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秒針の檻と黄金のネクター

 信号待ちのわずか三十秒が、永遠のように長く感じる。

 私はスマホを取り出し、ニュースアプリの見出しを流し読みしながら、耳にはワイヤレスイヤホンを突っ込んでいた。流れているのはビジネス書の要約動画。もちろん、二倍速だ。

 現代社会において、時間は資源だ。一分一秒たりとも無駄にしてはならない。

 移動中はインプット、食事中はメールチェック、入浴中はアイデア出し。

 空白の時間を作ることは、怠惰であり、罪悪だ。

 そう自分に言い聞かせて走り続けてきた。けれど最近、頭の芯が常に熱を持って痺れている。

 情報の濁流が脳内を駆け巡り、整理されないまま澱んでいく感覚。

 深呼吸をしようとしても、肺が萎縮して空気が入ってこない。

 息苦しい。

 世界が早送りされているような目眩の中で、ふと路地裏に静止した空間を見つけた。

 霧の中に佇む、レトロな扉。『Bar Aurea』。

 そこだけ時間が止まっているかのような静寂に惹かれ、私はタイムパフォーマンスという概念を一時停止して、その扉に手をかけた。


 ◇


 扉を閉めると、耳障りな倍速音声がプツリと途絶えた。

 店内は、ゆったりとした琥珀色の空気に満ちていた。

 古時計が、信じられないほどゆっくりと時を刻んでいる。

 カウンターの奥に立つ黒髪の青年と、その横で欠伸をする黒猫。


「いらっしゃいませ。……随分と、お急ぎのようですね」


 青年が穏やかに声をかけてくる。

 私は無意識にスマホの画面をタップしようとしていた指を止めた。


「ああ、すみません。ちょっと、頭が休まらなくて」


「だろうな。脳みその回転数がレッドゾーンだ。焼き切れる寸前のモーターみたいな音がするぞ」


 不意に聞こえた低い声に、私は周囲を見渡した。

 他に客はいない。視線の先にいるのは、黒猫だけだ。

 猫が、金色の目で私を見上げ、ニヤリと笑ったように見えた。


「え……? 今、猫が……? 疲れているんですかね、私。幻聴まで聞こえるなんて」


 額を押さえてよろめくと、青年――久遠が静かに頷いた。


「いいえ、幻聴ではありません。彼は私の師匠でして、少々お喋りなのです」


「ええっ!?」


 私は思わず後ずさりしたが、久遠の落ち着いた声音と、不思議な説得力を持つ瞳に、恐怖よりも安堵が勝った。

 そうだ、ここはそういう場所なのだと、理屈抜きで納得させられてしまう。


「……そうですか。猫が喋るなら、私が壊れたわけじゃないんですね」


 ため息と共にスツールに座ると、張り詰めていた糸が切れた。

「何もしない時間」が怖い。立ち止まれば、誰かに追い抜かれる気がして。

 効率化を求めすぎて、生きることそのものを「処理」してしまっている自分への虚しさ。

 そんな本音を、ポツリポツリと吐き出していた。


「分かりました。その加速しすぎた思考の回転、止めて差し上げましょう」


 久遠は優しく微笑むと、棚から黄金色の蜂蜜のような液体が入ったボトルを取り出した。

 さらに小瓶から、キラキラと光る粉末をスプーンですくい取る。


「『まどろみの妖精の鱗粉』を、一匙……」


 彼がボトルを開けると、濃厚な花の蜜の香りと、熟成されたブランデーのような芳香が広がる。

 その甘美な匂いを吸い込んだ瞬間、久遠の顔色が急変した。


「うっ……ぐぅ……!」


 彼は胸元を強く握りしめ、カウンターに倒れ込むように肘をついた。

 顔面は蒼白になり、額には大粒の脂汗が浮かんでいる。


「店員さん!? 大丈夫ですか!?」


「問題……ありません。貴方が休むことを許さなかった分……その反動が、少し重たいだけです……」


 久遠は荒い息を繰り返しながら、震える手でシェイカーを握った。

 カチャ、カチャ、カチャ。

 その音は、私の急かされた心臓のリズムとは対照的に、ゆっくりとした子守唄のように優しかった。

 彼は眩暈と吐き気に耐え、命を削るようにして黄金の液体をグラスに注ぐ。


「お待たせいたしました。『黄昏のハニー・ネクター』です」


 目の前に置かれたのは、夕暮れの光を溶かし込んだような、とろりとした黄金色のカクテル。

 甘く、温かい香りが漂う。

 グラスを口に運ぶ。

 濃厚な甘み。それが舌の上で優しく広がり、喉を通ると同時に、脳髄を痺れさせていた熱がスッと引いていく。


「はぁ……」


 ため息と共に、力が抜けた。

 視界が黄金色に染まる。

 私は、陽だまりの中にいた。

 スマホも、時計も、タスクリストもない。ただ、柔らかな光と、草の匂いだけがある。

 風が吹く。雲が流れる。それだけで十分だ。

 何も生産しなくていい。何も消費しなくていい。

 ただ「今」を感じることが、こんなにも贅沢だったなんて。

 脳内に詰め込まれていた情報のガラクタが、光に溶けて消えていく。

 空っぽになった頭の中を、心地よい静寂が満たしていった。


 ◇


 気がつくと、グラスは空になっていた。

 肩の荷が下りたように体が軽い。

 頭の中は驚くほどクリアで、焦燥感は微塵も残っていなかった。

「休む」ことへの恐怖はもうない。これからは、自分のペースで歩けそうだ。


「ごちそうさまでした。本当に、救われました」


 私は財布を取り出し、紙幣を置こうとした。

 しかし、久遠はまだ顔色が悪いまま、静かに首を横に振った。


「お代は結構です。金銭はいただきません」


「え? でも……」


「代わりに、こちらを頂戴しましたから」


 彼が示したのは、カウンターの上に転がる、小さな歯車のような形をした鉛色の石だった。

 いつの間に置いたのだろう。


「それは貴方を縛っていた『焦燥』の塊です。もう貴方には不要なものですから」


 よく分からないが、彼がそう言うならそうなのだろう。

 私は深く一礼し、店を後にした。

 外の風は心地よく、私はスマホをポケットに入れたまま、ゆっくりと夜道を歩き出した。


 ◇


「うぅ……体が……重い……動かない……」


 客が去った後、久遠はカウンターの裏でぐったりと伸びていた。

 強制的にリラックスさせる魔力の反動で、指一本動かせないらしい。


「ふん。あれだけ生き急いでいた魂を急停止させたんだ。慣性の法則で衝撃が来るのは当然だろう」


 黒猫のメルが、鉛色の歯車のような石を鼻先で転がす。

 石は鈍い光を放ち、どこか哀愁を帯びていた。


「『強迫観念』の石か。ずっしりと重いな。純度は高いぞ」


「……あのお客さんの代わりに……僕がナマケモノになった気分です……」


「丁度いい骨休めだろう。そこで朝まで寝ておけ、愚弟子」


 メルは呆れたように言いながらも、動けない久遠のために、そっとブランケットを掛けるような仕草を見せた(実際には無理だが、尻尾でタオルを落としてやった)。

 深夜の路地裏。

 忙しない現代人の時間を止めるために、今夜もまた、琥珀色の灯りが静かに揺らめいている。

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