どうしてかしら
「屋上に登ってみない?」
小雨が降る真夜中、傘をさしながら空を見上げてユメはケンスケに提案した。ケンスケも同じように星の見えない空を見上げた。
「いいね、おそらく鍵が閉まっているけれど、試す価値はあるかもね」
濡れた路面を街灯が二人の為に白く輝かせている。
二人は出て来たばかりの雑居ビルの屋上に向かった。ついさっきまでは地下一階の物静かなバーで酒を呑んでいた。地下から屋上を目指すことが意味のある行動であり、与えられた試練のようだとケンスケは思った。
ユメは少し馬鹿なことをしてみたくなった。ケンスケを試したいという悪戯心も含んでいた。二人はもちろん酒に酔っていた。
エレベーターで最上階まで登り、二人は屋上に出る為のドアの前にいた。
「開くと思う?」
ユメはケンスケに身を寄せながら囁く。
「どうだろう? 開けるよ」
ケンスケは小声でユメに答えた後、ドアノブを捻って押すと、ドアは擦れた音を立てながら、すんなりと開いた。
「不用心だな」
「行きましょう」
ユメがケンスケの手を取り屋上へと誘った。ケンスケは躊躇うことなく屋上に足を踏み入れた。こうして二人は一つの世界、概念から切り離されて行った。
二人は今日、初めて地下のバーで出会ったばかりだった。ユメにとっては行きつけの店であり、ケンスケにとっては一見の店だった。ケンスケは小さな印刷工場の営業職で、新規開拓を任されており、客を求めて彷徨った結果、成果が上がらず、憂さ晴らしに立ち寄ったのがこのバーだった。ユメは化粧品販売をしており、仕事終わりに同僚とよく連んで店を利用していたが、同僚の移動や退社によって一人で来ることが多くなっていた。
二人は偶然にも隣合わせになり、たわいもない天気の話をして、最近のニュースの話をした。
「明日も雨ね」
「あっ、傘を営業先で忘れてきた。別にいいけど」
「熊が犬を咥えて逃げていったそうよ」
「熊か、腕の関節を決めてやれば勝てそうだけどな」
「それならいっそのことロメロを決めてやってよ」
「それって、どんな技?」
「機会があれば今度かけてあげるわ」
「いいね、お願いするよ」
二人が意気投合するのに時間はかからなかった。スクランブルエッグをつくるよりも楽な関係。
ケンスケの職場は年上の男ばかりで、女性は社長の姉が役員としているくらいだった。同年代の女性と接することの少ないケンスケは舞い上がらない訳が無かった。
ユメの方はというと仕事柄、接客相手は女性ばかりで、周りには男性社員もいたが目ぼしい人はいなかった。ユメは全力で持て囃されるのが久し振りだったので、すこぶる気分が高まっていた。そこに酒が入れば入るほど互いにたがが外れていくのは仕方ないことだった。
二人が時間を忘れている間に店はラストオーダーの時を迎えた。支払いはケンスケが持った。
ケンスケは大いに焦りながらも、連絡先を聞き出すことができないでいた。どうしてもスマートに切り出したかった。ゆえにタイミングを慎重に測り過ぎたのだ。
納豆の食べ方の話の後に連絡先を聞くのはちょっと、よく知らないサッカー選手の移籍問題の後に聞くのも、うーん。知ったかぶって語った日本経済の行末についての後に聞くのは論外。このように繰り返していくうちに連絡先を聞くに聞けなくなっていったのだった。
ユメの方は連絡先を聞いてこないケンスケに同じように焦れていた。会話の途中に携帯電話をわざと触ってみたりしたが、ケンスケは話題を切り替えたりする。ユメの意図を履き違えているようだった。まるで噛み合わない二人。
そこでユメは一計を案じた。このまま別れてしまえば二度と会うことはないかもしれない。ケンスケが連絡先を聞き出す時間を与える為と悪戯心から、この後二人で屋上に行ってみようと提案したのだった。
ユメは屋上の端まで歩いた。見下ろすと人影はないものの、路上には多くの車が縦列に並んでいた。
「あの車の持ち主達は飲酒運転で帰るのかしら?」
