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棘の檻と真紅のジャック・ローズ

「君には、心がないのか」


 投げつけられた言葉が、冷たい夜風に乗ってリフレインする。

 別れ話の最中でさえ、私は泣かなかった。表情ひとつ変えず、冷静に「分かった」と頷いただけだ。

 仕事でもプライベートでも、私は常に「完璧な鉄の女」だった。

 感情を表に出すのは未熟な証拠。涙など無駄な排泄物。そう自分を律して生きてきた。

 けれど、今日、三年付き合った恋人が去っていく背中を見送った時、胸の奥で何かが軋む音がした。

 痛い。苦しい。叫びたい。

 それなのに、私の涙腺は砂漠のように干上がって、一滴の雫も零れてこない。


(泣き方なんて、もう忘れてしまった)


 乾いた瞳が熱を持つ。喉の奥に、言葉にならなかった感情が棘となって突き刺さっている。

 ハイヒールの音だけが、無人のオフィス街に虚しく響く。

 ふと、ビルの谷間に赤いランプの灯りが揺らめいているのが見えた。

 誘蛾灯に惹かれる羽虫のように、私は路地へと足を踏み入れた。

『Bar Aurea』。

 重厚な扉。その向こうから漂う甘く危険な香りに、私の本能が警鐘と誘惑を同時に鳴らした。


 ◇


 扉を開けると、そこは薔薇の園のような芳香に包まれていた。

 カウンターには、古風な身なりの青年と、一匹の黒猫。

 青年は、私が店に入った瞬間、痛ましげに眉を寄せた。


「いらっしゃいませ。……随分と、深い傷を負っておられますね」


「傷? まさか。私は平気よ」


 反射的に強がる私を見て、黒猫が嘲笑うように鼻を鳴らす。


「ふん。血だらけのくせに、まだ虚勢を張るか。自分の心臓に棘を巻き付けて、窒息寸前だというのに」


「え……」


「メル、あまり追い詰めないであげてください」


 青年――久遠は猫を制し、私に水を差し出した。

 その黄金色の瞳に見つめられると、鉄壁だったはずの心のガードが、薄紙のように脆く感じられる。


「貴方は、ずっと耐えてこられたのですね。悲しみも、怒りも、すべて飲み込んで。……その喉に詰まった棘、抜いて差し上げましょう」


 私は何も言えずに頷いた。

 久遠は棚から、燃えるような深紅のリキュールと、琥珀色のブランデーを取り出した。

 そして、小箱から取り出したのは、鋭く尖った紅色の結晶だった。


「『別離の薔薇の棘』を、一本……」


 彼がボトルの栓を抜くと、果実の甘酸っぱい香りと共に、鼻を突くような鋭利な気配が立ち上る。

 途端に、久遠が喉を押さえて激しく咳き込んだ。


「ごふっ……! けほっ、けほっ……!」


「ちょ、ちょっと! 大丈夫!?」


 久遠はカウンターに突っ伏し、呼吸困難に陥ったかのように胸を掻きむしる。

 その美しい顔が、苦悶に歪み、目尻に生理的な涙が浮かんでいる。


「問題、ありま、せん……。貴方が飲み込んできた言葉が……鋭すぎて、私の喉を引き裂きそうです……っ」


 彼は涙目で、震える手を使ってシェイカーを握った。

 ジャッ、ジャッ、ジャッ。

 氷が砕ける音が、まるで私の心を守っていた檻を破壊するハンマーの音のように響く。

 久遠は血を吐くような思いで、その赤い液体をカクテルグラスへと注ぎ込んだ。


「お待たせ、いたしました。『真紅のジャック・ローズ』です」


 目の前に置かれたのは、鮮血のように鮮やかで、どこか妖艶な赤色のカクテル。

 甘いグレナデンの香りが、私の乾いた心に染み渡る。

 グラスを手に取り、唇を湿らせる。


 強烈な酸味。そして、林檎のブランデーの芳醇な香り。

 それが喉を通った瞬間、突き刺さっていた棘が焼き切れるような感覚が走った。

 熱い。胸が、熱い。


「あっ……」


 視界が赤く染まる。

 気がつくと、私は枯れ果てた荒野に立っていた。

 地面を覆っていた茨の檻が、赤い炎に包まれて燃え上がっていく。

 パチパチと音を立てて燃える茨。その灰の中から、一輪、また一輪と、真紅の薔薇が咲き乱れていく。

 封じ込めていた感情が、花弁となって溢れ出す。

 寂しかった。悔しかった。愛されたかった。

 心のダムが決壊する。


「う、うぅ……っ」


 気がつくと、私はカウンターで泣いていた。

 子供のように、声を上げて。

 堰を切ったように溢れ出る涙は止まらない。けれど、それは決して不快なものではなかった。

 毒素が体から抜け落ちていくような、心地よい疲労感。


 ◇


 どれくらい泣いただろうか。

 グラスは空になり、私の目も腫れぼったくなっていたが、胸の中は驚くほど澄み渡っていた。

 もう、強がる必要はない。弱さを認めることは、敗北ではないのだと知った。


「……お見苦しいところを、見せました」


「いいえ。雨上がりの薔薇のように、とても綺麗でしたよ」


 久遠はまだ喉をさすりながら、掠れた声で優しく微笑んだ。

 私は化粧を直す気にもなれず、そのままの顔で深く一礼し、店を後にした。

 外の風はもう冷たくなかった。頬に残る涙の跡が、私が人間であることの証明のように感じられた。


 ◇


「けほっ、ごほっ……! の、喉が……焼ける……」


 客が去った後、久遠はカウンターの裏でうずくまり、氷水を必死に煽っていた。

 喉の粘膜がズタズタにされたような痛みが引かないらしい。


「ふん。あれだけ頑固に感情を押し殺していれば、その反動も強烈だろうさ」


 黒猫のメルが、カウンターに残されたルビーのように赤い、鋭利な形の石を前足で転がす。


「『抑圧』の石か。硬度も輝きも申し分ない。砕いて粉末にすれば、強力な触媒になるぞ」


「……あのお客さんの代わりに……僕が一生分の棘を飲み込んだ気分です……」


 久遠は涙目で訴えるが、声がガラガラにかすれている。


「名誉の負傷だ。誇れよ、愚弟子。お前のおかげで、一人の人間がまた呼吸を取り戻したのだからな」


 メルはニヤリと笑うと、赤い石を満足げに眺めた。

 久遠は恨めしそうに師匠を見上げるが、それ以上言い返す元気もないようだった。

 静寂が戻った店内で、彼は再び静かにグラスを磨き始める。

 その横顔は痛々しいが、どこか清々しい光を帯びていた。

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