プロローグ
長引いた核戦争が終わり、ここセレリスでは第二次産業革命が起こった。技術は発達し、人々の生活の質も向上した。セレリスの朝は、恐ろしいほどに透き通り、そして正しい。
街路灯の蓄音機からは、歌聖ルクシアの多重録音された聖歌が、クリスタルの粒子のように鋭く降り注いでいる。
その完璧に透き通った歌声は、路地裏の悲鳴も、機械の軋みも、人々の澱んだ本音も、すべてを等しく濾過し、無色へと変えていった。
下級清掃員のアグノは、ガラス細工のように磨き上げられた石畳の上で、濾過しきれなかった『昨日の真実の澱』を掃き出していく。
彼は、この淀みのない世界を愛していた。
頭上の歌声が、濁った自分の心さえも透明に保ってくれると信じて疑わなかった。
ルクシアは頻繁には公の場に姿を現さず、生で歌も歌わない。ルクシアの歌声も聞くためには、街中に流れている歌声を聞かないといけない。
ただそんな彼女も唯一、『生の声』を披露するのは、彼女は誕生日のときに毎年やっている独唱会のときだけである。それが今日である。
都市中央、巨大な蓄音機を冠する聖歌庁広場『グローリア』をそのルクシアの誕生日の独唱会の準備が進められていた。グローリアはルクシアのファンで埋め尽くされていた。
首から百合の形をしたネックレスを垂らしているルミナスのファンである『ポーセル』は優雅に聖歌を口ずさみ、銀の三日月を掲げるルクシアに対して意義を唱えている連中『ルナール』は時計塔を仰ぎ見て『時代の更新』いわゆる『新生代の誕生』を待っている。
祝祭の刻が訪れ、街中の蓄音機が徐々にフェードアウトしていく。二十四時間四六時中鳴り響いていた『音』が消え、世界が初めて『真の静寂』に包まれた。まるで世界から人が消えたように、一切音がしなくなった。
アグノは最前列で、濾過される前の『生の喉』が発する衝撃を少しばかり緊張しながら待ちわびた。どこか落ち着かな様子だったが落ちつて待った。
数分経ったとき、前のステージが暗くなり、輝くばかりの透明なドレスを繕った17歳と言われているルクシアが登場した。ただ本当の年齢を知っているものはいない。
「私は歌。私は、あなた達が望んだ透明な静寂そのもの。蓄音機の針が回るように、私の心臓はあなた達のために鼓動を刻みます。この一年、街に流れる私の影影を愛してくれてありがとう。今だけは、私の『生の喉』を、あなた達の空っぽな器に注ぎ込みましょう。さあ!今日を良い日に!」
ルクシアが言い終わった瞬間、歓声が上がった。
「それでは歌います!」
ルミナスが第一声を発した瞬間、広場の空気が『結晶化』するような感覚に陥った。アグノももちろんそのような会場の空気に飲まれていった。
蓄音機の平坦で均一な音とは違い、喉の湿り気、鼓動、そして『生の毒』を含んだ圧倒的な音圧。会場全体、心が通じ合ったかのように号泣に包まれた。
アグノ自身も嗚咽しながら、涙を流しただただ真剣に聴いていた。神聖な秩序の一部になったような全能感。まるで、地球ではなく天国で天使の歌声を聴いているような感覚。
「ああ、このままずっと透明でいたい、このまま死ぬまで聴いていたい。」
歌が最高潮に達し、アグノの法悦が限界を超えた瞬間、頭上の巨大な蓄音機のホーンから金属が悲鳴を上げるような不快なノイズが走った。
それと同時に、演出用な白い鳩が、回転する巨大な蓄音機の真鍮製の針、あるいは剥き出しの歯車に巻き込まれた。
聴衆は悲鳴を上げる暇もなく、鳩は『白い羽』と『赤』を撒き散らしながら、ルクシアの足元へと肉塊となって墜落した。それを見たルクシアは声を上げることなく、ただその場にずっと立ったままだった。
透明な石畳を汚す『どす黒い赤』、墜落する瞬間、周りの音がスッと消え、ただ無音で落ちた。それでもアグノの脳内に血が石畳を叩く生々しい粘り気のある音だけが響いた。
静止した広場。マイクを通さない、ひび割れた『地声』が、最前列のアグノの耳にだけ響く。
「......はぁ、最悪なんだけど。せっかくこの日のために新しく新調したドレスが、この低俗な肉片肉片のせいで台無しじゃない」