「どうだろう? 厄介な輩達だね。事故を起こすまで後悔しないんだろうね」
ケンスケもユメの横に並んで路上を見た。一台の車が勢いよく走り去って行った。
「今の見た? 危険運転よ! 危ないわ」
「危ない」
ユメが手すりに前のめりになったと同時に、手すりが壊れて、そのままユメは刺した傘とともに落下した。傘はユメよりゆっくりと落ちていく。
危ないと声を上げたケンスケはユメを掴もうと踏み出したが間に合わず、体制を崩してほんの僅かな時間を置いて同じく落下した。
ユメは一緒に落ちてくるケンスケを目にして、もし来世があるなら、プロレスラーになってみたいな、と思った。そして目を閉じた。プロレスを見るのは好きだったが、プロレスをしたことがなかった。なぜ好きなのにしなかったのだろうか? ユメは落下しながら自身に、二重に呆れた。今、考えるのがそんなことなんて。
ケンスケはユメとは異なり、終わりを受け入れる準備に入っていた。地面に叩きつけられるのは一瞬だ。痛みも一瞬だ。体の力が抜けて、小さく小さくなっていくような感覚に身を委ねた。
ユメは閉じた目をすぐに開いた。最後の瞬間を目にしてやろうと思った。目を閉じて終わるのは負けで、開けたままなら負けでも納得のいく負けのような気がしたからだった。
ユメの開いた目に入ったものは遅れて落ちてくるケンスケではなくて、ビーバーのような生物だった。
「ビーバー?」
ユメは心の中で呟いた。ケンスケの着ていたスーツが風に煽られながら落下してくるが、中身は空だった。ケンスケはビーバーだったの? ビーバーが化けて私に近づいて来たの? どうして? その理由を訊ねる機会がやってこないことをユメは残念に思った。
そんな二人を神は見捨てはしなかった。それは神の意志であり、気まぐれ。
ケンスケの体に衝撃が走った。それは地面に衝突した硬い感じではなかった。脳が痛みを和らげてくれているのかと思った。ばさっと網ですくい上げられたような、そして浮遊しているみたいな感覚。
かたやケンスケの知らない事実をユメははっきりと目に収めていた。落下途中に上からランチャーで撃たれたのだ。ランチャーから発射された物はネットだった。ネットが二人を包んだ後、下部が上手く閉まり風船ヨーヨーみたいな形になっていた。ランチャーを撃った者はハングライダーを操作していた。そして宙を器用に小さく旋回して着地した。
二人は地面にごろんと転がり、引きずりながら降ろされた。ユメは擦り傷程度で済んだが、ケンスケは全身擦り傷だらけになっていた。
ユメはすぐさまネットの口を開いて立ち上がった。ケンスケは状況が飲み込めずにネットに絡まったままユメの背中に声をかけた。
「助かったのか? どうして?」
「あなたはビーバーなの?」
ユメはケンスケを背に早口で質問をした。ケンスケは寒気がした。体が擦り傷でじんわりと傷んだ。
「ビーバー? おい! どうして僕は裸なんだ?」
ケンスケは状況がさっぱり飲み込めなかった。ユメも分かるはずがない。説明ができるとするならば二人を助けた者だけだった。
「とにかく服を着て! その後、状況を確認しましょう」
ケンスケはネットから抜けて、路上に散らばっていた服をかき集めた。ネクタイはズボンのポケットにしまい、シャツのボタンを閉めずにジャケットを羽織った。右足の靴下だけが見つからなかった。
「着替えながら見てたけど、これはどういうことなの?」
ユメは二人の恩人の方を向いて腕を組みながらケンスケに簡潔に話した。
「私たちはビルから落ちました。あなたはビーバーになりました。途中でハングライダーに乗った者にランチャーを撃たれて命を救われました。あなたはビーバーから元に戻りました。恩人は今、片っ端から路上駐車している車を破壊しています」
ケンスケは冷静になるように大きく息を吸い吐いた。
「一つずつ整理しよう。ビーバーというのはどういうことかな?」
