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砕けた仮面と雪解けのジン

 スマートフォンのブルーライトだけが、私の世界を照らしている。

 路地裏の室外機に腰掛け、画面をスクロールする指が止まらない。

 SNSの通知音が鳴り止まない。「誕生日おめでとう!」「いつもキラキラしてて憧れです!」「素敵なディナーですね!」。

 投稿した写真は、高級レストランのフルコース。

 けれど、現実の私の手にあるのは、コンビニの潰れたおにぎりと、ぬるくなった缶チューハイだけ。


「……嘘つき」


 画面の中の私は、完璧な笑顔で笑っている。

 誰も本当の私なんて見ていない。彼らが好きなのは、私が必死に加工して作り上げた「虚像」だけだ。

 いいねの数が減るのが怖い。フォロワーに見放されるのが怖い。

 本当は借金まみれで、友達もいなくて、ボロアパートに住んでいるなんて知られたら。

 息が詰まる。厚塗りのファンデーションが、肌ではなく心を窒息させていくようだ。


 ふと、顔を上げると、霧の向こうにアンティークなランプの灯りが見えた。

 こんな場所に、あんなお洒落な店があったなんて。

「映えるかもしれない」。そんな浅ましい考えが頭をよぎり、私はふらふらと立ち上がった。

『Bar Aurea』。

 重厚な扉を開ける。カラン、コロン……。


 ◇


 一歩足を踏み入れた瞬間、スマホの電波表示が『圏外』になった。

 外の世界の喧騒が遮断される。そこにあるのは、古時計の時を刻む音と、静謐な空気だけ。

 カウンターの向こうで、和装のバーテンダーがグラスを拭いていた。

 黒髪の美青年。思わずスマホを構えそうになって、指が止まる。

 彼の黄金色の瞳が、レンズ越しではなく、私の眼球を直接射抜いてきたからだ。


「いらっしゃいませ。……随分と、重たい『鎧』を着込んでおられますね」


「え……?」


「服のことではありません。貴方の魂にこびりついた、分厚い化粧のことです」


 ドキリとした。

 カウンターの上では、黒猫が呆れたようにあくびをしている。


「中身が空っぽのくせに、外側だけ塗り固めて。まるで張り子の虎だな。いや、張り子の猫か?」


「メ、メル……っ! お客様になんてことを……!」


 青年――久遠は慌てて猫を諌めると、私に向かって困ったように微笑んだ。


「申し訳ありません。ですが、少し辛そうですね。本当の素顔を忘れてしまいそうなほど、息苦しそうだ」


「……わかりますか?」


「ええ。剥がして差し上げましょう。その、肌に食い込んだ偽りの仮面を」


 久遠は棚から、霜が降りたような白いボトルを取り出した。

 さらに、小瓶の中から取り出したのは、キラキラと光る硝子の破片のようなもの。


「『真実の鏡の破片』をひとつまみ……」


 彼がボトルの栓を抜くと、ツンとした鋭い冷気と、針葉樹の森のような清冽な香りが漂った。

 その瞬間、久遠の体がガクンと揺れた。


「うっ……!」


 彼は胸元を強く握りしめ、苦しげにカウンターに肘をつく。

 顔からは血の気が失せ、呼吸がヒューヒューと音を立てていた。


「て、店員さん!? 顔色が真っ青だよ!」


「問題……ありません……。貴方の仮面が分厚いほど……それを溶かす溶媒もまた、強力になりますから……」


 久遠は脂汗を流しながら、震える手でマドラーを握った。

 カラン、カラン。

 彼がステアするたびに、グラスの中で氷がぶつかり合う音が、私の心臓をノックする。

 久遠は苦痛に耐えるように唇を噛み締め、最後の一滴まで魂を込めてグラスに注いだ。


「お待たせいたしました。『雪解けのホワイト・レディ』です」


 差し出されたのは、新雪のように白く濁ったショートカクテル。

 口元に運ぶと、冷たい蒸気が鼻腔をくすぐる。

 一口、飲む。


 冷たい。

 心臓が凍りつくかと思うほど鋭い冷気。

 けれど次の瞬間、胃の奥からじんわりと、優しい熱が広がっていく。

 まるで、冬の終わりに差し込む春の日差しのように。


「あ……」


 視界が白く染まる。

 私は真っ白な雪原に立っていた。

 スマホも、ブランドのバッグも、厚化粧もない。私はただの私として、雪の上に立っている。

 冷たい風が心地いい。

 着飾る必要なんてなかったんだ。

 誰かに見せるためじゃない。私は、私の足で、この雪を踏みしめればいい。

 パリ、パリと音がして、顔を覆っていた硬い殻が剥がれ落ちていく。

 現れた素顔の頬を、冷たい風が優しく撫でていった。


 ◇


「……ふぅ」


 長く息を吐くと、肩の力が完全に抜けていた。

 グラスは空になっていた。

 不思議と、もうスマホを見たいとは思わなかった。

 誰かに「いいね」されなくても、今の私は、この一杯のカクテルだけで満たされている。


「ごちそうさまでした。……なんだか、久しぶりに息をした気がします」


「それは良かったです。素顔のほうが、ずっと素敵ですよ」


 久遠はまだ顔色が悪いまま、それでも優しく微笑んでくれた。

 私はバッグから化粧ポーチを取り出すと、ゴミ箱に捨てさせてもらった。

 そして、軽くなった体で店を出た。

 夜風は冷たかったが、今はその冷たさが、私の輪郭をはっきりと感じさせてくれた。


 ◇


「おえぇ……。き、きつい……ジンはやっぱり、きつい……」


 客が去った後、久遠はカウンターの裏に座り込み、ぐったりと項垂れていた。

 目は虚ろで、手足の震えが止まらない。


「ふん。あれだけ虚飾にまみれた魂だ。浄化するのに相当な度数が必要だったろうよ」


 黒猫のメルが、カウンターに残された白く濁った石を検分する。

 石は、どこか鏡のように周囲の景色を歪んで映し出していた。


「『虚栄』の石か。脆いが、光の屈折率は高い。ま、悪くない収穫だ」


「……他人事だと思って……。僕の肝臓が……いや、魂が保ちませんよ……」


 久遠は涙目で訴えるが、メルは我関せずと尻尾で石を転がしている。


「何を言う。お前が選んだ道だろうが。さっさと片付けろ、まだ夜は長いぞ」


「……この、スパルタ猫」


 久遠はふらつく足取りで立ち上がると、再びカウンターの中へと戻っていく。

 文句を言いながらも、その背中には、職人としての静かな誇りが滲んでいた。

 深夜の路地裏。

 迷える魂がまた一人、癒やしを求めてこの扉を叩くのを、二人は静かに待ち続けている。

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