「私の誕生日がこんな肉片肉片に汚されて、一年に一回の最高の日から最悪な日にだだ下がりだわ」
ルクシアは、足元に転がる鳩の死骸を美しい爪先無造作に蹴り飛ばした。蹴り飛ばされた鳩の死骸は数回転がり、観客席に落ちそうなところで止まった。
「いつまで止まっているのよ、さっさと片付けなさい、汚らわしい。美しいこの私が汚れても言い訳?.......そもそも、こんな家畜以下の連中に、私の『生の喉』を安売りしなきゃいけないなんて、反吐が出るわ。私の歌、歌声はこんな腐りかけのゴミ溜めを浄化するためにあるんじゃない。......ああ、早くこの『空っぽな器』たちを黙らせて、どこか遠くへ行きたい...,一人でここから逃げ出したい」
その一言が、アグノの信じた『透明な世界』を粉々に粉砕した。しかし異常なのはアグノにいる無数の観客たちだった。
これほどまでひどい暴言を、至近距離にいる者たちが聞き逃すはずがない。聞き逃す可能性があるはずだとしたらそれはよそ見をしているか、はたまたここにいないことだけだ。
なのに、隣りに座る『ポーセル』たちは、法悦に震えながらこう呟いた。
「ああ....ルクシア様が、犠牲になった命のために『祈り』を捧げていらっしゃる.....!なんて慈悲深いお方だわ...なんてお美しい嘆きなんでしょう!」
そう呟いた者の目はどこか黒く済んでいるような目だった。嘘を言っているようには見えず、真剣にこの発言をしていた。
耳に届く『醜悪な真実』を、民衆の頭の中にある脳内デバイスが、あるいは彼ら自身に元からあり身体に染み付いている狂信的な防衛本能が、瞬時に『聖女の悲しみ』へと変換し、塗りつぶしていく。
アグノ一人だけが、濾過されていない毒液を強制的に身体に流し込まれたような、圧倒的な今まで経験したことがなかった異様な孤立感に苛まれた。
「ちょっと待ってください!ルクシア様...今....あなた様、なんとおっしゃったのですか.....!」
アグノはルクシアに対して、喉の奥からせり上がる吐き気と憎しみをぶつけようと立ち上がった。
だがその言葉がルクシアに届く前に、背後から一人のきれいな女性ーーリリスが、冷たい手で彼の喉を優しく包み込むように、しかし確実に締め上げるように抱きしめた。
「離せよ!君も聞いてただろ!?彼女は今、僕達のことを家畜以下だと言ったんだぞ!」
「関係ないわ、私にはルクシアの1ファンとして彼女を守る義務があるもの、あなたのさっきのような身勝手な行為ひとつでみんなが待ち望んでいたルクシア様の独唱会を台無しされては困るでしょ?だからあなたのその『濁った声』で、彼女の神聖な祈りを汚さないで」
「僕は台無しにするつもりで立ったつもりはない、ただどこかルクシア様に裏切られた気がして....それで自分の気持ちを伝えたかっただけなんだ!」
「...あら..まあそうなの!でも大丈夫よ。すぐに、何も言えなくて済むようにしてあげる。この正しい世界に、あなたの『音』は不要なの」
彼女はそれを言うと、自分の席に戻っていった。
アグノは部外者に邪魔をされて言う気をなくし大人しくしていた。
「ちょっといいかな...」
声がした方向を見ると、一人の男性がいた。
「いやー、ちょっとね、さっき女性の人と話していたでしょ?目についてしまってね君のことが....」
「あなたは誰なんですか?」
「私はゾル。ここの運営を任されていてね。」
(聖歌庁の執行官……噂では『声』を奪う権限を持つ連中だ)
そう言うと、ゾルはアグノの喉に触れる。
喉の奥を冷たい硝子の粉で洗われているような感覚と共に、言葉という『色彩』が物理的に削られていく。アグノの悲鳴すら『透明な空気』へと濾過され、消失した。
止まっていた蓄音機が大音量で再開され、加工された『正しい歌声』が地声を塗りつぶす。
観衆の大歓声が湧き上がり、独唱会は終了した。
翌朝。声を失ったアグノが、再び石畳を掃除している。世界は正しく、透明だ。
しかし、アグノは、磨き抜かれた石畳に落ちた『自分の黒い影』を見つめている。これだけは、どれほど歌声で漂白しても、透過できない、唯一の真実として底に横たわっていた。