「あなたは落ちてくる途中にビーバーの姿だったから」
ユメは破壊されていく車の方を見たまま答えた。
「ビーバーになったから服が体のサイズに合わなくなって裸になったということ?」
「そこまでは知らないわ」
「一応聞くけど、誰が助けてくれたんだ?」
「今、車のサイドミラーを噛みちぎった」
「あの怪物?」
「怪物じゃないわよ。大きいけど、ゴールデンレトリバーよ!」
二人の命を救ったのは巨大な姿のゴールデンレトリバーだった。
「行くわよ」
「えっ?」
ユメはゴールデンレトリバーに向けて一直線に進んだ。ケンスケは流されるままに後に続いた。目の前が信じられなくても受け入れるしか術はない。
「ちょっと、あなたにお礼言いたいのだけれど、車を壊すのを少しやめてくれるかしら?」
ユメは堂々とゴールデンレトリバーに声をかけた。ケンスケは犬が人の言うことを理解できるのかと、疑問を抱いたが、賢い犬が存在することを知っている。救助犬がまさにそうだ。
ユメの話では、道路の真ん中にあるハングライダーで二人は救われたのだから。
ゴールデンレトリバーはフロントガラスを破壊する前足を止めて二人を一瞥した。そして又前足をフロントガラスに叩き込み出した。
「ちょっと、人の話を聞きなさいよ!」
ケンスケはユメの行動に度肝を抜かれた。ユメは一度失くしたものなら怖いものはないという仁儀の人みたいな境地にいた。そして一度やってみたかった。
ユメはゴールデンレトリバーの喉元に会心のラリアットを決めた。
「ヒヒーン」
ゴールデンレトリバーが叫んだ。
「ヒヒーン? お前は馬なのか?」
ユメの一撃にゴールデンレトリバーは馬のような悲鳴を上げた。ケンスケは滑稽なことを口にして照れ笑いを浮かべた。馬なわけがない。いるのは、でかいゴールデンレトリバーだ。
「恩知らずが!」
ユメは確信を深めていた。これは現実ではないのではと。犬が言葉を返すはずがない。
ケンスケはこれも現実として受け入れようと心掛けていた。目の前が全てだ。
「喋れるのね、一応、助けてくれてありがとう。聞きたいことがあるのよ」
ユメは現実ではないのなら思いのままに振る舞ってかまわないと行動にでる。ケンスケは膝を笑わせながら見守ることを選んだ。
「どうして彼は一時ビーバーになったのかしら? 彼はビーバーなの?」
ユメは一度ケンスケに振り返ってからゴールデンレトリバーに質問した。
「あれは断じてビーバーではない」
ゴールデンレトリバーは律儀にユメの質問に答えた。
「じゃあなに?」
「ヌートリアだ」
「ヌートリア? そんなの一緒よ!」
「違う、完全に別種だ!」
「そんなことどうでもいいのよ!」
「ヒヒーン」
ユメは手を挙げてラリアットをする振りをした。ゴールデンレトリバーは馬のような鳴き声を又もや上げた。
「説明できるのか聞いてるのよ!」
「できる、できる。あれは二人とも人の大きさならネットが破れてしまう恐れがあったから男の方をヌートリアに一時的にしただけだ。お前をヌートリアにしたら戻った時に困ると思ったから男を選んだだけだ」
二人には理解できない説明だった。ユメを気遣う紳士的な姿勢は受け入れられても解せないものは解せない。
「意味がわからないわ、これは現実ではないのね?」
「意味なんてないからね、これは紛れもなく現実だよ」
ゴールデンレトリバーは勝ち誇ったように唸った。
「現実なわけないでしょ。もし現実なら、どうして助けてくれたの?」
「気が向いたからさ」
「よくもヘラヘラと適当なことを。あなたは何者なのよ!」
ゴールデンレトリバーは全くヘラヘラとしていなかった。むしろ誠実に答えているようにケンスケには見えた。
「君たちが言うところの」
その言葉は決定的で、全てをひっくり返すカード。ジョーカーだった。
「私が神だよ」
ゴールデンレトリバーが神? 神なら全てを思い通りに物事を決められる。納得しよう。さらに常識をぐちゃぐちゃに踏み躙れる。納得しよう。神が全てを司るなら、なぜこの世界の不運を消し去ってしまわないのか? 納得できない。
