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泥のコートと陽だまりのラム

 終電間際の駅のホーム。手すりに寄りかからなければ、立っていることすら難しかった。

 私の両手には、自分の鞄の他に、同僚から押し付けられた分厚い資料の束が食い込んでいる。

「ごめん、これ明日までにお願い! 助かる!」

 その一言に、また反射的に笑顔で頷いてしまった。

 本当は、三日連続の終電残業で限界だった。断りたかった。けれど、「嫌われるのが怖い」「使えない奴だと思われるのが怖い」という呪いが、私の喉を塞いでしまうのだ。


(どうして、いつも私ばっかり……)


 胃の奥がキリキリと錐で揉まれるように痛み、こめかみではガンガンと耳鳴りが反響している。

 息を深く吸い込もうとしても、肺が鉛のように重く、浅い呼吸しかできない。

 他人の期待という名の泥水を吸ったコートを、何枚も何枚も重ね着しているような窒息感。

 ふらつく足で改札を抜け、冷たい雨が降る路地を歩く。

 このまま泥濘に溶けてしまいたい。そう思った時、ふと、視界の端に温かな琥珀色の光が滲んだ。

 霧の中にひっそりと佇む、重厚な木製の扉。

『Bar Aurea』。

 こんな裏路地に店などあっただろうか。けれど、すがるような思いで、私はその扉を押し開けた。


 ◇


 カラン、コロン……。

 扉をくぐると、外の冷たい雨音が嘘のように消え去った。

 真空管ラジオから流れる静かなジャズの調べと、少し焦げたような甘い香りが、凍えきった鼻腔をくすぐる。

 カウンターの奥には、和装を思わせる服を着た黒髪の青年が立っていた。

 そして、その横には一匹の黒猫。


「いらっしゃいませ」


 青年の穏やかな声にホッとしたのも束の間、不意に低い声が降ってきた。


「やれやれ。他人の荷物まで背負い込んで、泥まみれの雑巾みたいな顔をしてるな」


「え……?」


 私は目を瞬かせた。今、確実にカウンターの上の黒猫と目が合った。

 そして、猫の口が動いたように見えた。


「都合のいい人間を演じるのも大概にしろ。そのままじゃ、自分の背骨までへし折れるぞ」


「……ね、猫が喋っ……? 私、ついに過労で幻聴まで……」


 限界を迎えた自分の脳を疑い、後ずさる私に、青年――久遠は困ったように微笑んだ。


「幻聴ではありませんから、ご安心ください。彼は私の師匠でして、少々口が悪いのです。さあ、重い荷物を下ろして、こちらへ」


 久遠に促され、私はふらふらとスツールに腰掛けた。

 黄金色の瞳が、私の強張った心を静かに解きほぐしていく。


「……私、断れないんです。いい顔をして、全部引き受けて。自分がボロボロになっているのに、それでも誰かに必要とされたくて」


 せき止めていた本音が、ポロポロと口からこぼれ落ちる。


「承知いたしました。誰かのために凍りついてしまった貴方の心、温かく溶かして差し上げましょう」


 久遠は棚から、琥珀色に輝くダークラムのボトルを取り出した。

 さらに、小さな木箱を開けると、ふわりと光を放つ、燃えるような金色の羽毛を取り出す。


「『太陽鳥の産毛』を、ひとつまみ……」


 彼がグラスに熱湯とラムを注ぎ、バターとスパイス、そして羽毛を加えた瞬間、店内にむせ返るような芳醇な甘い香りと、強烈なアルコールの揮発成分が立ち上った。


「うっ……! ぐ、はぁっ……!」


 久遠が突然、胸を掻きむしるようにしてカウンターに手をついた。

 顔面は蒼白になり、額からは玉のような脂汗が滴り落ちている。

 肩が激しく上下し、痛みを堪えるように奥歯を噛み締めていた。


「て、店員さん!? 大丈夫ですか……!」


「問題……ありま、せん……。貴方がこれまで……他人のために押し殺してきた重圧が、少しばかり……私の内臓を圧迫しているだけ、です……っ」


