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雨音と銀のステア

 傘を叩く雨音が、鼓膜の奥で耳鳴りのように反響し続けている。

 時刻は深夜一時を回っていた。終電はとうになくなり、タクシーを拾う気力さえ残っていない。


「……もう、無理だ」


 濡れたアスファルトに、革靴の爪先が重く沈む。

 大手広告代理店に入社して三年。憧れだったクリエイティブの現場は、終わりのない修正指示と、クライアントの理不尽な要求、そして上司の怒号が飛び交う戦場だった。

 プレゼンは明日。いや、今日だ。なのに企画書は白紙のまま。

 胃の腑が鉛を飲み込んだように重い。ネクタイを緩めても、喉元の圧迫感は消えない。肺の中の空気が、じわじわと泥水に置換されていくような窒息感。


(逃げたい。でも、どこへ?)


 視界が滲む。雨のせいか、涙のせいか、それとも極度の疲労による幻覚か。

 ふと、路地の奥に温かな灯りが滲んでいるのが見えた。

 こんな場所に店などあっただろうか。

 吸い寄せられるように足を向ける。霧がかった路地の突き当たり、古びたレンガ造りの建物の前に、重厚なオーク材の扉が佇んでいた。

 真鍮のプレートには『Bar Aurea』と刻まれている。

 扉に手をかけると、カラン、コロン……と、懐かしくも澄んだ鐘の音が響いた。


 ◇


 扉を開けた瞬間、背後の雨音が嘘のように遮断された。

 そこは、時が止まったかのような静寂に満ちていた。

 高い天井には星座を描いたステンドグラス。壁一面の棚には、琥珀色の液体が入った無数の瓶と、用途の知れない歯車や天秤が並んでいる。

 ほのかに漂うのは、古書とハーブ、そして焦がした砂糖のような甘い香り。

 真空管ラジオからは、ノイズ混じりのジャズが微かに流れていた。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの奥から、静謐な声が響く。

