちから、バンド結成、メジャーデビューへ至るまでの軌跡をまとめた伝記だった。
何気なく栞の挟まっていたページを開くと、一度だけ目に留まった文章があった。そこには、バンドのリーダーであるリョウの言葉として、こう記されていた。
『——オレが思うにはさ、失恋ってのは人を過去という名の鉄の檻に閉じ込める鎖みたいなものだったり、まだ見たこともない黄金郷に向かうための灯火だったりするんじゃないかな?って思ってるんだよね。まあ、どっちが正解なんてのは、オレには分かんない。鎖にしたいならすればいいし、灯火にしたいならそうすればいい——』
蒼汰は、その一文をもう一度読んだ。
鎖。灯火。過去。未来。書かれている言葉の意味そのものは分かる。けれど、それが今の自分に何を言っているのかは、よく分からなかった。
夏海との記憶を、忘れた方がいいのか。後悔し続けるべきなのか。それとも、いつか別の何かへ変えられる日が来るのか。そのどれにも、蒼汰はまだ答えを出せなかった。
『――扉が閉まります。ご注意ください』
アナウンスが流ると同時に扉が閉まり、電車がゆっくりと動きはじめた。
次の瞬間、電車がゆっくりと動き始めた。
蒼汰は文庫本を閉じた。窓の外では、見慣れた駅のホームが少しずつ後ろへ流れていく。
柱。ベンチ。改札へ続く階段。高校へ向かうときに何度も見た景色。それらが一つずつ、何のためらいもなく遠ざかっていった。
見慣れた駅のホームが後ろへ流れ、やがて住宅街も遠ざかっていく。蒼汰は窓の外を見たまま、左手を膝の上で一度だけ握った。
そこに、もう夏海の手がないのは分かっていた。それでも、あの日に感じた指先の温度だけが、不思議なくらい蒼汰の左手に鮮明に残っていた。
答えは、まだ見つからない。忘れたわけでもない。割り切れたわけでもなかった。
けれど、季節は巡り春になって高校生活も終わった。そして今、電車は東京へ向かって走り始めている。
蒼汰が何かを理解するまで、時間が立ち止まってくれるわけではなかった。ただ時間だけが、次の場所へと運んでいく。
蒼汰はもう一度、膝の上に置いていた『黄金郷に輝く紅い月』へ視線を落とした。
夏海との日々が、自分を過去へ縛りつける鎖になるのか。
それとも、いつかまだ見ぬ場所へ進むための灯火になるのか。今はまだ、どちらでもないような気がした。
――ただ、失ったものの形だけが、胸の奥に残っていた。
やがて電車は、さらに速度を上げた。後ろへ流れていく故郷とは反対に、線路だけが真っ直ぐ前へ伸びていた。
蒼汰は、その先に何があるのかを知らない。それでも電車は、彼の答えを待つことなく東京へ向かって走り続けていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回の物語は、『正しさの致死量』の後日談であると同時に、来月から連載予定の『傷は祈りへと変わる』へつながる幕間劇として描きました。
本当のことを言うと、蒼汰と夏海が幸せだった頃のエピソードは、もっと丁寧に描きたいと思っていました。
けれど、『正しさの致死量』を書いていた頃は、ふたりが破局へ向かっていく前の、幸福だった頃の時間を書き重ねていくことが想像以上に辛くなってしまい、途中で心が持たなくなって、考えていた場面のいくつかを描けないまま終わらせていました。
それでも、作品を公開してから、蒼汰と夏海それぞれが抱えていた想いや葛藤に共感してくださる方や、ふたりの関係について自分のことのように考えてくださる方がたくさんいてくださり、その反応にとても励まされました。
だからこそ今回は、描ききれなかったふたりの幸福な時間にも、もう一度きちんと向き合ってみようと思いました。なので、本当にありがとうございました。
誰かを失った記憶は、人を過去へ縛る「鎖」になるのか。それとも、いつか未来へ進むための「灯火」へ変わるのか。この時点の蒼汰には、まだその答えが分かりません。
季節は巡り、時間は進み、答えが出ないままでも人生は次の場所へ運ばれていく。
そんな蒼汰が東京で何を見て、誰と出会い、過去とどう向き合っていくのか。
その続きを、『傷は祈りへと変わる』で描いていきたいと思います。




