沈黙の鍵盤と人魚の涙
指先が、凍りついたように動かない。
コンクールまであと一週間。それなのに、私のピアノは死んでいた。
スタジオの防音扉を背に、夜の公園のベンチに座り込む。
街の喧騒が耳障りだ。車の走行音、誰かの笑い声、コンビニの入店音。かつてはそれら全てが音楽の粒子に聞こえたのに、今はただの不快なノイズとして脳を突き刺してくる。
(もう、弾けないのかな)
幼い頃から神童と呼ばれた。期待に応えようと、指から血が滲むまで鍵盤を叩き続けた。
その代償がこれだ。楽譜を見ても、頭の中で音が鳴らない。私の世界から「音楽」が消滅してしまったような、恐ろしい空虚感。
冷え切った缶コーヒーを握りしめる。手の震えが止まらないのは、寒さのせいだけじゃなかった。
ふと、視界の端を黒い影が横切った。
猫だ。長い尻尾を揺らし、霧の立ち込める遊歩道の奥へと消えていく。
誘われるように立ち上がり、その後を追う。
霧が濃くなる。足音が吸い込まれるような静寂の中、不意に古風な街灯に照らされた扉が現れた。
『Bar Aurea』
聞いたことのない店名だ。けれど、扉の向こうから漏れ出る気配が、なぜか張り詰めた神経を撫でてくれるような気がした。
◇
カラン、コロン……。
扉を開けると、そこは琥珀色の光に満ちた異空間だった。
壁一面のボトルが宝石のように煌めき、カウンターの奥には、黒い和装のような服を着た青年が佇んでいる。
そして、先ほどの黒猫がカウンターの上で悠然と毛繕いをしていた。
「……いらっしゃいませ」
青年の声は、調律された楽器のように耳に優しく響いた。
その瞳を見た瞬間、息を呑んだ。黄金色。人間離れしたその輝きが、私の中の荒んだノイズを見透かしている。
「あの、ここは……」
「魂の渇きを癒やす場所です。……ひどい不協和音ですね」
「え?」
「貴方の中から聞こえます。何かに怯え、悲鳴を上げている音が」
図星だった。私はその場に崩れ落ちるようにスツールに腰掛けた。
「……音が、聞こえないんです。ピアノに向かうと、息ができなくなって。真っ暗な海の底に沈んでいくみたいで」
言葉と共に、堪えていた涙が溢れそうになる。
黒猫が「ふん」と鼻を鳴らした。
「典型的な『才能の窒息』だな。詰め込みすぎて、出口を見失ったか」
「メル、言い過ぎです」
青年――久遠は猫を窘めると、私に向き直り、悲しげに微笑んだ。
「貴方のその閉塞感、溶かして差し上げましょう。今の貴方に必要なのは、一度すべてを忘れて海に抱かれることです」
久遠は棚から蒼いボトルを取り出した。
さらに、小箱から取り出したのは、真珠のような光沢を持つ小さな結晶だった。
「『人魚の歌声』の結晶をひとかけら……」
彼がボトルの封を切った瞬間、強い潮の香りと、芳醇なアルコールの香気が漂う。
その匂いを嗅いだだけで、久遠の顔色が土気色に変わった。
「うっ……く……」
彼はカウンターに手をつき、荒い息を吐く。
美しい顔が苦痛に歪み、額にびっしりと脂汗が浮いている。まるで、私が感じている「息苦しさ」がそのまま彼に乗り移ったかのようだ。
「だ、大丈夫ですか……!?」
「お気になさらず……。これが、私の務めですから……っ」
震える指先で、彼はシェイカーを振る。
シャカ、シャカ、シャカ。
その音は波の音に似ていた。激しく、けれど優しく、岩肌を洗う波のリズム。
久遠は吐き気を堪えるように目を固く閉じ、最後の力を振り絞ってグラスに液体を注ぐ。
「……お待たせ、いたしました。『深海のノクターン』です」
目の前に置かれたのは、深海のように暗く、底知れない青色のカクテル。
グラスの底で、人魚の結晶が微かな光を放っている。
震える手でグラスを持ち上げ、口に運ぶ。
しょっぱい。
涙の味だ。けれど、直後に濃厚な甘みが広がり、喉を焼き尽くすような熱が駆け巡る。
「…………!」
ドクン、と心臓が跳ねた。
次の瞬間、私は海の中にいた。
冷たくて、暗い、深い海。けれど、苦しくはない。
体中の力が抜け、重力から解放されていく。
あぶくとなって消えていく不安。
その静寂の底から、ぽつり、ぽつりとおたまじゃくしのような光が湧き上がってくる。
それは音だった。
私が初めてピアノに触れた日の喜び。母に褒められた時の旋律。
(ああ、私はただ、この音が好きだったんだ)
単純なことだった。誰かのためじゃない。自分のために弾けばよかったんだ。
青い光の中で、失われていた旋律が、再び鮮やかに鳴り響き始めた。
◇
目を開けると、涙が頬を伝っていた。
けれど、それは絶望の涙ではなかった。胸の中にあった鉛のような塊は消え、代わりに透き通るような清々しさが満ちている。
「……聞こえます。今の私なら、きっと弾ける」
自然と笑みがこぼれた。
久遠はまだ肩で息をしながらも、安堵したように目尻を下げた。
「それは何よりです。……その音色、大切になさってください」
「はい。本当に、ありがとうございました」
席を立つと、体が羽が生えたように軽い。
私は何度も頭を下げ、軽やかな足取りで店を出た。
外の空気は冷たかったが、今はそれさえも心地よいリズムの一部のようだった。
◇
「うぅ……頭が……割れる……」
客が去った後、久遠はカウンターの裏でうずくまっていた。
目の焦点が合っていない。完全に酒気に当てられていた。
「情けないぞ、久遠。シェイカーを振るリズムも最後はヨレヨレだったではないか」
黒猫のメルが、カウンターに残された青く尖った石を検分しながら呆れ声を上げる。
「うっさい……です……。あのお客さんの悩み、深すぎて……アルコール度数を上げないと、届かなかったんです……」
久遠は震える手で水を呷るが、顔色の悪さは変わらない。
「ほう。その甲斐あってか、上質な『焦燥』の石が手に入ったぞ。これなら賢者の石の、ほんの欠片の欠片くらいにはなるだろう」
「……欠片の欠片って、何ですか……」
久遠は恨めしげに師匠を睨むが、すぐに力尽きて再びカウンターに突っ伏した。
その横顔は疲弊しきっているが、どこか満足げでもあった。
「やれやれ。手のかかる弟子だ」
メルは短く鳴くと、丸くなって目を閉じた。
静寂を取り戻したバーの中で、古時計の音だけが、ゆったりと時を刻み続けていた。




