緑の妖精と消えた輪郭
ショーウィンドウに映る自分が、風景に溶けて見えなかった。
繁華街の雑踏。すれ違う人々は、誰も私に気づかない。まるで幽霊にでもなった気分だ。
私は有名作家の「ゴーストライター」をしている。
書店に平積みされたベストセラー。帯には先生の笑顔と「魂の傑作」という煽り文句。
書いたのは私だ。構成も、文章も、徹夜で絞り出した比喩も。
けれど、そこに私の名前はない。
「君の文章は、私の名前があってこそ輝くんだよ」
先生の言葉に、愛想笑いで頷くことしかできなかった。
私はカメレオンだ。求められる色に自分を変え、背景に同化し、個を殺す。
そうしているうちに、本当に自分が何色だったのか、忘れてしまった。
(私は、ここにいるのだろうか)
ふと、足元の影が薄くなっている気がして、恐怖で足が止まる。
その時、霧がかった路地の奥で、緑色の淡い光が瞬いた。
『Bar Aurea』。
導かれるように扉を開ける。カラン、コロン……。
◇
店内には、薬草を煮詰めたような独特な香りが漂っていた。
カウンターには、和洋折衷の衣装をまとった青年と、一匹の黒猫。
青年は私を見ると、不思議そうに瞬きをした。
「……おや。どなたか、いらっしゃいますか?」
「え、あの、目の前に……」
「冗談です。ですが、あまりに気配が希薄なもので。まるで輪郭線が消えかかった鉛筆画のようだ」
青年――久遠の黄金色の瞳が、私の半透明な存在感をじっと見据える。
黒猫が、つまらなそうに尻尾を振った。
「影がねぇな、お前。他人の影に隠れて生きてきたせいで、自分自身の影を食い尽くされたか」
「……その通りかもしれません。私は、誰かの代用品ですから」
自嘲気味に笑うと、久遠は静かに首を横に振った。
「代用品などありません。貴方の色は、貴方だけのものです。……少し荒療治になりますが、その消えかけた輪郭、焼き直して差し上げましょう」
久遠は棚から、エメラルドグリーンの液体が入ったボトルを取り出した。
ラベルには妖精の絵が描かれている。
さらに、小瓶から取り出したのは、虹色に光る霧のような気体だった。
「『迷いの森の霧』を、一匙……」
彼が専用のグラスに緑の酒を注ぎ、その上に穴の開いたスプーンと角砂糖をセットする。
そして、上からゆっくりと水を垂らし始めた。
ポタリ、ポタリ。
水と酒が混ざり合い、緑色の液体が白濁していく。
同時に、強烈なアニスとニガヨモギの香りが立ち上った。
「う、ぐ……っ!」
久遠がカウンターを鷲掴みにし、激しくよろめいた。
焦点が合わないのか、虚空を睨んで荒い息を繰り返している。
「て、店員さん!?」
「お気になさらず……。自己の境界が……溶けていく感覚は、少しばかり酔いが回りますね……」
久遠の輪郭が、揺らいで見えた。
彼は自身の存在を保つことに必死な様子で、脂汗を滴らせながら水を垂らし続ける。
彼が私の「無個性」という猛毒を肩代わりしているのだ。
白濁が終わると、彼は震える手でグラスを差し出した。
「お待たせいたしました。『緑の妖精・ドリップ』です」
目の前にあるのは、白く濁った淡い緑色の液体。
妖しく、どこか危険な香りが脳を刺激する。
グラスを煽る。
強烈な薬草の風味。舌が痺れるほどの苦味と、それを誤魔化す砂糖の甘み。
喉を通った瞬間、脳髄が痺れ、視界が緑色に染まった。
「あ……」
世界が回転する。
私は深い森の中にいた。
どこまでも続く緑の霧。方向も、自分さえも見失いそうになる。
『お前は誰だ?』
何処からか声が聞こえる。先生の声か? 世間の声か?
違う。これは、私の声だ。
足元を見る。地面を踏みしめる足がある。
私はゴーストじゃない。私は、私だ。
腹の底から熱い塊がせり上がってくる。
「私は、ここにいる!」
叫び声と共に、周囲の霧が晴れていく。
森の木々が色を取り戻し、私の体にも鮮やかな色彩が戻ってくる感覚。
指先まで血が通い、確かな輪郭が刻み込まれていく。
◇
「……はぁ、はぁ」
激しい動悸と共に我に返ると、店内は静寂に包まれていた。
グラスは空だ。
自分の手を見る。血管が浮き、確かに生きている手だ。
もう、誰かの影に隠れるのはやめよう。
たとえ売れなくても、泥臭くても、私の名前で、私の言葉を紡ぎたい。
「……目が覚めました。ありがとうございます」
「どういたしまして。今の貴方なら、きっと素敵な物語が書けますよ」
久遠は青白い顔で、それでも力強く頷いてくれた。
私は深々と頭を下げ、店を後にした。
外の空気は澄んでいた。ショーウィンドウに映った私の顔は、確かに意志を持って私を見返していた。
◇
「ぐぅ……世界が……回る……溶ける……」
客が去った後、久遠はカウンターの下で膝を抱えて震えていた。
アブサンの魔力に当てられ、平衡感覚を完全に失っているようだ。
「ふん。『緑の妖精』とはよく言ったものだ。お前のそのへっぴり腰、生まれたての小鹿みたいだぞ」
黒猫のメルが、カウンターに残された半透明の水晶のような石を覗き込む。
石は背景の色を透過しつつも、中心に確かな虹色の光を宿していた。
「『無私』の石か。透明度が高い。光を当てれば七色に変わる、カメレオンのような石だな」
「……もう、限界です……。自分の名前すら……忘れかけましたよ……」
久遠はうわ言のように呟き、冷たい床に頬を押し付ける。
「安心しろ。お前の名前は『下戸の久遠』だ。それ以外にありえん」
「……慰めに、なってません……」
久遠は抗議しようとして力尽き、そのまま目を回した。
メルは呆れつつも、その石を大切そうに前足で引き寄せた。
深夜0時の錬金酒場。
透明になりかけた誰かの輪郭を描き直すために、今夜もまた、妖精の香りが静かに漂っている。




