緑の猛毒と青嵐のモヒート
スマートフォンの画面が、ひび割れたように滲んで見える。
タイムラインには、美大時代の同期の投稿が溢れていた。
『念願の個展、開催決定!』『有名ギャラリーと契約しました!』
添付された写真の中で、彼は成功者の笑顔を浮かべている。
私は震える指で「いいね」を押し、コメント欄に「すごい! おめでとう!」と打ち込む。
送信ボタンを押した瞬間、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってきた。
(……死ねばいいのに)
裏返った本音が、喉元で腐臭を放っている。
私はコンビニバイトの帰り道、賞味期限切れの廃棄弁当をぶら下げて歩いていた。
かつては「天才」とおだてられたこともあった。けれど現実は、絵具代すら稼げないフリーター。
才能がないことは分かっている。それでも、あいつが成功して私が底辺を這いつくばっている理由が分からない。
不公平だ。理不尽だ。
どす黒い感情が胸の中で渦を巻き、内臓を雑巾のように絞り上げる。
息苦しい。自分の吐く息さえも毒ガスのように感じて、私は路地裏の壁に手をついてえずいた。
その時、霧の向こうにアンティークなランプの灯りが見えた。
『Bar Aurea』。
吸い寄せられるように扉を開ける。ここなら、この醜い自分を闇に隠せる気がして。
◇
カラン、コロン……。
店内に入ると、外の湿気が嘘のように遮断された。
琥珀色の照明が、カウンターのガラス瓶を静かに照らしている。
そこには、凛とした立ち姿の青年と、悠然と座る黒猫がいた。
「いらっしゃいませ」
青年の声は澄んでいた。けれど、私は顔を上げられなかった。
自分の薄汚い感情を見透かされそうで、視線を床に落とす。
「……腐った果実の臭いがするな」
低い声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、カウンターの上の黒猫が、金色の瞳で私を蔑むように見下ろしていた。
「え……猫……?」
「自分と他人を比べて、勝手に腐って、毒を垂れ流している。嫉妬の悪臭で鼻が曲がりそうだ」
「メ、メル……! 言い過ぎです!」
青年――久遠は慌てて黒猫の口を塞ごうとするが、私は図星を突かれて立ち尽くしていた。
怒りよりも先に、涙が滲んでくる。
「……その通りです。私は、友達の成功すら祝えない、最低な人間なんです」
吐き出す言葉は、泥のように重かった。
久遠は悲しげに眉を寄せ、私の前に氷入りの水を置いた。
「誰かを羨むのは、貴方がそれだけ真剣に夢と向き合ってきた証拠です。……ですが、その毒は少し強すぎますね。ご自身を溶かしてしまう前に、洗い流しましょう」
久遠は棚から、透き通ったラムのボトルと、新鮮なミントの葉が山盛りにされた器を取り出した。
さらに、小瓶から取り出したのは、激しく回転する風を閉じ込めたような結晶だった。
「『嵐の精霊の息吹』を、ひとかけら……」
彼がボトルを開け、ミントをグラスに入れてペストル(すりこぎ)で潰し始めた瞬間、店内に強烈な清涼感と、嵐の前の気圧の変化ような重圧が走った。
その匂いを嗅いだだけで、久遠の顔色が土気色に変わる。
「うっ……ぐ……!」
彼は喉を押さえ、激しく咳き込んだ。
まるで猛毒を飲まされたかのように、目が見開き、呼吸がヒューヒューと音を立てる。
「て、店員さん!? 顔色が……!」
「問題……ありま、せん……。貴方の体内で渦巻く嫉妬の毒が……私の内臓を焼き尽くそうとしているだけ、です……っ」
久遠は脂汗を流し、痙攣する手で炭酸水を注いだ。
シュワシュワと弾ける泡の音が、私の体内のどす黒い感情と共鳴する。
彼は激痛に耐え、最後の力を振り絞ってステアし、ライムを飾った。
「お待たせ、いたしました。『青嵐のモヒート』です」
目の前に置かれたのは、氷とミントがぎっしりと詰まった、涼しげなロングカクテル。
グラスの表面に水滴がつき、見ているだけで汗が引いていくようだ。
ストローで一口、吸い込む。
強烈なミントの衝撃。そして、ライムの酸味とラムの甘み。
それが喉を通った瞬間、体内を暴風雨が吹き抜けたような感覚に襲われた。
「ん……っ!」
視界が鮮やかな緑色に弾けた。
気がつくと、私は嵐の過ぎ去った草原に立っていた。
頭上には突き抜けるような青空。
あんなに執着していた同期の顔も、SNSの数字も、風に吹かれて消えてしまった。
私は私だ。
地面に根を張る草花のように、ただ自分の色で咲けばいい。
誰かと比べる必要なんてなかったんだ。
胸の中に溜まっていたヘドロのような嫉妬が、清らかな湧き水に洗われていく。
涙が溢れた。けれどそれは、悔し涙ではなく、浄化の涙だった。
◇
グラスが空になると、私の心は台風一過のように晴れ渡っていた。
憑き物が落ちたとは、まさにこのことだ。
もう、同期の投稿を見ても何とも思わないだろう。私は私のキャンバスに向かえばいいのだから。
「ありがとうございました。……毒が、抜けました」
「それは何よりです。貴方だけの作品、楽しみにしていますよ」
久遠はまだ呼吸を荒らげながらも、清々しい笑顔を向けてくれた。
私は財布を出そうとしたが、彼の手がそれを制した。
「お代は結構です。金銭はいただきません」
「でも……」
「代わりに、こちらを頂戴しました」
彼が指差したカウンターの上には、トゲトゲした深緑色の、ウニのような形をした石が置かれていた。
触れると指が切れそうなほど鋭利だ。
「それは貴方を刺し続けていた『嫉妬』の棘です。もう貴方には必要ありません」
私は深く頭を下げ、店を後にした。
外の風は心地よく、私はスマホを取り出すことなく、月を見上げて歩き出した。
帰ったら、久しぶりに筆を握ろう。
◇
「さ、寒い……寒すぎる……」
客が去った後、久遠はカウンターの裏でガタガタと震えながら毛布にくるまっていた。
嫉妬の熱を冷ますための強力な冷却魔法とミントの作用で、体温を奪われたらしい。
「ふん。あれだけドロドロした熱情を冷やすには、南極の風でも足りんくらいだったからな」
黒猫のメルが、カウンターに残されたトゲトゲの石を前足で慎重に転がす。
「『羨望』の石か。鋭いな。扱いを間違えれば指が落ちるぞ」
「……あのお客さんの代わりに……僕が冷凍マグロになった気分です……」
久遠は唇を青くして訴えるが、メルは意に介さず石の輝きを堪能している。
「安心しろ、カクテル一杯分のアルコールで中和されて、ちょうどいい温度になるだろう」
「……それ、一番ダメなやつです……」
久遠は抗議の声を上げる気力もなく、再び毛布の中に潜り込んだ。
深夜0時の錬金酒場。
誰かの心を焼く嫉妬の炎を消すために、今夜もまた、氷の音が涼やかに響いている。




