「推し」さん
異変に気づいたのは、配属から三週間後だった。
私はいつものように、課内の議論を“観察”していた。
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「その境界条件、暗黙に固定してません?」
「固定してません。むしろ可変にしてるからこうなる」
「いや、その“可変”が恣意的なんですよ」
「恣意的じゃない。物理的要請です」
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(はいはい、いつものやつね)
——と思った、その時。
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「……その議論、ちょっとずれてます」
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第三の声。
それまで黙っていた人が、ぽつりと口を挟んだ。
白衣でもスーツでもない、よくわからない無地のカーディガン。
席は窓際の端。
普段はほとんど喋らない人。
名前は——たしか、秋山さん。
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「ずれてる、って?」
「境界条件じゃなくて、そもそも評価関数が合ってない可能性があります」
「評価関数?」
「今の議論、再現性を最大化する方向で組んでますよね。でも今回の系、むしろ安定性の方が支配的なので」
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静かだった。
声も大きくない。
言葉も派手じゃない。
なのに。
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(なにこれ……めちゃくちゃ通る……)
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「……なるほど、それだと確かに」
「じゃあさっきのズレはそこから来てるのか」
「うん、そう考えると辻褄は合う」
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さっきまで剣を抜いていた二人が、同時に納得した。
空気が、一瞬で変わる。
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(すご……)
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私はその瞬間を、はっきりと“観測”した。
議論の支配権が移る瞬間を。
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昼休み。
私は珍しく、食堂ではなく自席でお弁当を食べていた。
視線の先には、秋山さん。
黙々とパソコンに向かっている。
さっきあれだけ場を制したのに、もう何事もなかったかのように。
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(え、なにあれ……かっこよすぎない?)
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気づいてしまった。
これは単なる観察対象ではない。
推せる。
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午後、私は“業務上の正当な理由”を作って、秋山さんの席に向かった。
「あの、出張申請の件で確認がありまして」
「……あ、はい」
声、小さい。
でもちゃんと聞こえる。
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「この日程なんですけど、前後の実験との兼ね合いで調整必要だったりしますか?」
「……ああ、それは大丈夫です。装置の待ち時間があるので」
「なるほど……(装置の待ち時間……良い単語……)」
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思わずメモを取りそうになるのをこらえる。
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「さっきの議論、すごかったですね」
つい、言ってしまった。
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「……え?」
「評価関数の話で一気に整理されてて」
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一瞬、沈黙。
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「……たまたまです」
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(たまたまじゃないでしょ絶対!!)
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この人、自分の強さを自覚してないタイプだ。
危険である。非常に危険。
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その日の夕方。
また議論が始まる。
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「その仮定、線形性に依存しすぎでは?」
「非線形まで入れると収束しないんですよ」
「収束しないのは解法の問題では?」
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(来た来た……)
私はさりげなく耳を澄ます。
そして——
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「……そこ、近似の順番を変えたらいけるかもしれません」
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出た。
秋山さんの静かな一撃。
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「順番?」
「先に非線形項を潰してから線形化する形にすれば、多分安定します」
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またしても、空気が変わる。
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「……それ試してみます」
「ありがとう、助かる」
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(あああああああ)
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私は心の中で叫んでいた。
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(好き!!!!!!)
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その夜、帰宅してから日報を書く。
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業務内容:
・出張申請処理
・会議室調整
・コピー用紙補充
・推し研究者観察(重要)
所感:
・秋山さんが本日も議論を一撃で収束させた
・“評価関数”という概念にときめいた
・推しは静かに場を支配するタイプと判明
・危険(情緒的に)
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私はペンを置いて、天井を見る。
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これまで私は、“インテリ”という集合を観察していた。
でも今は違う。
特定の一個体に注目している。
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(これ、沼では?)
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スマホを手に取り、「評価関数 わかりやすく」と検索する。
理解したいのだ。
あの人が見ている世界を、ほんの少しでも。
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気づけば、笑っていた。
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ご飯も好きだけど。
やっぱり私は、
推しのインテリが一番好き。