 そこに立っていたのは、一人の青年だった。

 黒髪を少し長めに遊ばせ、袴を合わせたような奇妙だが洗練されたバーテンダースタイル。整った顔立ちをしているが、その顔色は蝋細工のように蒼白い。


「……やってますか?」


「ええ。ここは迷い子たちのための止まり木ですから」


 青年――久遠は、カウンターの一席を掌で指し示す。

 ふらふらと腰掛けると、カウンターの上で毛繕いをしていた黒猫が、金色の瞳でじろりとこちらを見上げた。


「ふん。また随分と湿気た顔をしたのが迷い込んで来たものだ」


「え?」


 猫が喋った。幻聴だろうか。

 しかし、久遠は動じることなく、布巾でグラスを磨き続けている。


「メル、お客様に失礼だよ」


「事実だろうが。魂の摩耗率が限界突破しているぞ。放っておけば、明日には心が砕けて廃人コースだ」


 黒猫は器用に後ろ足で耳を掻くと、カウンターに寝そべった。

 久遠が私に向き直る。その瞳が、不意に黄金色に輝いた気がした。

 彼は私の顔ではなく、もっと奥深い何か――胸の内側を覗き込むように視線を固定する。


「……言葉にならなくても構いません。貴方の喉を塞いでいるその塊を、溶かして差し上げましょう」


 その言葉を聞いた途端、張り詰めていた糸が切れた。

 仕事への恐怖。期待に応えられない絶望感。誰かに助けてと言いたかった自分。

 とめどなく溢れそうになる感情を必死に飲み込む。


「……楽に、なりたいんです。もう、何も考えられないくらい」


 久遠は静かに頷いた。


「承知いたしました。では、貴方のための処方を」


 彼は棚から数本のボトルを取り出した。

 ラベルには文字がなく、代わりに不思議な紋様が描かれている。

 久遠がボトルの栓を抜くと、店内に不思議な揮発臭が充満した。アルコールの刺激臭なのだが、どこか花の香りに似ている。


「うっ……」


 久遠が口元を押さえ、苦痛に顔を歪めた。

 彼の指先が小刻みに震えている。額には玉のような脂汗が浮かび、呼吸が浅くなっていた。


「おい、店員さん? 大丈夫か?」


「問題、ありません……。これは、私の仕事ですから」


 彼は震える手でシェイカーを握った。

 美しい所作だった。だが、それは見ていて痛々しいほどに壮絶な光景でもあった。

 氷と液体がシェイカーの中で踊る音が響く。シャカ、シャカ、シャカ。

 そのリズムに合わせて、久遠の顔色はさらに青ざめていく。まるで、私の抱えている苦しみを、彼が代わりにその身で引き受けているかのように。


「くっ……ふぅ……」


 久遠は眩暈を堪えるようにカウンターに片手をつきながら、最後の素材を取り出した。

 小さな硝子の小瓶。中には、銀色に輝く粉末が入っている。


「『忘却の銀砂』を、ひと匙」


 彼がそれをシェイカーに加えると、一瞬、銀色の光が溢れ出した。

 最後のステア。

 そして、カクテルグラスに注がれたのは、夜空を液状化したような、深く透き通った群青色の液体だった。水面には銀色の光が渦を巻いている。


「お待たせいたしました。『銀河のサイレンス』です」


 差し出されたグラスを受け取る。

 指先から、冷たさと共に微弱な電流のような何かが伝わってきた。

 一口、口に含む。

 味覚への衝撃。冷たい液体なのに、喉を通ると温かい火が灯るようだった。

 ミントの清涼感と、完熟した果実の甘み。そして、決して不快ではない強いアルコールの奔流。


「あ……」


 視界が白く弾けた。

 気がつくと、私は満天の星空の下に浮いていた。

 重力がない。上司の怒鳴り声も、電話の着信音も、ここにはない。

 あるのは無限に広がる静寂と、星々の瞬きだけ。

 体が粒子になって、銀河の渦に溶けていく。

 ああ、自分はこんなに自由だったのか。

 凝り固まっていた黒い感情の塊が、星の光に照らされて、さらさらと砂のように崩れ落ちていく。


「……きれいだ」


 心の底から、そう呟いていた。


 ◇


 気がつくと、私は空になったグラスを見つめていた。

 店内の風景は変わらない。だが、体の重さは嘘のように消え失せていた。

 憑き物が落ちた、とはこういうことを言うのだろうか。

 不思議と、明日のプレゼンのアイデアが湧いてくる。あれほど怖かった仕事が、今はただの「課題」にしか思えない。


「ありがとうございました。……不思議な体験でした」


 財布を取り出そうとすると、久遠が首を横に振った。


「お代は結構です。代わりに、こちらを頂戴しましたから」


 彼がカウンターの上に置かれた小さなトレーを指差す。

 そこには、小指の先ほどの、歪な形をした灰色の石が転がっていた。

 いつの間に置いたのだろう。


「それは?」


「貴方が置いていった、不要な荷物です」


 よく分からないが、体が軽いのは事実だ。

 私は深く頭を下げ、店を後にした。

 外に出ると、雨は上がっていた。雲の切れ間から、月が顔を出している。

 足取り軽く、私は駅へと向かった。


 ◇


 客が去った店内で、久遠はカウンターに突っ伏していた。

 肩で息をするたびに、整った顔が苦悶に歪む。


「げ、げぇ……。き、気持ち悪い……」


「情けない奴だ。たかだかカクテル一杯で」


 黒猫のメルが、トレーの上の石を鼻先で転がしながら鼻を鳴らす。

 久遠は涙目で顔を上げた。


「師匠のせいですよ……! 僕が究極の下戸だって知ってて、こんな店を……」


「仕方あるまい。人間の魂の防壁を透過できるのはアルコールだけだ。そして、その苦痛こそが、石を精製する触媒になる」


 メルは前足で器用に石を弾いた。灰色の石は光を浴びて、微かに虹色の輝きを放っている。


「ふむ。純度は悪くない。『自己否定』と『重圧』の結晶か。これでまた一つ、賢者の石の欠片が集まったな」


「はぁ、はぁ……。あと何千個集めればいいんですか……」


 久遠は水差しから水を直飲みし、ようやく呼吸を整える。


「千里の道も一歩からだ、愚弟子。さあ、グラスを洗え。次の迷い子が来るぞ」


「……鬼」


 久遠は文句を言いながらも、その表情にはどこか安堵の色があった。

 彼は再び布巾を手に取り、静かにグラスを磨き始める。

 深夜の路地裏、0時にだけ現れる錬金酒場。

 今夜もまた、誰かの魂を癒やすために、看板の灯りが霧の中で瞬いている。

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