錆びついた時計と琥珀の夕暮れ
くしゃくしゃになった便箋が、また一枚、ゴミ箱へと放り込まれる。
深夜の公園のベンチ。街灯の頼りない明かりの下で、私は万年筆を握りしめていた。
定年退職を迎えて半年。妻に先立たれて三年。
疎遠になっていた娘に、謝罪の手紙を書こうとしていた。だが、言葉が出てこない。
「すまなかった」「愛している」。そんな単純な言葉が、喉元で錆びついた鉄屑のように引っかかって出てこないのだ。
(情けない……)
カチ、カチ、カチ。
腕にはめた古時計の秒針の音が、やけに大きく響く。
それはまるで、私の残り時間を無慈悲に削り取っていくカウントダウンのようだった。
胸が苦しい。過去への悔恨と、未来への孤独が、心臓を万力で締め上げている。
冷え切った指先が震え、万年筆を取り落とした。
転がったペンを追って視線を下げると、足元の霧の中に、奇妙な光が漏れ出しているのに気づいた。
いつの間に、こんな店があったのか。
『Bar Aurea』。
重厚な扉の向こうから、古時計の鐘の音が聞こえた気がした。
私の腕時計と共鳴するような、その音色に導かれ、私は重い扉を押し開けた。
◇
チク、タク、チク、タク……。
店内には、大小様々な時計が並んでいた。振り子時計、砂時計、天球儀のような時計。
それらが刻むリズムはバラバラなのに、不思議と一つの交響曲のように調和している。
カウンターの中には、古風な装いの青年が立っていた。
そして、その横には一匹の黒猫。
「いらっしゃいませ」
青年の声は、低く、穏やかだった。
黄金色の瞳が、私の顔ではなく、胸ポケットに入れたままの破りかけの便箋を見つめている。
「……時間が、止まっておられますね」
「え?」
「貴方の時計の針は動いている。けれど、貴方の心臓の刻は、ずっと過去のどこかで凍りついたままだ」
私は言葉を失った。
黒猫が、金色の目を細めて私を見下ろす。
「やれやれ。錆びついた歯車が軋む音がうるさくて敵わん。油が切れた機械人形みたいだぞ、爺さん」
「メル、言葉を慎みなさい」
青年――久遠は猫をたしなめると、私に向かって静かに会釈した。
「失礼しました。ですが、今の貴方には、その錆を落とすための油が必要なようです」
「……ああと、そうかもしれないな。言葉ひとつ、紡げないんだ」
私は乾いた笑いを漏らし、カウンターに身を預けた。
久遠は頷き、棚の奥から琥珀色の液体が入ったボトルを取り出した。
さらに、小さな木箱から取り出したのは、黄金色に輝く砂のような粉末だった。
「『逆行の砂時計の砂』を、一振り」
彼がボトルの封を切ると、ウイスキーの芳醇な薫香と共に、古い書庫のような懐かしい匂いが漂った。
その瞬間、久遠の表情が強張った。
「うっ……ぐぅ……!」
彼は胸を押さえ、カウンターに崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
顔色は瞬く間に青ざめ、呼吸が乱れている。
「おい、大丈夫かね!?」
「問題……ありません。時を遡る負荷は、少しばかり……三半規管に来るだけです……」
久遠は激しい眩暈に襲われているようだった。視線が定まらず、脂汗が頬を伝い落ちる。
それでも彼は、震える手でバースプーンを握った。
カラン、コロン。
氷を回すたびに、店内の時計の針が逆回転しているような錯覚に陥る。
久遠は吐き気を噛み殺し、命を削るようにして琥珀色の液体をグラスに注いだ。
「お待たせいたしました。『黄昏のオールド・ファッションド』です」
目の前に置かれたのは、夕暮れを閉じ込めたような美しい琥珀色のカクテル。
オレンジピールの香りが、鼻腔をくすぐる。
グラスを持ち上げ、一口含む。
強い苦味。そして、それを包み込むような深い甘み。
アルコールの熱が、食道を通って胃に落ちた瞬間、体中の錆が剥がれ落ちていくような感覚に襲われた。
「……っ!」
視界がセピア色に染まる。
気がつくと、私は昔住んでいた家の縁側にいた。
庭には、まだ幼い娘と、若かりし頃の妻が笑っている。
夕日が二人を優しく照らしていた。
『あなた、お茶が入りましたよ』
妻の声。ああ、そうだ。私はこの何気ない時間が、何よりも大切だったんだ。
言えなかった言葉たちが、雪解け水のように溢れ出してくる。
「ありがとう」「すまなかった」「愛している」。
心の中で何度も叫ぶ。すると、幻影の妻が、優しく微笑んで頷いた気がした。
凍りついていた時間が、再びカチリと音を立てて動き出す。
◇
我に返ると、グラスの中の氷がカランと音を立てて崩れた。
胸のつかえが取れていた。
不思議だ。あれほど重かった万年筆が、今は羽根のように軽く感じる。
伝えたいことは、飾った言葉じゃなくていい。ただ、あの日の夕暮れのような温かさを込めればいいんだ。
「……美味い酒だった。ありがとう」
「お口に合って光栄です」
久遠はまだ顔色が優れないまま、それでも穏やかに微笑んだ。
私は代金を払おうとしたが、彼は首を横に振った。
代わりにカウンターを指差す。そこには、赤錆色をした重たい鉄塊のような石が置かれていた。
「それは貴方が置いていった『後悔』の塊です。もう、貴方には必要ありません」
私は深く一礼し、店を後にした。
外の空気は冷たかったが、私の胸には温かな火が灯っていた。
早く帰って手紙を書こう。今なら、素直な気持ちを娘に伝えられる気がする。
◇
「うぅ……目が回る……気持ち悪い……」
客が去った後、久遠はカウンターの床に大の字になって伸びていた。
天井の照明がぐるぐると回って見えるらしい。
「ふん。時の流れに逆らう魔力を混ぜたんだ。二日酔いならぬ、時差ボケのようなものだろう」
黒猫のメルが、カウンターに残された赤錆色の石を前足で小突く。
石はゴロリと転がり、その表面が剥がれると、中から美しい琥珀色の輝きが覗いた。
「『悔恨』の石か。熟成されて味がある。賢者の石の、いい結合剤になるだろうよ」
「……他人事だと思って……。もう、ウイスキーベースは勘弁してください……」
久遠は青い顔で天井を仰ぎ、力なく呟く。
「甘えるな。人生の苦味を知らぬ者に、極上のカクテルは作れんぞ」
「……師匠の鬼……悪魔……」
「なんとでも言え。さあ、立て。次の客が来る前に、その死にそうな顔をなんとかしろ」
メルは尻尾で久遠の頬をぺちりと叩く。
久遠は呻き声を上げながらも、ふらふらと立ち上がった。
深夜0時の錬金酒場。
止まっていた誰かの時間を動かすために、今夜もまた、グラスの音が静かに響いている。