「あなたが神? 本当に? ならどんな理由があって車を壊しているのよ? きちんと説明してごらんなさいよ」
「理由などない。正確に言えば人には理解できないだろう」
「どうして?」
「人だからだ。お前は神ではないからだよ」
ユメは神というゴールデンレトリバーの態度に苛立ちを覚えた。恩知らずと罵られようと構わなかった。
「ヒヒーン」
ユメはゴールデンレトリバーにできる限りの力でラリアットを撃ち込んだ。ケンスケは二つの存在のやり取りを見聞きしながら納得した。ゴールデンレトリバーは神だと。ユメとのやりとりも人の目線で捉えたところで理解はできない。理解する意味がない。受け入れよう。あれは神さまだと。
「なにが神じゃい!」
「ヒヒーン」
ユメのラリアットの応酬は際限なく続いていた。一発くらうたびにゴールデンレトリバーは馬のような鳴き声を上げた。
二つの存在を見守りながらケンスケはゴールデンレトリバーとユメに手を合わせていた。
壊された車の持ち主が誰も現れないのは神の力が働いているからだろう。道路の真ん中にハングライダーがあっても問題なく、一台も車が通らないのもそう、ユメにラリアットをくらいながら鳴いているのも意味があるのだろう、理解できないけれど。逆説的に言えば理解できるが意味のないこともある。例えばひどい別れ方をした異性にふと悪気なく夜中に非通知で着信歴を残す者達。
ケンスケは願っていた。早く終わらないだろうかと。しかしゴールデンレトリバーとユメはいつの間にか団結していた。路上駐車されていた車は軽自動車以外は全て破壊され尽くしていた。
「体を動かすのはいいものね、無心になれる。これがネハン?」
「ネハンではない。お前は煩悩だらけだ! しかし体を動かすことはいいことだ」
「もしかしてこうなることがわかっていたの?」
ゴールデンレトリバーはユメの質問に答えなかった。
「太陽が顔を出したぞ、ラジオ体操でもしようじゃないか」
「なにが希望の朝じゃい!」
「モーモー」
「えっ?実は牛なの?」
ユメのラリアットを受けてゴールデンレトリバーは満足したように二人を置いて歩き出した。十メートルくらい離れてから全速力で駆けて、そして見えなくなった。ケンスケは神さまが残した最後の鳴き声が馬ではなくて牛だったことが少し気に掛かった。
「馬頭と牛頭的なことだろうか?」
「なによそれは? 狛犬的なやつ?」
「わからない、でも、あぁ考えても仕方がない」
道の真ん中に残されたハングライダーの横に椰子の実が転がっていた。それをユメが拾って、ラガーマンみたいな動きで走り出した。ケンスケはそれとなくハカを踊ってみたがユメは見ていなかった。頬を掻いた後、ユメの挑発に乗ってケンスケは追いかけた。後ろからタックルをかましてやろうかと思ったが、もっと大胆な行動に出ることにした。
ユメを追い越して先回りしたケンスケは正面から抱きしめた。
「明日というか、今日は会社休むよ」
「私もそうする」
ユメはケンスケの胸に顔を埋めて身を任せた。
「タクシーで三十分くらいだから来る?」
「歩いて十分くらいだから私の家に来る?」
「お邪魔していい?」
「いいよ」
「家まで走って競争する?」
「しなーい」
ユメはケンスケから身を離した。ケンスケは優しく笑っていた。
「痛え」
ユメはケンスケにラリアットを撃ち込んで走り出した。蹲っている時間が惜しいケンスケは直ぐに持ち直してユメの後を追った。
振り返りながらユメは笑う。走りながらケンスケも笑う。二人と壊された車に朝日が柔らかく射していた。
そんな日もある。
私は最近よく思う事があります。どうしてこうなった? ということが。気にしない気にしないと誤魔化しながら、気になるんですよねーいろいろと。で、結果こんな話になってしまうのです。ではまた。