 久遠は眩暈に耐えながら、震える手でバースプーンを握った。

 カチャ、カチャ。

 グラスの中で液体を混ぜる音が、彼の命を削る音のように響く。

 私が背負ってきた泥のような苦痛を、彼がその身で引き受けてくれているのだ。


「お待たせ、いたしました。『陽だまりのホット・バタード・ラム』です」


 差し出されたのは、湯気を立てる琥珀色の温かいカクテル。

 表面で溶けかけたバターが、黄金色の波紋を描いている。

 両手でグラスを包み込むと、凍えていた指先に命の熱が戻ってくるようだった。

 一口、飲む。


 濃厚なバターのコクと、ラム酒の深い甘み。シナモンの香りが鼻を抜ける。

 喉を通った瞬間、胃の奥に固まっていた鉛のような緊張が、嘘のようにドロドロと溶け出していった。


「あ……」


 視界が優しい光に包まれる。

 気がつくと、私は氷の張った湖の上に立っていた。

 体には、水を吸って石のように重くなった泥だらけのコートが纏わりついている。

 しかし、頭上から降り注ぐ太陽の光が、そのコートを温かく乾かしていく。

 もう、無理をして着ている必要はないのだ。

 私はゆっくりとボタンを外し、その重たいコートを脱ぎ捨てた。

 肩が、背中が、羽が生えたように軽い。

 深く息を吸い込むと、肺の隅々にまで清々しい空気が行き渡った。

「私」は、「私」のままでいい。もう誰かのための荷物は背負わない。

 脳を覆っていた深い霧が晴れ、心地よい解放感が全身を駆け巡った。


 ◇


 グラスを空にすると、体の芯からぽかぽかと温まっていた。

 あんなに痛かった胃の痛みも、耳鳴りも、完全に消え去っている。

 明日、会社に行ったら、はっきりと「できない」と伝えよう。今の私なら、笑顔で、けれどきっぱりと断れる気がする。


「ごちそうさまでした。本当に、生き返りました」


 私は鞄から財布を取り出し、紙幣を出そうとした。

 しかし、久遠はまだ肩で息をしながらも、静かに首を横に振った。


「お代は結構です。金銭はいただきません」


「え? でも、こんなに素晴らしいものを……」


「代わりに、こちらを頂戴しましたから」


 彼が視線を向けたカウンターの上には、泥が固まったような、重く歪な形の石が置かれていた。


「それは貴方を縛り付けていた『自己犠牲』の塊です。もう、貴方には必要のないものです」


 私はその言葉に深く頷き、財布をしまった。

「ありがとうございます」と一礼し、店を後にする。

 扉を開けると、雨はすっかり上がっていた。

 水たまりに反射する街灯の光を踏み越え、私は胸を張って家路についた。


 ◇


「はぁ……はぁ……。お、重かった……」


 客が去った後、久遠はカウンターの裏でうつ伏せに倒れ込んでいた。

 温かいカクテルから立ち上るアルコールの蒸気と、他人の重圧を肩代わりした疲労で、指先まで痺れているようだ。


「ふん。あれだけ分厚い『いい子』の仮面を被っていたのだ。剥がすのに骨が折れるのは当然だろう」


 黒猫のメルが、カウンターに残された泥色の石を前足で小突く。

 外側は泥のように濁っていたが、少し転がすと、内側から琥珀色の純粋な光が漏れ出した。


「『抑圧』の石か。中身は驚くほど綺麗だな。悪くない収穫だ」


「……あのお客さんの代わりに……僕が泥に沈められた気分です……」


 久遠は床に頬を押し付けたまま、うわ言のように呟く。


「甘ったれるな。お前のその泥臭い努力が、賢者の石を再構築するのだ。さあ、早く起きてグラスを洗え」


「……鬼師匠……」


 久遠は文句を言いながらも、口元には微かな笑みが浮かんでいた。

 深夜0時の錬金酒場。

 誰かの重すぎる荷物を下ろすために、今夜もまた、甘く温かい香りが漂っている。

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